下
「なに、幽霊を見た? ……なるほど、標的は橘っちか。がんばってね」
「橘さん、幽霊に会ったの? いいな、私も昨日行っておけばよかった」
昨日会ったことは必死に話す私に対する部員達の反応は、非常につれないものだった。驚かれもせず、一緒に帰ろうとか大丈夫かとか心配の言葉をかけられもせず、ただ私を置いていく。
練習部屋で一人だけ違う場所に放った台本。それが今の私の実力で、他の部員との距離をそのまま表していた。
昨日のホラー特集で盛り上がる彼女たちを横目に、一つ溜息をつくと鞄を持ち直した。
……今日は数学のプリントが出ている。遊んでいる暇などないのだ。
「あら橘さん、もう帰っちゃうんですか?」
先輩方に軽く挨拶をし、高尚会館を出ようとしたところで金本先生と鉢合わせした。焦げ茶色のポニーテイルが一回、二回と揺れて止まる。
「ええ。ちょっと忙しくて」
「昨日のホラー特集の録画を見るので、ですか?」
この人もか。そうだった、金本先生は元々こういう人だった。にこり、とこちらを見る彼女に、私は溜息をついた。そんな溜息ばかりついていたら私より早くふけちゃいますよ、と言われ、ほんの少し頬を膨らませる。
「違います。数学のプリントが出たんです。先生みたいにテレビ見ている暇なんてないですよ」
ほんの少しだけ棘を含ませてから、台詞を口にする。しかし彼女はむっとした様子もなく、
「そうですか。私もそこまで時間があるというわけではないんですが」
と言った。素直に受け取らないで欲しい。否、わざと素直に受け取ったように見せたのか。その漫画だったらニコニコという擬音がついてくるに違いない、お日様のような笑顔はどこまでもまぶしく、逆にわざとらしい。
「そういえば知ってますか、先生」
私はもったいぶるように一旦言葉を区切った。
「この高尚会館の新聞部の部屋、出るそうですよ、幽霊」
さすがに一瞬、目が見開かれた。口元が少しだけ平坦に戻る。そうですか 今年もそんな噂が、と意味の分からないことを口走ると、一つ深呼吸をするように息を吸う。それからまた余裕の笑みを作ると口を開く。
まるで驚いたことをもみ消すような素早さだった。
「その幽霊、私が学生だった頃からまだここに住み着いているんですね」
今度はこちらが驚く番だった。先生もここの生徒だったのか。そして彼女の驚きが、私の想像していたものと違ったことに落胆する。
「まあ、伝統ですからね。昔亡くなった子どもを供養する母親ための場所だったとかなんだとか」
先生は何かを思い出すように高尚会館を見上げた。肩まであるポニーテイルの先を指に巻きつけては放している。
高尚会館は二階建て、町の公民館くらいの大きさだ。高校三年生の受験生の自習室用に作られた建物らしい。一階の畳の部屋は私達放送部が使う練習場となっている。私は先生と同じように、何かを阻もうとする壁の如くそびえたつその大きな建物を見上げた。
「私も放送部員だったんですよ。それはもう、実力もなく、やる気もない部員でした」
まあその後いろいろあって部長にまでのぼりつめましたけどね、と小さな自慢を付け加えるのを忘れない。
さすが先生だ――と苦笑いを浮かべようとして、しかし私の頬はそのまま動かなくなった。
――いろいろあって? 最初はやる気のない、成績も伸びない、その後急に伸びたって?
それは、穴里先輩と全く同じ話ではないか。一歩、思わず後ずさりする。気温が一気に下がった気がした。先生の形をした何かは私の変化に気づいていないらしく、
「では帰り道の暑さで脳を溶かさないように」
と言うと練習部屋ではなくその隣にある階段を上がって行った。二階の演劇部の練習でも見るのだろうか。
放送部内にあふれかえる何かに一つ、背筋を震わせた。
カランカランカランカラン、
と誰かが捨てた空き缶が転がっていく。
いや違う、と一人で何度も首を横に振る。
私には関係ないはずなのだ。幽霊、妖怪、魑魅魍魎、そんなものはこの世に存在しないはずなのだ。
しかし、何かヒトでないものがこちらを見ているような、そんな違和感があるのも事実……。
考え過ぎだろうか。
思わず振り返るが、もちろんそこにはオレンジ色がわずかに残った闇色の空に包まれる、古びた建物があるだけだった。
「橘っち」
不意に名前を呼ばれて振り返る。今度は恐怖心は特になかった。私をこう呼ぶのはあの幽霊話を話していた、あの上郷先輩だけなのだ。チェシャー猫のような、独特の笑みが広がる。金本先生がニコニコだとしたら、この先輩はニヤニヤである。
「《高尚会館の幽霊》に会ったんだっけ?」
「そうですけど」
簡潔に答える私に、先輩はつれないなあ、と言った。目が細くなり、口元がさらに上がる。何か悪巧みをしているときの顔だ。
「せっかくだからさ、今夜、その幽霊の部屋を覗いてみなよ。面白いものが見えるかもしれないよ?」
