上
また今日も遅くなってしまった。
夏休みも終盤となり日が沈むのが早くなってきたとはいえ、外はもう月が空を制してしまっている。西の空に微かにオレンジ色の光が残るだけだ。
教室のある棟は別の高尚会館を出ると、冷たい風が私を切りつけてそのまま去って行った。部室である放送室は狭いため、練習の際はここを使っている。創立当時からあるその建物はところどころにヒビが入り、何か別のモノがいそうな気配さえ感じられた。
「金本先生、どこ行っちゃったんだろ?」
「あー、またあそこじゃない? 若いのに大変だよね、まだ二十代って話なのに。……そう言えば聞いた? 今年もまた噂になってるらしいよ、《高尚会館の幽霊》……」
先輩たちはまだ何か話しているが、こちらとしては知ったことではない。早く帰って、宿題である古典の現代語訳を済ませなければならないのだ。
こんなはずではなかった。よくある台詞ではあるが、今の私にはこの言葉ほど相応しいものは無い。
中学時代、私はやたらと早口言葉を言うのが得意だった。それだけの理由で放送部に入ったのが間違いだった。半年前、入部届を「私できますから」風に提出した自分が恥ずかしい。
練習がまず私の体力と精神力を奪っていった。やること自体は発音練習と各個人の練習ぐらいだ。しかし、いざ行動しようとなると話は変わってくる。「ぱ」をひたすら繰り返し続けるものや、北原白秋の「五十音」という詩(「アメンボ赤いな……」のアレだ)の朗読など種類が多い。特に苦手なのは、「あ」の長音だ。
部長の澄んだ声とともに練習は始まる。
「(息を)吐き切って――――三、二、一」
「あ―――……っ」
たかが「あ」を口にするだけなのに、どうしてこうも息苦しくなるのか。すぐに肺が締め付けられるように痛くなり、声が出なくなる。先輩も他の同級生も一瞬こちらを見ては前を向き、声を出し続ける。
「橘さん、十秒しか続いていないよ」
三十秒でひとまず切り上げた部長が、ストップウォッチを見て言う。その光景が、何日も続いた。実際、今も続いている。十四秒しか声が持たないのは、部の中でも私だけだ。
しかし、あろうことか私はまだ「自分はいける」と思っていた。「本番には強いはずなのだ」と。
もちろん、そんなわけがなかった。
夏休み前に行われた大会で、それを深く味わった。小説内にある一節を読むだけなのだが、マイクの前に立った瞬間、足が震え、心臓が最高速度で動いていくのが分かった。ようやく声が出たが、激しく震えており、自分のものである気がしなかった。そこからはうまく覚えていない。
「最初ですからね、緊張もするでしょう」
ポニーテイルを揺らしながら、顧問の金本先生は優しく言う。
いつもは厳しい先生の言葉が、逆に刃となって私の心をつきたてていくのを感じた。きっと先生には嫌われてしまったのだろう、最近は人の二倍くらい注意を受ける。基本的なところから、自分でも気がつかないくらい些細なことまでそれはもう厳しく、だ。嫌がらせとしか思えなかった。
嫌な記憶を掘り起こしてしまい、一つ溜息をついた。最近、溜息が増えてきている。その目をそらしたくなるような事実に、もう一つ、息が漏れる。
ふと振り向くと先輩達はまだ話を続けていた。
「あー、幽霊か。毎年出るよねえ、その噂。去年は穴里だったっけ? 場所は今年も高尚会館二階の小部屋、なのかな?」
「うん、そうそう」
話に出てきた穴里先輩というのは、部員の中でもかなり優秀な人だ。顧問からのアドバイスに的確に応え、今も腕を上げ続ける努力家。驚くべき話だが、先輩も以前は私と同じように苦しんでいたのだという。部活をさぼることさえあったそうだ。そこから今の状態まで上がってきたのだというのだから、相当努力したのだろう。私には出来ないことだ。
「……一年生は知らないんだっけ? えっとね、普段は新聞部の活動場所なのだけれど、部員も帰り、私達放送部も解散した頃になると、誰もいないはずのその小部屋からうめき声が聞こえるんだって……」
人を弄ぶのが趣味の上郷先輩らしい、壮大な作り話が飛び出す。他の先輩達はにこにことそれを見守っている。同級生たちが先輩の話に惹かれ、集まって行くのが見えた。
馬鹿馬鹿しい。
私は「すみません、お先に失礼します」と言うと、一つ小石を蹴り上げ足を踏み出す。さて、早く現代語訳をせねば。
忘れ物をしたことに気づいたのは、家まで残り一キロメートルといったところでのことだった。そのまま帰っても良かったのだが、忘れ物が次の大会の台本となるとそうもいかない。ただでさえ遅れているのだ、家でも練習をしなければ他の部員にも迷惑をかける。
来た道を戻り高尚会館にたどり着いた時には、すでに真っ暗になっていた。鍵すらかけられてしまったかと思われたが、その扉はすんなりと開いた。事務の人がかけ忘れたのかもしれない。
