偕行9
ここから出たい。日を重ねるごとにその思いは強くなっていく。家にいたときはこんなこと思いもしなかった。それだけこの誘拐犯との生活が苦しい。
水面でもがく鯉のように、なんとか自身の生命を繋いでいた。汚い、暗い、寒い、恐い。
逃げることも出来ずに、初めの日から五か月が経った。季節も移ろい、寒さもましになっていった。
とはいえ、三月の空気はまだ冬の名残がある。長引く寒さに不安を覚えながら、十四歳になった日。
とうとう一線を踏み外した。
少しでも逆らうと突き付けられた包丁。男がトイレに立っている隙に、キッチンの引き出しからそっと取り出した。
細く骨ばった腕にぎらりと光るそれがある。成長期に十分な栄養も与えられず非力な見た目になってしまった体には、その奥深くに潜んでた殺意を現し始めた。
自分が人でない何かになっていく感覚だった。理性を失い、野生が芽吹くように湧き上がる。
親に反抗ひとつ出来なかった自分が、名前も知らぬ男を殺せるのか。そんな疑問も生まれたが、男の足音が近づくたびにその不安は霧が晴れるように消えていった。
やるしかない。
ガチャリ、と奈々助のいる部屋の扉が開く。殺意を向けるのは、虫も殺せないような顔。奈々助には逆らうことなどできないと思っているのだろう。実際、昨日まではそうだった。
醜く太った、身体能力もなさそうな丸腰の男。そんな彼を殺すのはあまりに簡単だった。その最中のことは思い出せない。それでも、手には肉に刃を食いこませて裂く感覚が濃く残っていた。
殺してしまった。ここまであっけないのなら、もっと早くにしていればよかった。
床一面に血糊が撒かれ、僅かな照明に照らされ濡れたように光る。握っていた刃物は男の腹に刺さったまま。
両腕は返り血で爪の間まで赤く染まっていた。水道は止まっているため、洗うことはできない。
外はテレビの砂嵐のような音が鳴っていた。すぐにその正体が雨音だと気づく。春先の豪雨はきっと、せっかく咲いた花たちを叩き落としてしまうのだろう。
――――そっか、雨で洗えばいいのか。ちょうどいい。
ドアノブに手をかけ、外を目指した。周りが汚れても関係ない。外の空気を吸うのはいつぶりだろうか。雨粒が入ろうと、大きく深呼吸したい気分だった。
「おや、」
扉の向こうの夜に向かおうとしたが、それは遮られた。奈々助の目の前に、夜と同じくらい黒い服を着た「誰か」が家の前に立っていた。その顔は確認できない。
「もしかして、君が誘拐されてた子?」
「……」
「こんばんは。僕の名前はЯ。……君を迎えに来たんだ」