「いやです。穴里先輩や先生の仲間になるのはいやですから」
私の答えがなぞめいたものだったからだろうか、先輩は首をひねった。そりゃあ、同級生や顧問がひょっとしたら幽霊かもしれないだなんて考えたこともないだろう。しかししばらくして先輩はそっか、と言って両手を合わせる。何かひらめいたみたいだ。
「では私はこれで」
そんなあ、と言いつつもニヤニヤ笑いをやめない先輩に向かって、やはりそっけなくお辞儀をしてから、私は高尚会館を後にした。
「いや、さすがに二日連続とかありえないって……」
しかも今度忘れたのは例の数学のプリントだ。部活中に出した覚えはないのだが、どうせ次の大会の原稿を鞄から取り出すときにでも一緒に落ちたのだろう。
そうっと高尚会館の玄関を潜り抜け(今日も何故か鍵はかかっていなかった)左折、練習部屋に入る。いつも学生鞄を置いている場所に、やはりそれはあった。
左右を静かに見回し、何もいないと分かったところで部屋を出る。良かった、今日は何も出なかった。
そう思ったその瞬間だった。
パサ、
と小さな物音が私を凍りつかせた。
続いて、すーっとわずかに木と木がこすれる音。
……これは、障子を開ける音、だろうか。
そこで私は気がつく。
「二階の新聞部の部室って、確か畳じゃなかったっけ……?」
もちろん、扉は横にスライドさせる障子式だ。
耳をすますと、かすかな足音が聞こえてくる。
パタ、
パタ、
パタ、
背筋が一瞬で伸びる。ぞわ、と全身に鳥肌が立ち、眼球の表面が急激に乾いていくのが分かる。体感気温が急激に下がっていく。
パタ、パタと音が近づいてくる。私は思わず二階へと続く階段を見た。
視界の左端に、人影が映った。その影はどんどん大きくなり、形を成していき、そして――
「……なんでこんなところにいるんですか、先生」
現れたのは金本先生だった。ほっそりとした顔にこげ茶色のポニーテイル。もちろん、スリッパを履いた足がしっかりと地面を踏んでいる。先生はあーだとかうーだとか言葉にならない声を出すと、少しばつの悪そうな顔で斜め上を向いては頬をぽりぽりとかく。そのうち、観念したように溜息を一つつくと私の目を見つめた。その口元は少しほころんでいた。
「みつかっちゃいましたね」
「ごめんなさい、幽霊の正体は多分私です。ほら、橘さんってなかなか部内に溶け込めていないし、あまり練習もうまくいってないみたいだったから。ここ数日、ずっと上の部屋に閉じこもって一人会議してました」
先生はポケットの中から手のひらサイズの小さな箱を取り出した。ボイスレコーダーといって、声を録音するものなのだという。新聞部から借りたこれでこっそり私の声を録り、弱点を探っていたのだそうだ。途切れ途切れに聞こえてきた声は、先生の声と私の声だったのである。
「この顧問の部員研究会はほとんどの年であっている伝統でして。困っている羊ちゃんを影ながらサポートしようという試みなのです。それがいつの間にか、幽霊の噂になってしまったみたいですね」
既に私の学生時代からありました、と先生は苦笑いしつつ答える。謎の視線の正体も、私を心配そうに見ていた先生だったようだ。あまりに怖がっていたから、だという。
「しかし不思議ですね……? 毎年きちんと新入生には説明がなされているはずなのですが」
首をひねる先生に、私は目をさっとそらす。そうか、上郷先輩のあの話がそうだったのか。再び、先輩の高笑いが聞こえてくる。……似合うな。
先生は手をあごに当てしばらく考えるそぶりを見せた後、私の後ろに視線を向けた。
「部長さん、きちんと話したのですか?」
部長さん?
振り返ると、高尚会館の玄関の場所に黒い影がいくつも並んでいる。一つ、二つ、三つ……影は部員の数だけあった。
「あ、ばれちゃった」「あ、はい、でも橘さんだけ聞いてなかったみたいで」「橘っち、謎は解けたかな?」「橘さーん、なかなかいい驚き具合だったよー」「これから先生の特訓が始まるらしいから、がんばってねー」
その表情に盗み見、どころか人の鞄を勝手にいじくったという罪悪感はなく、手を振っている同級生までいる。
……いやな仲間達だった。
「良かったじゃないですか」
先生は部員達が後ろに来るように回りこみ、私の目を見て言う。続いて腕を広げると笑顔で彼女たちの方を指した。それはいつものニコニコしたわざとらしい笑い方ではなく、透き通るような、優しく教え子を見つめる微笑だった。
「あなたはちゃんと、放送部の一員ですよ」
「……はい!」
胸が大きく締め付けられる。しかし今日くらい、口元が自然と緩んでしまうのは許して欲しい。数学のプリントは……後で大急ぎでやればいい。今この瞬間には、もう二度と戻れないのだから。
私は一つ溜息をつくと、仲間の元へ走りだした。