空虚で満たす3
チェダー。
聞いたことがあるような、ないような。
エメンタールは唸った。国家管理局監視塔・東区の屋上。ビルの群れが青空の視界を邪魔する。
隣に立つゴーダは既に戦闘衣装に着替えていた。せっかちなのか、いつも敵が来ようが来まいが彼女は戦闘の準備を万全にしていた。エメンタールも彼女に合わせて着替えようかと思った過去があったが、「私のことは気にしなくていいから、あなたの時間を過ごして」などと言われてしまった。そうなると逆に、着替えづらい。
「すみませんゴーダさん……チェダーさんってご存知ですか?」
「! …………ハァ?」
まただ。また、「何を今更」な表情だ。そこまで広く知られている人物なら、誰か教えてくれたっていいのに。怪訝そうに眉をひそめるゴーダを見詰め、エメンタールは次の言葉を待った。
「あなた、仲良かったじゃない。違った?」
「えっと……その、本当に誰かわからなくて。でも、知らない人じゃないような気もして……」
「……そう。私はそこまであの子と親しいというわけでもないけど。無愛想で身勝手な子よ。そういえば、最近見ないわね」
「そうですか……ありがとうございます」
エメンタールは思案に耽った。
知らない人じゃない、というのはやはり気のせいか? それとも、忘れているだけ?
もしくは、
――――……また、記憶がなくなった?
「……いや、いや」
ふるふると首を横に振った。
ありえない。なぜ、特定の人物に関することだけが記憶にないのか、説明がつかない。御覧の通り、ゴーダを始めとするギアーズのことや、最近の授業などは全て覚えている。病院で目覚める前の話だったとしても、ギアーズという存在があるから矛盾してしまう。
引っかかるが、これ以上考えてもらちが明かないのでやめた。いつかわかるだろう、と漠然とした期待を胸に込めたのだ。
ゴーダを見ると、彼女は自身の武器の手入れをしていた。
彼女の鉤爪は特殊なもので、指先から細い刃が伸びているのだ。もちろん、計十本。それは約三十センチほどで、黒く鋭い。彼女はこれを使って敵を切り刻んでいるのだろう。
「それ、楽そうですね。ほら、私の鎌みたく手で持たなくて済むし」
「そうね。……でも、こんな皮肉めいたことはないわ」
「え? えっと、ご、ごめんなさい」
しまった、と思った。なぜ皮肉なのかはわからないが、刃を見詰める彼女の瞳には憂いが宿っていたのだ。話題にしない方が良かったもしれない、エメンタールは俯いた。
「ああ、あなたは関係なのよ、ごめんね。皮肉っていうのはね、この手で守れなかったものがあるからなの」
「……?」
ゴーダが日本にやってくる少し前……彼女の愛する父親が他界した。
父親といっても、そこに血縁はない。虐待児童だった彼女を、彼が引き取ったのだという。
自分を救ってくれた存在だからこそ、彼の死は彼女に重く、鋭くのしかかった。寿命や病死ならまだよかった。しかし、他殺。日本の暗殺組織が彼を殺したのだ。
これが、ゴーダが日本へやってきた理由――その組織への復讐を果たし、父親の仇を取ること。
ゴーダはそれを淡々と語った……思い出話をするかのように。
守れなかった、という事実で彼女は今、戦えている。確かに皮肉だとエメンタールは感じた。ただ、彼女にかけてもいい言葉が見つからなかった。