メモラジック・メメントモリ6
「本当に……いいのか?」
「はい。お願いします」
コトカは結んでいた髪をほどき、鏡の前に座った。散髪屋に来たかのようにビニールケープをかぶり、御中に鋏を握らせた。病室で髪を切れというのだ。
「わかった。上手くないかもしれないが……」
じょきり、
と、髪に刃が入れられた。コトカの一部だったものがぱさぱさと落ちた。
髪を切ろうと思ったのは、変わりたかったからだ。
二つに結わいたその髪型のままだと、悪い何かをずっと引きずってしまいそうで。乙との永訣のためではない、むしろ彼女のことは一生背負っていくつもりだ。彼女の人生によると、コトカは小学生のころからこの髪型だったのだ。それがなんだか、守られている象徴のようにも見えてしまって。
もう守られたくはなかった。今度は、自分自身が守る存在になりたかった。
乙の努力を無駄にするなど到底できない。髪を切るという行為が別れを意味するならば、これは弱い自己との別れだ。
「……できたぞ」
毛先は肩の上にあった。どうやっても治らない癖毛は相変わらずだが、ボブカットに仕上げられている。今までのか弱さはそこにはなかった。
「ありがとうございます。ばっちりです……」
顔にかかった髪を払い、コトカはケープを脱いだ。床に張り付いていた掃除用ロボットが起動し、落ちた毛たちを食べるかのように吸い取った。
「あ、そうだ。こないだ退院した患者にもらったものがあるんだ。ちょっと取り行って来る」
御中は急ぎ足で部屋から出たが、すぐに戻ってきた。嬉々とした表情をしながら白い箱を持っている。
彼女は、コトカの放った「乙ちゃんはもういない」という言葉を深く追求はしなかった。コトカがそれをしてほしくないように見えたのだ。
最悪の事態――死ならば、その旨が病院にまで入って来る。しかし、乙の訃報は一度も聞いていないのだ。
孤独で死んだまま、孤独で見捨てられないように。国家管理局の指示によって、国民は命を文字通り管理されれるようになった。行き過ぎた福祉のように感じたが、その命令を撤廃するための材料は誰一人用意できなかった。
ただ、目の前の小さな生命の行く末を見届けるのは、御中の使命でもあった。
「しんどいときは、甘いものを食うに限るからな」
箱を開け、付属していた白い皿に中身を乗せる。ベッドの脇のテーブルに置き、コトカに差し出した。
「桃……?」
ゆるやかな曲線を描く丸いそれは、薄い桃色とミルク色をした桃だった。カットされていないのにも関わらず、皿の上に熟した桃が、そのまま。
「そう見えるだろ? これで割ってみろ」
銀色のフォークがカチャリと皿の上に置かれた。コトカは言われるがままにそれを手に取り、おそるおそる果実に落した。
想像していた感触とは打って変わって、ふわりとしたものがフォークを通して手に渡った。ぱかりと割られたその中から、小さく角切りにされた桃のピューレがとろりと皿に流れる。
「もしかして、ケーキ?」
「そうだ、本物そっくりだろ」
スポンジの中に、クリームとピューレが閉じ込められていたのだ。コトカは思わず口いっぱいに頬張った。白桃のふんわりとした甘みと生地の柔らかさが多幸感を導く。
「おいしい」と言わずとも、表情に出ていたのだろう。御中が得意げに笑っている。
思わず泣きそうになるが、なんとか堪えた。この菓子がなくなったら、本当に新しい自分になるような気がした。それと同時に、悲しみに暮れている暇などないと悟った。
乙が臨むのは、コトカの涙じゃない。ましては乙自身の泣き顔でもない。……二人の笑顔だ。ならばもう、次にすることはわかっている。
乙が異形へ変貌した理由を突き止め、解決することだ。