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偕行8

 こんなに気持ち悪い愛の囁きは初めてだ。


 男の声は、地面に捨てられたガムを踏んでしまったときのように粘っていて鬱陶しい。眼鏡は所々白く汚れていて、その奥に映る瞳は死んでいた。両頬のにきび痕が目立つ。癖で潰してしまうのだろう。


「おい、なんだその顔は」


 さっきまで笑顔だった彼が突如表情を失くした。湿った空気が一気に凍り付いた。奈々助は露骨に嫌悪を顔に出していたらしい。


 やばい、と心臓が高鳴る。その音は体中を支配し、ライブハウスのスピーカーから聞こえる重低音のようだった。

 男はそんな奈々助に背を向け、ベッドとは反対方向のキッチンへと消えていった。


 ガチャリ、ガチャリとカトラリーがぶつかり合う音が響いた。そして銀に煌めく何かを右手に、奈々助の元へ戻って来た。


 紛れもなく包丁だった。刃は奈々助を向いている。はっきりとした殺意を目の当たりに、奈々助はベッドの上でずるずると両手で腰を後ずさった。壁の冷たい感触が背を走る。


 空気中の水分が氷の飛礫つぶてとなって、呼吸するたびに肺へ入っていくような感覚だった。だんだん息が苦しくなり、胸から体温が走っていく。


「次そんな顔したら、本当に刺すからね。わかった?」


 眼前の銀を注視しながら何度も頷いた。指が震え、左手の甲の火傷痕が生き物のようにうねった。


 男は奈々助を一瞥し、包丁を元に戻した。このとき、誘拐されたと改めて思い知った。


 この男との生活は父のもとで生きるよりも苦痛だった。家はある程度の生活水準が保たれていたのだ。衣食住が十分にあり、健康そのもの。だからといって精神的な虐待行為を無視しているわけではない。


 しかしここは違った。十分な衣類も食事も住居もない。服は自分の制服と、男のボロ布のようなシャツくらいしかない。部屋も狭く、いつ作られたものかもわからない料理を二日に一回ほど。


 仮にも愛しているならば、なぜこんな扱いをするのだろう。愛情の欠片もない行動が疑問だったが、奈々助は気づいた。この男は自分を人形のように見ているのだろう。

 人形は生活しない上、人に口答えもしない。壊れてしまったらまた新しいものを見つければいい。そんな「消耗品」。


 父は自分が消えてせいせいしているに違いない。捜索のために自分の足を動かすことすら厭うだろう。現に、この生活が二か月も続いているのだから。

 家では冷たい態度を取るがピンチのときには駆け付けるような、そんな創作まがいの親じゃない。現実という消毒液が自分という生傷に染みるようだった。


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