表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/55

闇夜に輝く夜の蝶

「3月末で理子が退店する」


珍しく、ボーイ全員を集めた営業前ミーティングで増田店長は通常の業務連絡と何ら変わらないテンションのまま、その事実を知らせた。

海斗を含めて固まったままのボーイ達を尻目に増田さんはタバコに火をつける。

大きく煙を吐き出すと、


「さて、今後についてどうするか。取り敢えず、理子の指名客は他のキャストに引き継がなくてはならない」


「ちょ、ちょっと待って下さい」


ミーティングを続けようとした増田さんを坂東さんが慌てて止める。


「いつから…。いつから知ってたんですか?俺は何も聞いてないですよ」


坂東さんは呆然とした表情で増田さんを見る。


「夏頃だな。俺はずっと引きとめには動いていた。でも理子は大学卒業と同時にこの世界から足を洗う。すでに夏頃には某商社に内定を決めていた」


「そんな…」


ガックリと肩を落とす坂東さん。しかし海斗は予感を感じていた。理子さんが大学に通っているのは知っていた。理子さんは夜の世界でしか輝けない人ではない。そして他のキャストと馴れ合わない。理子さんの中ではこの世界も人生における通過点でしかないのかもしれない。今思えば夏のバーベキューの時もずっと増田さんと理子さんが話し合っていたのを思い出す。

増田さんが冷静に話しているのも、あの頃から話し合いを続けていたからかもしれない。


「坂東、キャストは永遠に在籍する訳じゃない。それは理子に限らずな。あいつの人生はあいつのものだ。俺らは送り出してやる事しか出来ない」


「それはわかっています。けど、理子はウチのナンバー1です。それも2年間で一度もトップから落ちた事はないんです。言わば店の顔です。俺はあの子がウチの店のブランドをここまで引き上げたと思っています。それに代わるキャストが俺には想像がつきません。店の雰囲気は確実に変わってしまいます」


「そうだな。だが、また新しいニューアクトレスが始まる事も事実だ。一つの大きな波が終わる。しかし、次の波が必ず来る。それを確実に捉えるんだ。その為に何が出来るかを考えろ」


増田さんは完全に切り替えていた。そして不敵な笑みが揺るぎない自信を感じさせる。それはどこか活き活きとした表情にも見えた。

海斗は今後について考える。しかし、この業界に入って1年と少し。この店以外の経験もない。どのような事が起こり得るのか予想が出来なかった。そしてその疑問をぶつける。


「増田さんからはあまり焦りが感じられないのですが、どうしてですか?」


「それはデメリットばかりではないからだ。確かに理子が抜けるのは売り上げ的にも痛い。だが、うまくキャストを誘導できれば長期的には今よりも売上げを伸ばせる」


「キャスト同士で競わせやすくなるからですか?」


「そうだ。今よりも確実にナンバー1へのハードルは下がる。そして不動の地位を確立するキャストはまだいないだろう。ナンバークラスのキャストは確実にお互いを今まで以上に意識するようになる。しかし、それに伴いキャスト間のトラブルも多くなる。だがな、それも含めて祭りだ。ククク、忙しくなるぞ。黒服の対応1つでそういったトラブルの火種が直ぐに鎮火するか、燃え上がるか決まるからな」


そう言って、ボーイ一人一人にプレッシャーを与える様にゆっくりと見渡す。


「まずは3月の営業だ。さっきも言った通り、理子の指名客に関して。ヘルプで着いたキャストの名刺交換、連絡先の交換を解禁する。この事は理子に了解を取ってある。よって、ヘルプもナンバークラスのキャストを優先的に付けるように。また、各担当キャストにその事を告知する事。くれぐれも理子の指名客だけだという事を徹底してくれ。また、理子が退店するまではあくまでも理子の本指名客だ。指名変えは4月からになる事も伝えるように」


「「はい!」」


「それから、3月は異動、転勤、昇進の季節だ。ウチの店は大企業の会社員や重役、社長クラスの顧客が多い。各自、担当キャストと顧客に対しての情報の共有を徹底するように。気付いたら転勤してましたとか、昇進してました、引退してましたなど絶対にない様に。いいか、ウチの店は会社ぐるみで付き合いのある顧客が多い。この部署の人には御祝いをしたのに、あの部署の人には無かったなどの噂はイメージが最悪だ。こういう事をキッチリと押さえておけば、たとえ指名キャストが退店したり、移籍しても変わらずに来店してくれる。くれぐれも顧客管理をキャスト任せにするなよ!」




