濫觴6
「あの、副所……いえ、カンラクさん」
研究所の廊下でカンラクの名を呼んだのは部下だった。たしか5年前にやってきた子だ、カンラクよりも雪平と仲が良かった気がするが、自分に一体何の用があるというのだろうか。カンラクは研究室に入ろうとするのをやめ、振り返って彼女に向き直った。
「なんでしょう、雪平に伝言?」
「いえ……。確かに雪平さんが関係しているのですが、その、カンラクさんにご用があって」
彼女は不安げに言葉を紡いだ。「彼女」と呼んでいるが、この子の名前は御中という。
「私に? 何か」
「はい。ええと……あの、最近の雪平さん、少し変じゃないですか? 変という言い方は適切ではないかもしれませんが……前と様子が違います」
御中はたどたどしかったが、言葉には芯があった。副所長のポストにいた人間と話すのに緊張しているのだろう、しかし主張そのものには自信があるように見えた。「というと?」とカンラクが問うと、彼女はだんだんと語気を強める。
「……お気づきに、なりませんか。近頃は彼女と仕事していませんが、そんな私でも感じています。カンラクさんは彼女の一番近くにいるのに……。雪平さん、明らかにやつれています。何かそちらの研究で問題があったのではないでしょうか」
「…………」
「ご迷惑でなければ私も協力を、」
御中が最後まで言い切る前に、カンラクは研究室の扉を開けた。
「確かに、あなたの言う通りかもしれない。でも大丈夫、二人でなんとかやっていけるから」
「でも」
カンラクは扉を閉めた。数秒ほど向こう側に気配があったが、やがて足音が遠のいていった。
「……もっと、別の言い方があるだろ……」
これは御中ではなく、自分に対してだ。扉を背にうなだれながら冷静さを取り戻さればならなかった。
中学生みたいな嫉妬だ、頭ではわかっていたが抑えることはできなかった。
カンラクにとって、雪平はたった一人の友人だから。自分にとって彼女が一番であるように、彼女にとっても自分が一番でありたかった。
ただそんなの、自分勝手な妄想に過ぎなくて。我ながら幼い願いだ。それでも、彼女の理解者になりたかった。寄り添って、包み込んで。
一度だけ深呼吸をして、自分のデスクに着く。消化するべきタスクは胃もたれするほど多い、こんな感情で手を止めてはならない。
タイピング音を止めたのは、扉の開く音だった。
「おはよ。早いね~」
何も知らない雪平は呑気に欠伸をした。彼女が来てもなおディスプレイから目を離さなかったが、「ふぁ~あ」なんて聞こえたんだから確認するまでもないだろう。
「おはよう。そこの資料、確認よろしく」
別のデスクに置いた資料の山を指差しながら、先程の御中の言葉が気になって、雪平の表情に目を向けた。
「……雪平……?」
「ん? なあに?」
彼女は明らかにやつれていた。化粧じゃ隠せないほどの隈が目の下を縁取っており、髪は手入れしてあるのかすら判別できなかった。白衣の下のシャツは皺だらけで、服越しでも以前よりずっと痩せてしまっているのが目に見えた。まだ若いのに、出立ちはまるで老婆のようだった。そんな彼女の無垢な微笑みはむしろ痛々しい。
「……どうしたの、その……ちゃんとご飯とか食べてる?」
思いもよらなかったことを目の当たりにすると、脳に浮かぶ語彙が異様に減ってしまうということを学んだ。雪平はふにゃっと笑っているが、こんな調子ではまともに生活できていないと思わざるを得ない。
「うん。食べてるよー。……っと、よし」
「……?」
雪平はポケットから小さな巾着を取り出し、手の上で中身をぽろっと出した。魔宝石だった。彼女は迷いなくそれを口に運び、咀嚼した。
するとどうだろう、さっきまでのくたびれようが嘘のように、みるみるうちに活力を取り戻していったのだ。まるで枯れてしまった花が雨でその美しさを復活させ、大輪を咲かせるような。
その瞬間が、ひどく恐ろしかった。
カンラクは背骨からすっと冷気が広がり渡るのを感じた。暑くもないのに肌から汗が滲み出ていく。
「ん? どうしたの?」
屈託のない笑みが恐怖になるだなんて夢にも思わなかった。敵意を向けられているわけでも、彼女が悪いことをしているわけでもないのに。
カンラクは禁忌とも言えるような、生への反逆を見た。世間は夢の若返りだなんて言うけれど、いざそれを目にしたらきっと誰もが恐れ戦くだろう。くすんだ肌が明るさを取り戻し、暗い瞳に光を灯し、細胞を末端まで操るかのように若返っていく、時間を逆行していく。たぶん、普通でないから不気味なのだろう。
「じゃあ、今日の朝は何食べた? ご飯? パン?」
声の震えを悟られないように、平静を装いながら訪ねた。普通の人間であってくれ、と願いながら。
「えぇーと……なんだっけ。忘れちゃった」
それでも彼女は笑っていた。