偕行5
母は程なくして亡くなった。亡くなる前の三週間は入院し、奈々助は毎日中央病院へ行った。景色が変わらない場所だった。強いて言うなら、花瓶の中身と母の様態だろうか。
治療法があるのかも不治の病なのかもわからなかった。漠然とした死の概念があり、それは一体どんなものなのだろうという好奇心が僅かながらにあった。それではいけないと思いつつも、日に日に肉の落ちていく彼女の姿を目に焼き付けた。
人はどんなにつらく悲しいことがあっても、心の奥底では微々たる高揚感が湧くらしい。奈々助はその知識を本から得た。そのことは母には言わなかった。
きっと、現実逃避ばかりに浸った結果、本当の現実を主観的に見られなかったのだろう。どこか自分と現実が切り離されたような、不思議で忌々しい感覚。
母親はいなくなった。通夜には大勢の人がいた。広くモノクロな空間で、通夜の後は寿司を食べた。
鯛のとろけるような甘さと醤油の塩気が混ざりあったとき、ようやく涙が溢れた。塩気はどんどん増していった。それを止めようと必死で米を奥歯ですり潰したが、無意味だった。
自分の話を聞いてくれる母はもういない。喉の奥が熱くて苦しい。それは母を失った悲しさか、母を亡くした自分が可哀想だからか。その両方か。
これが小学四年生の頃。そして、その数日後から父親の虐待行為が始まった。
「一人前の男になれ」
「いつまでも泣いているな」
「男ならしゃきっとしろ」
「女々しいんだよ、お前」
「本も捨てるぞ。こんなの読んで何になる」
「あいつもあいつだ。こんな愚図を生んだまま逝きやがって」
「お前、本当に俺の子か?」
「立花家の汚点だ。クソって意味だよ」
「なんでこんなやつに金かけなきゃなんねえんだ?」
「日本人って自殺者多いらしいな」
父親は奈々助を殴ったり蹴ったりすることはなかった。暴力は一切せず、言葉でじわじわと彼を締め付けた。虐待であることには変わらなかった。
中学一年生までこの行為は続いた。父の望む男にはなれず、卑屈さを増していくばかりだった。
こんな風に言われるなら、女の子に生まれたかった。
そんな思いが膨らんで、中学校の帰り道に古着屋で女物の服を買った。白地に桃色の花柄で、襟とベルトは黒い。裾には控えめにフリルが施されていた。後ろめたいので、買ったのはこれだけ。
しかし、そこには僅かな達成感があった。嬉しい、嬉しい。早く帰ってこれを着た自分が見たい。
家にあった全身鏡を自室に持っていき、服を着替えた。股下に風が通るようで違和感がある。肩も少しきつい。フリルの下から覗く脛毛だらけの脚が恨めしかった。
「何やってんだ、お前」