あるまじき、さるまじき3
二十年前。国家管理局なんてものができる十年以上前のこと。
「Я。所長就任おめでとう。私も嬉しいわ」
「ああ、カンラク。ありがとう。葦原のために僕は頑張るよ」
それじゃあまた、と電話を切った。
若くして国最大の研究所のトップに君臨したЯは、数々の祝福を浴びた。ここに勤め続けみるみるうちに出世した彼なので、当然と言えば当然だった。かつて彼の上司だった者たちは、今では一人残らず部下となった。
出すぎた杭はもはや打たれることすら知らなくなる。
誰もが認める実力者。葦原が今の立場を存続できているのは彼がいるからだと唱える者もいた。医療を支え、経済を支え、教育を支え。世界的な賞を手にすることすら容易だった。
その代わり、所内では悉く孤立していた。彼も彼で、研究や論文執筆に時間を割いてばかりで誰かと友好的な関係を築く意欲もなかった。
ペストマスクで顔を覆った、孤高の支配者が彼だった。
カンラクと話したあと、定時で研究所を出る。雑踏にまみれた駅は夕暮れの哀愁さとは裏腹に忙しなく時間が流れている。
孤独なЯに唯一寄り添い続けたのはカンラクだった。同じ年に生まれ、同じ場所で育ち、同じ志を抱いた存在。そして彼らは同じ家に住むようになり、二人の間に一人の娘が誕生した。
本当は彼女のように育児休暇を取りたかったが、今の立場でそれは難しかった。
サイレンのように大きな声が、駅の改札口付近から聞こえてきた。
何人かの駅員と警察がコインロッカーの前で何かを抱き上げる。他の客はそれをちらりと見やるがまたすぐにホームへと去ってしまう。しかしЯは野次馬精神でそちらへ寄っていった。
――――……子どもだ。
赤ん坊の泣き声がそこから聞こえていたのだ。タオルのような布にくるまれた赤子がロッカーにいた。捨てられたのだろう。哀れだった。
そのまま去ろうとしたが、その赤ん坊の姿から目が離せなかった。日本人ではないような、白に近い髪。片方の目は青く、もう片方は白く。不思議な子どもだった。
だから惹かれてしまったのだろう。怪しまれないようマスクを外し、身分を提示しながら周りの大人たちに言った。
「すみません、その子はこれからどちらに行くんでしょう? もしあてがなかったら……。
私が引き取ってもよろしいですか」
前所長の命を奪い、その座も奪ったЯという男。
入れ替わるように一つの小さな命が彼の手に渡った。
名無しの赤ん坊は、のちに「更田真打」という名前を持つようになる。