濫觴5
それから、雪平はより一層研究にのめり込んだ。
魔法研究はいわば趣味程度、普段の仕事の合間にやるといったスローペースなものだった。
しかし独身になったとたん所長に直談判し、通常業務と魔法研究に使う時間の比率を逆転させた。あまりに突然で身勝手なことだったから副所長のЯは決していい顔をしなかった。
それでも彼女の意志が尊重されたのは、元副所長であるカンラクの力によるものだ。魔法研究は雪平が主軸。カンラクはその助手にすぎない。形はどうあれ、雪平のやりたいように進められたのは自分のおかげだと思うと気分が良かった。雪平本人も、まるで命の恩人かのようにカンラクに頭を下げた。
「いいよいいよ。むしろこんな私でも力になれて良かった。研究はあなたがほとんど進めちゃってるからさ」
「水鶏子ちゃん……」
ただこれは建前で、少しでも夫と別れた悲しさを忘れてほしかったというのがカンラクの本音だ。口では「離婚できてすっきりした」なんて言っているけど、心の底ではどう感じているのかはわからない。
かわいい娘と没頭できる研究があれば、雪平はその間だけかつて愛した人の影を見つめずに済む。
その選択が、とんでもない悪夢を生むと知らずに。
「……で、要はそれが社会を良くするってこと?」
「それ」とカンラクが指差したのは、やはりあの美しい球体。傷一つ付いていない曇りなきそれの名は未だ決まってはいないが、雪平は瞳をその球体と同じくらい輝かせていた。
「そう! そうなの!」
雪平はうっとりと、これがいかに素晴らしいかをまるで大衆に向けた演説のようにカンラクだけに届けた。
「これはね。……魔宝玉って名前をつけたんだけど、安直すぎるかな? そうそう、これのおかげで世の中を良くすることができるんだよ!」
次早に話す雪平はプレゼントをもらった子どものようだった。満面の笑みを浮かべる彼女は、旦那に捨てられたとは思えないくらい素敵な女性に見える。
カンラクは口を挟まず、相槌だけで彼女の話を進行させた。
曰く、魔宝玉はガラスのような、宝石のようなよくわからないもので出来ており、割ると社会がほんの少し良くなる。
現に雪平は夫の不倫が発覚した際に魔宝玉を割ってしまったあと、口座に慰謝料と養育費の振り込みがあり、不倫カップルが自滅したのが証拠だという。
ただ、「良くする」手段をこちらが選ぶことは出来ない。
魔宝石が「任意の願いを自分のために叶える」のに対し、魔宝玉は「不特定の不幸を社会のために改善する」もの。雪平の件は極めて個人的ではないかと思われるかもしれないが、個人が「不幸」だと判定されれば改善対象になるという。例えば、道端で転びそうになった人を助けても社会のためにはならないが、転びそうな人本人が不幸であればそれを未然に防ぐことができる。要は心や体の福祉に良い影響を与えるということ。
「私の経験だけじゃ説得力がないから、試しにいろいろな場面で使ってみたの」
人が車に轢かれそうなとき、電車が大幅に遅延したとき、深夜に女性が歩いているとき、コンビニで万引きが起きたとき。などなどと、雪平は「不幸」を列挙していった。
「そしたらさ、やっぱり事態は良い方向にいったの。全部だよ、『全部』。偶然とは言い難いと思わない?」
「まあ……」
だとしても、そもそも雪平本人がそんな事故たちを目の当たりにし続けること自体が偶然とは言い難いと思うのだが。TVで見る犯罪とか、噂で聞く事故とか、そんなものに自身が当事者はおろか、目撃者になることもかなり稀なのではないだろうか。
それを正直に口にしたら、雪平は魔宝石をちらつかせてニヤリと笑った。
「そりゃ、“これ”を使ったからね。これで『こんなことが起こりますように』って願って、実際に起きたら魔宝玉を割る。そんな感じ」
つまり、自分で事故や犯罪を起こして自分で鎮めた、と。八百長ではないかと思ったが、仮にそうだとしたら発端である不倫騒動の説明がつかない。
「証拠不十分……だよね。私もそれはわかってる」
雪平は苦笑したあと、再びエンジンがかかったようで意気揚々と叫んだ。
「よし! まだまだ証拠集め頑張るよ! 水鶏子ちゃんはそれを文書に起こしてね!」
「えっ、私が?」
「そうだよ! 私、書類とか作るの苦手だからさ。持ちつ持たれつ、でしょ?」
雪平はニッと笑った。……上手いこと丸め込まれた気がする。
そんな経緯があって、カンラクたちは魔宝玉の効果についてより説得力を持たせるよう努めた。
それから数週間。
彼女は目も当てられないような姿でやって来る。
魔宝石……雪平が開発した、魔法を発動させるための道具。琥珀糖のような見た目をしており、食べるとほんのり甘い。任意の願いを叶えることができる。
魔宝玉……魔宝石を消費すると発生する球体。透きとおっており美しい。まだ全ては解明されていないが、破壊することによって社会の福祉レベルを上昇させることができることがわかっている。