そうして、怒涛の3月営業が始まった。


海斗の担当キャストで


会社員や公務員の指名客が多いのはリンと咲。


大企業の重役クラスの指名客が多いのは美香とミキ。


中小企業の社長や自営業の指名客が多いのはサラとナナ。


怪しい金融関係や飲食店経営者、IT企業の青年実業家などの指名客が多いのは杏奈。


顧客で人事異動の有無が予想される指名客が多いキャストは

リン、咲、美香、ミキ。


海斗はこの4人と重点的にミーティングを行い、送別会や昇進祝いなど漏れがない様にしていく。それは指名客のみならず、その上司や部下にまでケアしなければならず、

おかげで海斗は毎日のようにキャストの代わりに男物のブランド品を買い漁る日々が続いた。

ネクタイ、靴下、下着などの定番から、ゴルフウエア、ジッポ、ボールペン、メガネケース、パスケースなど。

海斗はキャストに頼まれるまま、指定された商品を購入し、後から精算していく。その過程で、1万円以上もするスマホケースが存在する事を初めて知った。


キャスト達は渡したプレゼントの金額をその日の売上バックで回収することにも余念がない。



それと並行して、理子さんの指名客の獲得にも力を入れる。

中でも入ったばかりのナナさんはまだ自分の指名客も少なく、理子さんの席に着く頻度が高い。太客を獲得する絶好のチャンスとなった。

また、客席以外ではあまり他のキャストと話をしない理子さんがナナさんとはよく話をしている。接客中も理子さんとウマが合うのか、その席が盛り上がり、そのままナナさんの場内指名が入る事も多い。



そして月末が近付くにつれて、毎日の様に客席は満席。常にウエイティング客がいて、カウンターにも入りきらない。普段なら他の店で時間を潰して空いた頃に戻ってくるのだが、今月はそうならない。


お陰で殺風景なエレベーターエントランスにもイスを置いて待ってもらうしかない。大企業の重役クラスの客にその様な対応しか出来ないほど、店内にも客が溢れかえっている。ウエイティングのお客様には制限なく好きなドリンクを提供して、失礼を詫びるしかない。

そんな状況ではボーイの数が全く足りない。気まぐれな優矢君も、週末のみ出勤の洋子さんも今月だけは毎日オープンラストで出てもらっている。


それでも足りないので、優矢君が友達を連れてきた。その男の子は、ひたすらグラスを洗って拭いてを繰り返した結果、洗剤で手の皮がボロボロになってしまっていた。



そして今月は、昨年の夏の忙しさの比では無かった。

しかし、西野さんを始め、山田君や秋山さんが確実な仕事をしてくれていたお陰で、トラブルは意外に少ない。

山田君と秋山さんの成長が著しいのに加えて、西野さんの仕事に散漫さが減った。

西野さんの担当キャストは秋からC、Dランクばかりとなった。指名客も少ないので営業中にキャストから業務連絡的な事を言われる割合が極端に減った。さらにキャストからの不平不満は秋山さんも聞いてくれる。

