濫觴7
雪平は次第に壊れていった。
彼女はカンラクの忠告に耳を傾けず、ただひたすらに研究に打ち込んだ。不幸から、現実から逃れるように。
外側はいかにも健全で、病の片鱗すらみられない体だ。しかし内側が蝕まれていくスピードは恐ろしく速く、カンラクはどうしていいかわからなかった。
本当なら、無理矢理にでもこの研究をやめさせるべきだった。だが、所長に言ってしまった手前今更やめるなんて、と無意味なプライドがあった。何より、彼女を現実に引き戻してしまうことを恐れた。
ただ、そんな雪平にもわずかな希望は存在した。彼女の娘だ。曰く、育児日記を欠かさずつけているらしい。
産まれてから、今まで。時折パラパラとめくっては聖母のような微笑みを浮かべている。もちろん、それは彼女と彼女の娘だけの領域だから読もうなどとは思わない。
この間運動会に行った、新しいスカートを買い与えた、友達ができた、などなど。日記そのものは読んだことないが、彼女が口頭で伝えてくるのでもう読者になっているようなものだった。
「コトカにはね、後悔しない生き方をしてほしいの。自分の人生なんだから、自分が納得できないと意味ないでしょ? だから研究者になれとか、そういうのはしないんだ」
娘について語るときだけ、雪平は普通の母になれた。その娘が、母親の症状について知っているかどうかは怖くて聞けなかった。
「私が魔法を確かなものにしたいのも、コトカのためなんだと思う。社会のためと言いつつも結局エゴが勝っちゃうものよね」
「試験に合格させる魔法とか?」
違うよ、と雪平は笑った。魔法玉を指で転がしながら、温もりを持った柔和な笑みで。
「当たり前の平和を、当たり前に享受してほしいの。本当の幸せって、普通の平和が機能していることだと思ってて。世間が騒ぐような事件なんてない方がいい人生を送れるの」
「……なるほどね」
魔宝玉をひとつ割った。社会が良くなった。またひとつ割った。よりいっそう良くなった。
……全ての魔法玉が割れたとき、果たして本当にこの世は完全に善に満ちているのだろうか。
雪平コトカが今の自分たちと同じ年齢になる頃には答えがでているのだろうか。そのとき、私は何をしているだろうか。
今考えてもどうしようもないことに執着してしまうなんて自分らしくない。カンラクはパソコンの液晶画面に視線を戻した。
今日は近頃の研究結果を資料に起こし、結果から魔法玉の効果と社会への貢献度の相関関係を改めて明らかにしなくてはならない。仕事はやってもやっても減らないほど積み重なっていた。
そのことでいっぱいで、もっと大事なことを考えられていなかった。
魔法がおよぼす、人体への影響だ。
午後九時。とっくに業務は終了し、研究所は明かりひとつついていなかった。
真っ白な外壁も濃紺に染まり、まるで街に溶け込む奇妙な直方体だった。カンラクはここへ忘れ物を取りに来た。
研究資料は漏洩を防ぐためそもそも持ち込みが許可されていない、ならば何を置いてきたのかというと、一冊の文庫本だ。特別なものではない、ただの文庫本。なぜ日が沈んでから職場に戻ってまでそれに執着していたか、それは自身の読書習慣が脅かされてしまうと感じたからだ。夜寝るときは五分でもいいから本を読みたい。しかし読みかけが手元にないのは、キャミソールのストラップが服の下で肩から落ちてしまっているように気持ちが悪いのだ。
そんなわけで、睡眠時間が削れるという矛盾に気づいていながらも戻ってきたということ。
偶然だったが、もしかするとそれは必然だったのかもしれない。もしくは、文字通り魔法の仕業か。
「えっ……」
研究室の扉を開けると、わずかな光があった。外からではわからないほど、ほのかに光っていた。そしてその光の側にいるのは、雪平。
「ちょっと、何してるの?」
「あ………………水鶏子ちゃ……」
今にも消えてしまいそうな蝋燭のようなか細い声だった。夢のように淡い灯りが照らすのは、彼女の顔と魔宝玉たち。
「今何時かわかってる? コトカちゃんはどうしたの」
雪平は質問に答えることもなくぼんやりと、意識がどこか遠くに行っているような様子だった。
「魔法、魔法が、」
ひとつ、魔宝玉が割れた。
ふたつ、魔宝石を噛んだ。
みっつ、何かを忘れた。
よっつ、何を忘れたのかを、忘れた。
カンラクの背を冷気が走った。このままじゃいけない、と反射的に悟って雪平に駆け寄った。
「ちょっと、大丈夫!? いつからこんな風に篭ってたのよ! 起きて、早く帰るよ!」
「嫌ァァ!」
空気を切り裂くようなその声にカンラクは肩を跳ね上げた。それが雪平から発せられたものだと気づくのは少々時間を要した。
「私はッ! やらなきゃなの……! 嫌、嫌……!! 離せ……!
あなた、誰なのよ……!!」
「へ……?」
雪平はカンラクを親の仇を見るかのような目で睨んでいた。鋭い視線はカンラクの心を突き刺した。
「うっ……」
突如、雪平は呻き床に倒れた。指先が黒くなり、痙攣している。関節が逆に曲がりながら蠢いていて、何か別の生き物のようだった。
「ア、待って、待って…………私は……」
――――ああ、もう遅すぎた。
震えが止まらない。罪の意識が泡立つように膨れ上がっていった。
もう助けられない。
爪先、膝、腿と黒さが渡っていき、雪平はもはや人ではない何かになっていった。
それでも彼女は愚かにもがいて、机に手を伸ばして一つの魔宝石を掴んだ。もう止めようなんて思わなかった。これは彼女の、最後の足掻きだ。
浅くなっていく息の中で、雪平は確かにこう言った。
「どうかっ……どうか……! あの子……コトカだけはッ……。何一つ苦しむことがないように……!」
そして彼女は、魔宝石を飲み込んだ。
一面に広がるは、闇よりも深い黒。嵐のように唸る風がカンラクの心を騒がせる。カンラクは消化器を手に取って、「雪平だったもの」の後頭部を殴った。何度も、何度も。嵐が止むまでずっと。
静かな夜を取り戻したときには、雪平の姿も、真っ黒な恐怖も消えていた。
魔法は何よりも恐ろしい。だけど魔法のために、娘のために奮闘する一人の母親は、何よりも美しかった。
それから数ヶ月してカンラクは葦原研究所を去った。そして新しく「国家管理局」を創立し、魔法の意志を繋いだ。
わかったのは、たった二つのことだけ。
魔法は、その人の記憶と引き換えに使うことができる。奪われた記憶は魔宝玉となり、社会を良くするために使うことができる。
魔宝石を使いすぎると記憶がなくなり、使用者はやがて虚無の怪物に変化してしまう。
魔宝玉はmemoryとmagicを組み合わせて、「メモラジック」と名付けた。
そして魔宝石は、魔法を生み出した彼女の名前から、「御伽」と名付けた。
雪平御伽-ゆきひら おとぎ
雪平コトカの母。この世に魔法を生み出した張本人。享年28。