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濫觴8

 局長室は静まり返った。

 静謐せいひつと共に、コトカの鼓動は治まることを知らない。動悸が激しい、呼吸もどんどん浅くなっていく。


「……そこから数年間、父も母もいないあなたは親戚夫婦に引き取られた。あなたの従兄弟がいるところね」


 カンラクは昔を懐かしむように語る。それだけでも、自分の失った年月の長さを思い知らされてしまう。カンラクがどこか遠くを見つめているのを、うずらは不安げに眺めていた。


「国家管理局ができて五年が経った頃、あなたはいきなり倒れたの。……私はこう考えてる。『御伽のツケを払い終わった』んじゃないかって」


「ツケ……?」


「彼女は、あなたの幸せを願った。人一人の人生を彼女一人の記憶で保証するなんてできっこない。だからあの子は死んでしまった。……それでも足りなかったのよ、あの子の記憶を支払ってもあなたの幸せは実現できない」


「……もしかして」


 うずらがポツリと呟いた。


「コトカさんの記憶がないのはそれですか」


「おそらくね。コトカちゃんの記憶をもって完済することができた、のかもしれない」


 つまり、雪平コトカの記憶の仕組みとは。

 雪平御伽の願いは御伽本人の記憶を消費してもなお叶えることが出来ず、彼女は記憶を全て奪われ命を落とした。願いを叶えるのに足りない分の記憶はその張本人であるコトカから回収されることになるが、まだ幼かったため必要分の記憶を蓄えるために生かされる。


 必要な記憶が全て集まったあと一気に回収され、コトカは意識を失った。


「ほんのわずかな記憶を持っていたから奇跡的に虚とならずに済んだ。そう考えるのが妥当でしょうね」


 わからないことだらけよ、とカンラクは悲しげに微笑んだ。


「コトカさん……」


 硬直したままのコトカをうずらが心配そうに一瞥した。「具合でも悪いんですか?」


「わ、わたし…………」


 声が震えて、上手く話せない。だって、だって。


「ここまで教えてもらったのに、何一つ思い出せない……!」


 ギリギリ持ち堪えていた涙がどっと溢れ出した。経緯がわかればピンときて、全部記憶が戻るはず。そんな考えがどんなに甘かったか。強い期待は打ち砕かれ、残ったのは空虚な現実だけ。

 母親はきっと優しい人だったに違いない。

 そんなこと分かりきっているのに、その人が自分の母親であるという事実に馴染めない。コトカはそれが何よりも悲しかった。


 自分に向けられた数多の愛が、自分のせいで体をすり抜けていくような感覚。母がそれを知ったらどんなに悲しむだろうか。だって、「お母さん」なのか「ママ」なのか、自分がどう呼んでたかもわからないんだから。


 カンラクが懐から何かを取り出して、コトカに差し出した。日焼けでページは劣化し、表紙が褪せた水色になってしまった一冊の大学ノートだった。


 「育児日記」とタイトルが付けられている。


「あなたが生きていた証がここにある。たとえあなたが覚えていなくても、これは紛れもない事実なのよ」


 遺品整理のときに見つかり、いつかコトカが大きくなったらコトカに返すつもりだったという。


「思い出せないあなたを、誰も否定しない。私も、うずらも、あなたのお母さんも。あなたが今ここにいて、この日記を返せた。こんな幸せはないわ」


「……そうですよ、コトカさん。空っぽなら、また満たせばいいんです。満たせる楽しみがあるじゃないですか」


 ページを一枚一枚捲るたび、ぼんやりとした心地になる。たまに「乙ちゃん」なんて言葉があったりして、この日記に書かれている人物は完全に自分なのだと思い知らされる。


 そしてなぜだか、体が温もりに包まれる。

 記憶はなくなっていても体は覚えているのかもしれない。文字を追えば追うほど、誰かに優しく抱きしめられているかのような温かさが広がっていく。夏の夕暮れに降る雨のような温い涙が頬をゆったりと伝っていった。


「…………私の、お母さん、」


 雪平コトカは、その人生で最高の笑顔を見せた。


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