精、聖、生3
その中は明るく、窓に垂らされた薄手のカーテンが空調で揺れていた。陽の光も差し込み、どこか幻想的な雰囲気だった。
こげ茶色の床板に真っ赤な絨毯が敷かれ、その上に二脚の革ソファがローテーブル越しに対面するように置かれている。客間だろうと聖司は思った。
「そこに座ってて」と聖司に指示したあと、Яは部屋を去り何か準備してくるようだった。見たこともない絢爛なソファに恐る恐る腰を下ろした。吸い込まれるかのようにふわりとした感触だった。
「先日買ったティラミスがあってね、飲み物はお茶でいいかな」
「はい……ありがとうございます」
戻って来たЯは彼の前のテーブルにティラミスとソーサーを置いた。
円筒のグラスに珈琲色とクリーム色の層が重なり、銀色のスプーンがちらちらとその色を反射している。ガラス製のティーカップには紅茶が注がれ、輝くような水色が僅かに揺蕩った。湯気は出ていないから、アイスティーだろう。
「……さて、君、お名前は?」
Яは向かい側に座り、聖司を見詰めながら問うた。マスクの奥に映っている瞳が僅かにきらめいたような気がした。
「伊原……」
そこまで言いかけて、言葉が詰まった。自分は今、聖司? 聖子?
どちらかなどとうにわかっているはずなのに、呪いは強かった。口が勝手に動き、その名前を言ってしまった。
「……聖子です」
名乗りながら、聖司は俯いた。紺色のスカートが目に入り、余計に涙が出そうだった。
しかし、Яは訝しげな様子で彼を見た。
「聖子? 男の子にしては、珍しい名前だね」
「えっ」
「……あぁいや、君の名前をとやかく言うつもりはなくてね、ごめん」
その瞬間、何かが解れたような気がした。
堪えていた涙が溢れ、壊れた水道管のように泣いた。
「あっ……すまない! 素敵な名前だ、僕なんてほら、Яだし!」
「すみません……違います、嬉しくて……」
「え?」
全てを話した。家族のことも、自分のことも、名前のことも。
その間、Яは真摯に耳を傾けながら頷いていた。
「……そう」
Яが初対面の人間をなぜここまで手厚く歓迎してくれたのか、そして聖司はなぜ初対面の人間にここまで自身を曝け出したのか、どちらも聖司にはわからなかった。ただ、唯一わかった感情は、
「ずっとここにいたい」
もうあんな家族のもとなど、学校など、行きたくなかった。説得はとうに諦めている。
「帰りたくないと?」
「……はい」
「――……聖司君は、とても可哀想な子だね。親の呪縛から抜け出せない、彼らの傀儡。
だけどもう大丈夫。君の人生は誰かのためなんかじゃない、君のためにあるんだ。それを阻む呪いなんていらないよね。
ややこしい名前なんて捨ててしまおう、今日から君は安名茉莉也だ。それ以外の名前は存在しない」
「やすな……まりや」
そしてЯは彼に右手を差し出し、声高らかに言った。
「君を地獄から引っ張り上げてあげよう。今日から君はホームの子、僕の家族だ。歓迎するよ!」
茉莉也はその手を握り、微笑んだ。
生まれ変わったということだ。