かいこうのこうかいとそのかいこう
雪平コトカは高天原中央病院にいた。その病室、かつて自分が臥していたところ。その空間は白く、どこか寂しかった。
院長の御中とコトカはそこで向き合う。隣には従兄弟の高木臣もいた。この定期検診も今月で十度目だ。未だ、局津乙との関係しか思い出すことは出来ていない。
「……学校はどう? 楽しいか?」
「はい。先生のおかげで」
「巣日のおかげだろう。アイツが私を説得してきたんだ」
「そうだったんですか? そういえば、今日はまだ」
「今日は別の患者につきっきりなんだ、ごめんな。巣日はカウンセリングのプロだから」
「えっ、あのオネェがっすか!?」
信じられないと言わんばかりに臣が声を上げた。コトカもそれには驚きだった。今まで、何も知らなかったから。
しかし、確かに納得だった。彼と話すと自然と心が安らぐ。胸中の不安や苦しみを全て受け止めてくれたのは彼だった。何も記憶のないコトカにとって、彼の存在は大きかった。
「そうだ。心療内科なら巣日は院長になれるに違いない。なんでこんなとこで看護師をやってるかは知らないけどな」
「そうだったんですね……」
「それでも、コトカみたいな患者は見たことないって言ってたぞ。口を開けばコトちゃんコトちゃんとうるせえんだ、コトカもガキじゃないのに」
愚痴を吐く御中にコトカは苦笑した。胸の体温が上がる心地がした。それと同時に、申し訳なさも湧いてくる。ここまで彼女を思ってくれる巣日に、御中に、臣に。何も進歩しない自分が腹立だしい。
どうして自分だけが。
その疑問が離れない。今でもきっと、同級生たちはこの幸せな世界で、笑って、家族に囲まれて、暮らしている。なのに、なぜ私は。
「……あの、臣さん」
「おっ、何?」
「お母さんとお父さんには、私は会えるかな」
「えっ……それは、」
「臣」
御中が鋭い声で臣を呼んだ。
「駄目だ、教えるな」
「……すみません」
申し訳なさそうに眉を下げたあと、コトカに両手を合わせた。彼の無造作に跳ねた金髪が揺れる。
「ごめんね。言っちゃったら、コトカちゃんの記憶が正しく戻らないかもだから」
「……そんなことは、知ってます。でも私、本当にこのまま何も思い出さなかったら……!」
「コトカ」
今度はコトカの名を呼んだ。焦る彼女を諭すように、御中はそっと頭を撫でた。
「お前が焦る気持ちもわかる。自分だけ何も知らないまま時間に任せて生きるなんて、考えるだけで酷に思う。だけどな、お前が忘れたものを無理やり返そうものなら、それこそ本当にお前は自分を忘れてしまう」
「……」
「それに、忘れられた人の気持ちを考えたことはあるか?」
「……!」
即座に過ぎったのは、乙の顔だった。
どれだけ寂しい思いをさせてきただろう。悲しい思い出に執着しても、コトカ本人が忘れてしまっているなんて。どれほど虚しく悔しいだろう。……考えたこともなかった。
「自分のことで精いっぱいだから、気づいてなかっただろうな。忘れることも悲しいけど、忘れられてしまうのも同じくらい悲しい。私はコトカに忘れられたくない。巣日も、臣もな」
「……すみません」
頬に温かい何かが伝っていった。ぴたりぴたりと手の甲に落ちてくる。コトカは思わず俯いたが、それでも御中は彼女の頭を撫でるのをやめなかった。そしてひとつ、ため息をついた。
「……ひとつだけ、教えてやろう」
「え……?」
「おそらく……いや、絶対。これがあれば、コトカは全てを思い出すだろうな」
コトカは涙を止め、顔を上げた。濡れた瞳が光に照らされ、きらきらと輝いている。
「お前の母は、ある日記を残した。
――……コトカについての日記だ」
「私……」
「お前が生まれたときから、ずっとな。今のご時世、子どもの健康や生活の管理なんて機械ひとつで出来る。それなのにお前の母親は古臭い手帳に、ペンを握って、自分の手で書いた。……育児日記を」
「……それは今、どこに」
「私の手元にはない。どこにあるかも知らない。
あれはコトカへの愛そのものだ。科学的な根拠なんて一切ないが、お前はそれを見つけたら絶対に思い出す。記憶も、母からの愛情も。
――――だから、探せ」
御中はゆっくりと、コトカに告げた。