営業中、西野さんが何かの作業中は他の事をしっかりと山田君がフォローする。

お陰で、西野さんは一つ一つの作業を確実に行う癖が付いた。元々作業スピードは誰よりも速かった西野さん。

それによって昨年夏よりも各ボーイの役割分担が明確で動きにムダがない。


その相乗効果で店に活気とリズムが生まれる。

ボーイ達がバタバタしていないので、満席にも関わらず、客席は比較的落ち着いている。

何度呼んでもボーイが来ないとか、慌ててオーダー品を持っていくといった事が無く、キャスト達も忙しいはずなのにあまりイライラしない。



そうして連日の忙しさに追われていると、あっという間に月末となり、とうとう理子さんの最後の出勤日が訪れた。

それは平日の火曜日だった。

先週末にほとんどの指名客がお別れに来ていた。それで華やかに辞めるのが普通なのに、理子さんは敢えてこの日を選んだ。


実は理子さんはこの2年間、毎週必ず決まった曜日に同伴してくれていた村上様というお客様がいる。それが火曜日。

この日、その村上様と同伴してきた。

そして、理子さんがドレスに着替える為、バックヤードへ行く。海斗は村上様をいつものVIP席へと案内した。おしぼりを渡すと話しかけられる。


「今日は理子が来るまで女の子つけなくていいからね」


「かしこまりました」


海斗は丁寧にお辞儀をすると、インカムを使い小声で付け回し担当の坂東さんへ伝える。


海斗はそのまま、客席で片膝をつき、ブランデーグラスにクラッシュドアイスをスプーンで山盛りにし、ブランデーを静かに注ぐ。

グラスの脚を持ち、軽くグラスを回してステアし、お客様の前へ。

その後、チェイサーグラスにミネラルウォーターを注ぎブランデーグラスの横へ添える。


海斗の一連の仕草をじっくり見つめた村上様は


「ありがとう」


と笑みを浮かべる。海斗が席を離れようとするとまた声をかけられる。


「ボーイさんはここに来て1年くらいになるよねぇ。立ち振る舞いが美しくなったね。見ていて気持ちがいいよ」


そう声を掛けられ、海斗はまた片膝に戻る。


「恐れいります。まだ、至らない点ばかりですが嬉しく思います」


海斗がお礼を言うと、村上様は独り言のようにしゃべり始めた。


「僕はねぇ、2年間毎週ここに来てた。最初は理子に会うためだったけど、だんだんこのお店が好きになったんだ。いつもの席で、理子がいて、スタッフさんがいて。僕はこの店のインテリアの様な存在になりたかった。この店の空気が好きなんだ。でも今日でその日常が終わる。けどね、理子がその大切な日を僕にくれたんだ。最後まで日常を通してくれた。きっと僕なんかより社会的に偉いお客さんや、お金をたくさん使うお客さんがいるはずなのにね。素直に嬉しかった。あの子は最後まで最高の女だったよ。そしてこの店もね。いつもありがとう」


そうして、ブランデーを口に含み、至福の表情をする。


海斗はなぜか突然、涙が溢れた。慌ててその涙を拭う。


「あれれ、どうしたんですか?ボーイさん」


「すいません。急に理子さんが今日で最後だと実感してしまって。振り返ると、私にとっても日常でした。毎週この時間のこの席に村上様がお座りになって、その横には理子さんがいて…。そのお二人の姿がとてもかっこよくて。その光景を見る度に、この店の従業員であることを誇りに思っていました」


海斗はいつも考えていた。理子さんがなぜ特別なキャストと呼ばれるのか。他のキャストと何が違うのか。

その答えに今、たどり着いた。

自分を魅力的に見せるキャストや、華やかな席に出来るキャストは沢山いる。理子さんももちろんその才能はズバ抜けている。

でも、理子さんが最も長けている所は、


理子さんの隣にいるだけでどんな男性も周りから見てかっこよく見せる事が出来る。


それがどれほどの事なのか海斗は気付いた。

そして今日、その姿を見る最後だということも。

涙を拭うために少しだけ俯き加減の海斗の様子をしばらく黙って見つめていた村上様が、


「ボーイさん、一杯だけ付き合ってもらえるかな」


と、優しく語りかける。海斗は顔を上げ、頑張って笑顔を作る。


「はい。ありがとうございます。頂きます」


海斗は村上様の正面の丸イスに座り、グラスビールをオーダーしようと近くにいた秋山さんを呼ぼうとした。

すると村上様から提案される。


「一緒に同じお酒を飲まないかい?」

「よ、よろしいんですか?」

「なんとなく、ボーイさんとは気持ちが通じた気がしてねぇ。理子の魅力をちゃんと分かってるなぁって思ったんだよ」


そう言って、村上様はそばまで来ていた秋山さんにブランデーグラスを持ってくるように頼んだ。

すぐに秋山さんがグラスを持ってくる。海斗が一本百万円のブランデーを手に取り、少しだけ作ろうとすると、村上様がそのグラスを取り上げ、並々と作り始めた。そしてそのグラスを海斗の前に置く。

