It's me.6
そして今に至る。
「あなたの右目を私に頂戴!」
たった二人しかいない局長室はうずらの声がよく響いた。その声はコトカの頭を殴るように聞こえ、こめかみに一筋の汗が伝う。しかし彼女の答えは一つだった。
「ごめんね……。あげられない」
今にも消え入りそうな声色でコトカはうずらの要求を拒否した。記憶も個性もない、家族もいない。そんな自分の唯一の存在証明が自身の体だと思っているからだ。大切というより、貧しい人が最後の食料に固執するような足掻きでしかない。
心音がうるさい。
うずらが一体何を仕掛けてくるのか想像もつかないからだ。彼女が自分よりもずっと強いのは嫌でもわかっているが、ここで引いたらいけない気がする。自分にとっても、彼女にとっても。
しかしうずらは意外にも素直だった。「やっぱりね」といった諦めの表情で、コトカに悲しそうな笑みを向けた。
「わかってますよ、こんな申し出を受け入れる人はいません。……でもね、コトカさん」
うずらはコトカから身を引き、数メートルほどの距離を取った。だがコトカが安堵のため息をつく暇もなく、うずらに光が差し込んだ。
彼女の背に円が浮かぶ。細かな曲線たちがオレンジ色に発光し、その線から無数の棘のようなものが静かに姿を見せた。彼女の魔法陣だ。
「無理矢理奪うのも一つの手なんですよ!」
コトカの視線に眩い閃光が入り込む。それと同時に鎌のような風が大きく渦を巻き始めた。
コトカは目を瞑り、両腕で顔面を覆う。スカートが忙しなくはためくが気にするどころではなかった。
ゆっくり片目を開くと、光の雨が降っていた。
うずらの魔法陣から生まれる棘は千切れて珠になり、目を見張る速さで風を切って弾幕となる。夕陽のようなそれは次々に壁を、床を、破壊する。立ちこめる煙すらも光に照らされ幻想的だった。
……ああ、まるで虚の猛攻のようだ。
コトカの周りは轟々と音を立てながらその形を失っていく。床はめり込み、壁はヒビを走らせる。身動き一つ取れないまま豪雨の終わりを待った。
「命は要りません。瞳だけが欲しいんです。あなたがそれを承諾するまで私はやめませんよ」
ふふふ、と煙越しにうずらの笑い声が聞こえた気がした。彼女は自分を殺そうとは思ってはいないようだ。だが、床と壁のほんの小さな破片たちがコトカの生足に傷を付けているのは事実だった。それが顔……目に辿り着くのは時間の問題だ。
コトカの気管は粉塵にまみれたこの空気での呼吸を拒否した。それでも、彼女に伝えなければ。
思い切り吸い込み、雨音の中でうずらにも聞こえるように叫んだ。
「お願い、やめて! 友達はこんなことしないよ!」
「友達でなくて構いませんよ。……元からあなたが憎かった。からっぽのくせに、愛されているあなたが! それを自覚していないオマエが!」
弾幕が激しくなる。息もつけぬ速さで降り注いだ。うずらとコトカの距離はそれほど遠くないのに、コトカにとっては途方もない場所にいるように思えた。
「コトカさん、あのね。あなたがエメンタールな理由を教えてあげましょう! それはあなたが、穴だらけだからだ! 記憶もない、個性もない、家族はいないし友達も死んで仲間も次々に消えていく!」
「何もないのに、オマエだけは“居る”んだ!」
エメンタールチーズは製造中に炭酸ガスが生まれ、完成したころにはそれが穴となって仕上がる。
ぼこぼこと水玉模様を描くそのチーズはまさに雪平コトカだった。
「言いたいことがわかりますか。あなたは穴だらけだ! 文字通りからっぽだ!」
「なのになんで、あなたは存在する……? あなたがいなければ、穴そのものだったら、私はこんなに苦しくならなかった……!」