練習場所は会館の一階。スイッチを押して蛍光灯に光をともすと、忘れ物はすぐに見つかった。
「……よし」
また宿題をやる時間が減ってしまう。古典は明日の一時限目にあるため、今日中にやってしまわねばならない。
――その時、部屋の中の温度が下がったように思えたのは、私の思い違いだったのだろうか。
その声はか細くも確かに、私の耳に入ってきたのだった。
「…たくしは……の……隣……たりとも……」
私ははっとして声のする方向――上、すなわち二階を見た。この上にあるのは――新聞部の使う小部屋だ。
呻くような、何かを憐れむようなか細い声は、女性の声でありながら男性特有の低い声のようにも聞こえ、大人の澄んだ声でありながら子供っぽい高さのある声でもあった。途切れ途切れに聞こえてくるその声は私の周りをうずまいていく。また一度、気温が下がったように感じた。
なぜ、こんな夜中に声がする? 先輩たちの声が蘇る。
――誰もいないはずのその小部屋からうめき声が聞こえるんだって――
いやいや、そんなはずは無いんだ。首を大きく横に振り、気を紛らわす。この世に幽霊? 笑わせてくれる。
「橘さ…は……ゃならな……から」
「ひっ……」
自分の名前がいきなり出てきたことに驚き、背筋が一瞬にして冷えた。腕を見れば、鳥肌が自分のものではないのではと思うくらい多く立っている。指で触れるとぶつぶつとした気味の悪い感触が伝わり、あわてて離す。
「代わりに……が……りましょう……」
後ろで何かが私をじぃっと観察するような、そんな視線を感じて後ろを振り向く。もちろん、そこには古びた、歩くと少しぎしぎしと音を立てるフローリングの茶色い床が広がるだけだった。雨漏りでもしているのか、ところどころが黒く変色している。
蛍光灯が私だけを照らし出している。まるで、獲物はここにいると宣言しているかのように……。
思わずスイッチまで走り、電源を切った。暗闇が訪れ、私の体にまとわりついていく。すぐに後悔した。闇は侵入者である私を受け入れてはくれない。固いはずのフローリングが沈みこんだように感じた。もちろん、下を向いてもただまっすぐな板目が規則正しく並んでいるだけだった。しかしその板目にさえ、私を監視する視線を感じる。あわてて目をそらした。その先、横を見ると、そこには透き通った少女が――
「……ひぃっ!」
思わず声が上がる。……よく見るとその正体は、ただのガラスに映った私自身の姿だった。
「なによ、脅かさないでよ……」
何かがイル気配はぬぐえない。誰もいないはずなのに、ただ自分を励ますべくわざと声を上げる。
そうだ、怖くない、怖くない……。
上から冷気が漏れているように感じられる。何かヒトでない者がこちらを見ている気がする。上と下をつなぐ小さな隙間から、赤く光る眼がじぃぃとこちらを……いいや、変な想像はよそう。
何か、違う考え事をしよう。
そこで私は、もうひとつの話を思い出す。穴里先輩だ。彼女は元々、アナウンスに関してうまくいっていなかった。部活をさぼっていた。しかし彼女は急に努力をし始め、その才能を開花させていった……。
私はそこで思わず首をひねった。
あまりにも話が出来すぎ、そして展開の急ぎすぎではないか? また、変な想像が浮かんでくる。……ひょっとして穴里先輩も、私と同じように忘れ物をした、もしくはそれ相当の理由があって夜中に高尚会館を訪れることがあったのではないだろうか。この、呻くような女性の声を聞いたのではないだろうか。そうだとすると……。
「あ、穴里先輩は……本当に、人間?」
成り替わり、すり替わり。そういった類のホラー小説は巷にあふれかえっている。そういえば、今夜はテレビでホラーの特番を放送する日ではなかっただろうか。去年の、鏡の中から手が出てきて引きずり込まれる話を思い出す。
「……そんなわけない、そんなわけない」
あわてて首を振る。暑くもないのに一筋、汗が垂れた。
そ、そうだ、早く帰ろう。帰ってしまえばこちらのものなのだ。きっと雰囲気やら先輩の話やらが頭の中で渦巻いて、変な妄想と幻聴を繰り返しているだけなのだ。ああ、先輩の高笑いが聞こえてくる――
「し……なきゃならない…はそれを一人で…私が……橘さんを……コ」
限界だった。
「――――っ!」
私は声にもならない声を上げると一目散に逃げ出した。
きちんと革靴を履けたのはわずかに残った理性のおかげだろう。鞄の中の筆箱類が大きく音を立て自分を脅かし続けた。外に出ても何かが小部屋にある窓から私を見ている気がした。見上げるそぶりを見せず、地面を見て走り続けたのは不幸中の幸いだった。ただのその地面さえぐにゃぐにゃと曲がっているように見えた。普段は背景として扱ってきた傍の木々達は大きくその枝を広げ、まるで覆いかぶさるかのようだ。
私は体育でもやらない全力疾走をおおいに見せつけ、校門までひたすらに走った。