海斗にはこの一杯の価値に金額だけで表せるものではないように思えた。


「さ、乾杯」

「いただきます」


チンと高級なブランデーグラス独特の高い音が響く。

海斗は生まれて初めてそのブランデーを口にした。

芳醇な香りと重厚な味わい。

喉を通った瞬間、鼻からブランデー独特の香りが抜ける。

その素晴らしい一瞬に我を忘れて笑顔になった。それを見た村上様も笑顔になる。


「いい顔をするねぇ。この状況でそんな風にお酒を味わえるなんて素晴らしい事だよ」

「はい。とても美味しいです」

「良かった。ところで、ボーイさんのお名前は?」

「申し遅れました。筑波海斗と言います」


海斗は内ポケットから名刺を差し出す。

村上様はその名刺をまじまじと見つめ、懐にしまう。

その時、後ろから足音が近づいて来た。

理子さんの準備が終わったようだ。

振り向くと、シャンパンゴールドのロングドレスに身を包んだ理子さんが上品な笑顔で歩いてきた。通りやすいように少しだけ海斗が避ける。その肩先に触れるようにしてスルリと通り抜け、村上様の隣に座った。


「お待たせ。珍しいね、村上さんが女の子を付けないなんて」

「筑波さんと少し飲みたくなってね。お仕事があるのに引き止めてしまったんだよ」

「ふふ、村上さんはいつも海斗さんを褒めてましたもんね。どうしてだっけ?」

「ん?筑波さんは常にお店に同化してるからね。自然と自分の存在を消してるんだよ。いつも見てると、女の子やお客さんを引き立てようとする気持ちが感じられるんだ。だけど、今日は海斗さん自身の人間性を感じられる出来事があってね。なんか嬉しくなっちゃったんだよ」

「お恥ずかしい限りです」

「何があったのかしら。村上さんがリシャール飲ませるなんてよっぽどのことね」

「大したことじゃないよ。ねぇ、筑波さん?」

「いえ、お声をかけていただいて光栄です。とても素晴らしいひと時でした」


海斗は深々と頭を下げ、顔を上げるタイミングでチラリと山田君を見る。それに気付いた山田君が少しの間をおいて海斗の所にくる。


「海斗さん、店長がお呼びです」


小さい声でそう囁く。海斗は2、3回頷き、村上様の方を向く。


「今日は貴重なお時間をありがとうございました。名残惜しいですが、私は業務に戻らなければなりません。ご馳走様でした」


グラスを持ち上げ乾杯をし、席を立った。

理子さんが口パクでありがとうと笑顔を送ってきた。海斗は目だけで会釈をし、フロアに戻る。

山田君とすれ違い様に


「気付いてくれてありがとう」


と言い、少し押し気味になってしまった他の席の延長確認へ向かった。


その後、村上様は店で一番高いシャンパンをオーダーし、普段と同じ時間に帰っていった。




0時近くになり、1組の夫婦が来店した。よく見ると近くの寿司屋の大将だった。

いつもの白い板前の姿ではなく、結婚式帰りのようなスーツ姿で所在無さげに入口に立つ。

海斗がエスコートし、席へ案内する。

おしぼりを手渡すと、大将は豪快に顔を拭いた。隣で奥様らしき方が恥ずかしそうにたしなめる。


海斗は笑顔で話しかける。


「大将、ご無沙汰しております。今日は魅力的な女性をお連れなんですね」


「おお、海斗くん。久しぶりだなぁ。何だ、ちょっと見ないうちに男前になったな!あ、これうちのカミさんな。こんなババアに魅力的だなんてな。綺麗って言わないところが憎いねぇ。俺も今度うちの客にババアが来たら使わしてもおう。わはは」


「ちょっと、お父さん!みっともないから大声出さないでよ。お兄さん、すみませんねぇ」


「いえいえ、私も久しぶりに大将に会えて嬉しいです。お店にも食べに行きたいのですが、仕事があってなかなか行けませんので」


「おう、気にすんな。その分、女の子にはうちの店使ってもらってっからな。それに理子ちゃんが最後だって聞いてよ。俺よぉ、こんな高い店行くとカミさんがうるさくてな。いつもは安いスナックばっかりだからよ。でも、理子ちゃんはうちにいいお客さんを一杯紹介してくれたんだ。だから二人でお礼がしたくて来たんだけど、どんぐらいだ?10万で足りるか?」


「はい。大丈夫ですよ。増田店長にも話は通ってますから。ご指名は理子さんで宜しいですか?」


「おう、そうしてくれや、悪りぃな」


そんな寿司屋の大将夫婦を皮切りに、周辺の飲食店経営者が続々と理子さん指名で来店してきた。

みな、店を若い従業員に任せて、ちょっとだけ飲んで、シャンパンを開けてまた自分の店に戻っていく。

一人で切り盛りしている店のオーナーは早目に店を閉めてしまった人も多い。おかげでこの周辺で今日のみ臨時休業の飲食店が増えてしまったらしい。


深夜になり、近くのバーのオーナーが、理子さん指名で来店したが、多少の愚痴も混じっていた。どうやらこの辺で開いている店が少なく、そのオーナーの店も平日にも関わらず大繁盛らしい。なのに、これ以上遅くなるとウチの店が閉まってしまうと思って、強引に店を抜け出してきたらしい。

