濫觴
魔法が生まれる前。神蔵水鶏子――カンラクは葦原研究所職員として勤務していた。ちなみに、葦原というのは人名ではなく地名である。高天原中央病院の最寄り駅から五駅ほど離れた場所にそれはあった。
真っ白で巨大な箱とも形容できる研究所は、国との繋がりが強い割には極めて簡素だ。Яは常にその見てくれに文句を垂れていた。
自動ドアを通るとロビーに到達する。受付担当の職員が誰かと電話で会話をしていた。日時がどうとか、何やら切羽詰まった状態で対応している。カンラクは受付をスルーして電車の改札口のようなゲートに専用のカードをかざす。ゲートが青く光りながら開いた。
清潔な廊下を歩き、すれ違う扉たちの名前を確認する。研究員たちはそれぞれの分野ごとに部屋が違う。特に規模を拡大させているのはロボット工学の研究室だ。
「おはようございます、副所長」
「おはよう」
対面からやって来た研究員が彼女に向かって頭を下げた。副所長。それがここでのカンラクの立場だった。
最奥にある所長室をノックする。カンラクは呼吸を整え、覚悟を決めた。
「失礼いたします」
「やあ、神蔵さん。どうかしましたか」
所長の名は杣山という。見た目は五十から六十代ほどだが、杣山は実に七十を超えている。白髪の混じった灰色の髪が彼の研究者としての経歴を物語っていた。
ノンフレームの眼鏡越しに、衰えを知らない眼光がカンラクを射抜いた。
「これを、お渡しに来ました」
「……どういうつもりでしょうか」
退職願。
白の上にそう書かれた封筒を差し出した。
カンラクはこの職を辞めたかった。副所長という立場でありながら、この現状に不安を抱いていたのだ。理想を求めてこの研究所へやって来たが、ポストが上がれば上がるほどその不安は増していった。
「はっきり申し上げますと、この研究所は腐っています」
葦原研究所はどうしようもない施設だ。彼女はそう言いたかった。
所長が残した功績が数知れずだというのは、所長室に飾ってあるメダルや賞状たちが物語っている。そして本人の性格も非の打ちどころがない。誰からも好かれる心優しい人物だ。
しかし、だからこそだめなのだ。
「所長、人は時には残酷ともいえる厳しさも必要なのです。ですがあなたは優しすぎる。ここの職員たちはあなたに甘えています」
研究施設に限ったことではないが、国のトップの組織に属した人間には少なからず驕りの感情を持ち出すだろう。自分はすごいんだぞ、と。
だが、何事も驕りだしたら終わりだ。カンラクはそう考えている。そんな未熟な人間たちを所長は切り捨てないのだ。結果、ただ自分の地位に満足しそこでの成果を何一つ収めない者ばかりがここで勤務している。
「杣山所長の成功を自分の成功だと勘違いしている馬鹿もいるのです。あなたがこの現状を私と一緒に変えてくださらないというのなら、辞表を受け取っていただきたいの」
「ふむ……」
ただひたすらに時間に追われながらも研究に励む日々が愛おしい。なのに今はなぜだろう、副所長などという立場になってからそんな時間すらも奪われた。地位は素敵なものだ。しかしそれは同様に足枷でもある。
「私は真面目に研究し、そして真面目に研究する仲間と共に仕事をしたい。あなたは違うのですか?」
もし、この書類が無事に受理されたら転職するつもりだ。どこか別の研究所に行くのでもいいし、博士課程を修了済だから大学教員を目指したっていい。とにかく彼女は学びたかった。
杣山は「なるほど」とため息のように呟いたあと、にこりと微笑んだ。
「……なら、彼女と一緒に研究をなさってみてはいかがですか」
「彼女……? どなたですか?」
「雪平さんです。先日、面白いお話を聞きましてね……」
そのタイミングで、所長室の扉を誰かが叩いた。杣山が返事をすると、凛とした声が部屋に入ってきた。
「失礼します。……あっ、水鶏子ちゃん!」
思わず目を丸くしたあと、杣山を見やるとニコニコと笑みを浮かべていた。
「彼女はですね……。――魔法の研究を始めたそうなんです」
彼女の中で、何かが始まる音がした。