「だからあなたはエメンタールなんですよ」
「どういうこと?」
ギグルは柔和な笑みを浮かべた。彼女の飴玉のような髪留めが陽の光を受け輝く。
もし今が春ならば、鳥がさえずり花が咲き乱れる楽園のような庭だっただろう。
その輝きを放ったまま、この空間は静かに風を孕んだ。
「言葉通りの意味だよ。もちろんラボを裏切ろうなんて思っているわけじゃないんだ。ただ、わざわざ対立する必要ないと思う」
ペレストロイカもまた、楽園の住人のように微笑んだ。だが、彼のこめかみには冷や汗が伝っていた。
相手は長の一人娘。社長令嬢のようなものだ。そして自分は、ただの平社員。
ギグルとは仲間だが、やはりどこかで格差があった。仕方ない、自分はЯの実の息子ではないのだから。
そんな彼女に、組織の方針を変える提案をしている。反逆でしかない。だがそれでも、ペレストロイカは変えたかった。むしろ、なぜ今まで気がつかなかったんだろう。
「良心が痛んだとか、そういうのではないんだけど。……彼女は、敵である僕を救、う゛っ、っ……て……」
ドスリ、曇った音が響いた。快晴がみるみるうちに厚く黒い雲に覆われていくかのようだった。
そして、彼女の声はまるで雷鳴。
「何を言っているの?」
ギグルの拳は堅く握られていた。ペレストロイカはそれで腹を殴られたのだと悟った。枯れた芝生の上に倒れる。
「ぐ、はっ……」
たった一撃で骨が折れた気がした。惨めに血を吐き、ギグルを見上げる。
「お父さまの意思に逆らうってどういうつもり? わかんない。トロイカちゃん、失望したよ」
ギグル。たしか漢字は、義繰。
彼女は齢二十一にしては異常なほどの怪力の持ち主だった。
自分よりも大きい成人男性ですら殴るだけで仕留めることができる。
だから……。
「サヨナラ」
赤が弾けた。
「……うふ」
「シンウチも、トロイカちゃんも、マリヤも居なくなった。もうこれで邪魔者は居なくなった!」
マグマのようにこれまでの怒りと、そして笑いが込み上げてくる。
「……大好き」
「……大好きよ、お父さま」
・・・
真ラボ。その響きはどこか不気味で、神秘的だった。
「ねえ、うずらちゃん。どこまで行くの?」
「もうすぐですよ。隠れてるんです、ラボはね」
二人はただの街中を歩いていた。ビルの群れを進み、雑踏を縫う。
エメンタールもまた、この景色に溶け込んでいた。周りと同じように、何も違わないように。
____それでもみんな、知らないんだ。
この世界が魔法で支配されていることなど、少女たちがそのために次々と命を失っていることなど。
「……間違っていると思いますか?」
五味うずらが彼女の前を歩きながら問うた。目線はそのまま。
「何が?」
「我々の政治です。福祉も景気も、何もかもが豊かになって、だけどそれは魔法のおかげ。真の力じゃないんですよ。正しくない」
「……」
「その上、それを国民には話していない。騙しているといっても過言ではありません。それでも私たちは、幸福が欲しかった。みんなに幸せになってほしかった」
「……」
「でも、あなたのような、そしてギアーズのような人を幸せにはできなかった。満たされていても欠陥だらけ。穴の空いたバケツに延々と水を注いでいるようなものです。仮初の充足なんですよ」
うずらの声は淡々としていた。諦め、というにふさわしい。
それからは雑音しか耳に入らなかった。何も知らずに生きている者共の声が、ガヤガヤと、ガヤガヤと。
うるさかった。




