ハロー、メモラジック
二人の空気は先程の争いが嘘だったかのように穏やかだった。心の体温は上昇しつつあり、今まで溜め込んでいた苦悩や蟠りが一気に濁流となったあと、跡形もなく蒸発したような感覚がする。
まるでダム決壊のようだ、とうずらは思った。
物理的な痛みは何一つないのに、心の痛みは着実に刻まれていたという事実にうずらは自分でも驚いていた。自分が兵器であり、人形であることには変わりない。だが決してロボットの類ではないのだと思い知らされる。
しかし、人間のような心を持ちあわせているのは何かしらのバグだろうかと疑わずにはいられない。複雑な感情は判断を誤ることが多い。……今回のように。
仮に今日までの感情が全てバグでもかまわない。そもそも、生まれたときからバグを持ちあわせていた。失った右目が何よりの証拠だ。
どんなバグも一つ残らず「五味うずら」として受け入れよう。それが、私だ。
そう思うと、なんだか笑えてきた。今まで、特技や知識など「何か」を持っていなければ存在意義にならないと考えていた。だが、何も持ってない「からっぽ」でもそれこそが存在意義として認めることが出来てしまうのだ。
欠陥も、空虚さも、全部私が私であるために必要なものなんだ。
「うずらちゃん?」
コトカはうずらを不思議そうに見つめた。どうやら笑みが漏れていたらしい。
「なんでもないですよ。こんな風に不満をぶちまけたことがなかったので、なんだかハイになってるんでしょうね」
「……うずらちゃん」
「はい」
コトカがうずらの両手を手に取り、まっすぐ彼女の瞳を捕らえた。
「お友達、なってくれる?」
「……はい」
そのとき初めて、うずらはコトカの満面の笑みを見た。いつもの困り眉な笑顔ではなく、心の底から嬉しさが込み上げてくるような。
そしてそれは、うずらにも伝染した。
麗らかな春のように、暖かかった。改めてうずらは自身の心の在処を知った。目には見えないけど、確かに自分の中にある、大切な感情だ。
その余韻に浸っていると、局長室に人影が入り込んだ。
「もう終わったかしら? ごめんなさい。あなた達のお話、聞いちゃった」
そう言ってにこやかに微笑む彼女は、この部屋の主だった。
「カンラクさん……」
あまりに突然だったのでうずらは数秒ほど呆然としていたが、すぐにはっと背筋を伸ばし立ち上がった。釣られてコトカも慌てて起立する。
「すみません! ただちに片付けますので!」
「ご、ごめんなさい!」
何も悪くないコトカもカンラクに向かって頭を下げた。
「いいのよ。そんなに急がないで。時間はゆっくり使わないと勿体ないもの」
局長室のプチ惨事には全く気にしていないようで、カンラクは「そんなことより」と、うずらにゆったりと歩み寄った。
「やっと気づいてくれてよかった。あなたは確かに生まない、失敗作かもしれない。でもこうして立派な局員として頑張ってくれてるわ。私があなたの仕事を非難したことがあって?」
「い、いえ……」
瞬間、うずらの頬がカンラクの両手に包まれる。陽だまりのように暖かい。
「わかったならよし」
「……はい」
ちらりとコトカの方を見やると、こちらを微笑ましそうに眺めていた。なんだか照れくさくなってそっぽを向いた。しかしその意図もバレてしまっているらしく、隣からクスクスと聞こえた。
「……さて、あなた達がちゃんと仲良しになれたのなら。我々が今まで何をしてきたかわっているでしょう」
カンラクの瞳がコトカを捕らえた。コトカの心臓がどきりと跳ねる。
「雪平コトカさん。あなたにはちゃんと話さないといけないわ」
「わ、私に……?」
「ええ。『どうして自分が』って思ってる?」
当たり前だ。
国家管理局のことは驚いた。病院の地下に研究室があったことも、うずらの正体も。だが驚いたというだけで誰かに暴露したり局を非難するつもりはない。自分にそんな権限はないからだ。
ただ、局の「秘密」を知ってしまっただけの一般人だ。口止め料を貰う価値すらない。……もしかして、知ってしまったら消される、とか?
「理由を教えてあげましょう。
――――あなたがこの国家管理局を作ったからよ」