結局、30分程で従業員から電話があり、渋々帰っていった。


目まぐるしく客が入れ替わってしまい、通常の付け回しが全く出来なかったが、お客さんも納得済み。

みんな理子さんに対しての最後の挨拶と、今まで同伴やアフターで懇意にしてくれたお礼を言いに来ていた。




そして最後の最後に、ある人物が数人を連れて店前まで来たようだった。

フロントの優矢君からインカムが飛んでくる。


「店内取れますか?ウチの社長が橋本さんと一緒に来てます」


その瞬間、増田さんと坂東さんがピリッとした。

この街で橋本さんと言えば、北条組若頭補佐の橋本組組長の事。この繁華街を含めた複数の繁華街の裏側から圧倒的な支配力を持っている北条組の大幹部。そして橋本組長のお膝元の街がこの繁華街でもある。


すぐに増田さんがインカムで聞き直す。


「優矢、それってあの橋本さん?ウチの店に用があるの?」

「そうみたい。でも店の中では飲まないって言ってる。入口までだって。社長が理子さんを呼んでって言ってるよ」

「そう…か、分かった。とりあえず優矢も一緒に上がって来い。お前がいた方が断りやすいから」

「はーい」


そして増田さんが気合を入れ直し、またインカムを飛ばす。


「業務連絡、今から俺は一旦インカムを外すから。全ての業務を坂東の判断で行ってくれ。それから少しだけ理子を借りるかもしれない。その時はまたインカムを飛ばす」


「了解です」「了解です」「了解です」「了解です」「了解です」


次々に各ボーイが返事をする。


しばらくすると、エレベーターエントランスから声が聞こえてきた。

増田さんと優矢君で対応にあたっている。


何とも言えない緊張感がボーイ達の間に広がっていた。


すると突然、増田さんからインカムが飛んできた。


「理子を入口まで呼んでくれ。それから、海斗もちょっと来れるか?あ、インカムは耳から外してこいよ」

「わかりました。理子さんを連れて向かいます」


海斗が返事をした時には坂東さんが接客中の理子さんを抜いていた。

なぜ自分が呼ばれたのか疑問に思いつつ、理子さんを連れて入口へ向かう。


エレベーターの前には、社長、専務、常務と共に二人の男性がいた。一人は見たことがない恰幅の良い60代の男性。もう一人は小柄な50過ぎの男性。こちらはどこかで見覚えがあった。


海斗は増田さんの斜め後ろに立ち、頭を下げて挨拶をする。


「お疲れ様です。理子さんをお連れしました」


すると理子さんが恰幅の良い60代の男性に駆け寄り、親しげに抱きつく。

海斗がその様子を見ていると、増田さんに呼ばれた。


「筑波、紹介するから前に来い。こちらが橋本さんで、こちらが後藤さん。これがウチの筑波海斗です」


海斗は前に出て頭を下げると、恰幅の良い男性から右手を差し出される。それをしっかりと握り返し、

「筑波です。よろしくお願いします」


と言い、顔を上げると男性と目が合った。ほんの数瞬、そのまま向き合う。すると男性はにこやかに社長に向かって、


「中々、いい面構えじゃないか。どこから引っ張ってきたんだ?」

「いやいや、拾い物ですよ」


普段の威厳のある社長とは違い、気持ち悪いくらいの穏やかな笑顔だった。


続けて後藤さんと呼ばれた小柄な人とも挨拶をする。海斗はその時に夏のバーベキューの時に甚平を着て伊勢海老を届けにきた人だと気が付いた。


「君が海斗くんか。優矢から話は聞いてるぞ。頑張ってな」


後藤さんはとても気さくな感じで、海斗の肩をポンポンと叩く。


「ありがとうございます。頑張ります」


優矢君から何の話を聞いたのかは少し気になったが、何かを聞くような雰囲気ではなかった。


その後、改めて、社長、専務、常務にも挨拶をすると、増田さんがまた声をかけた。


「筑波は業務がありますので、今日はこのくらいで…、よろしいでしょうか」

「おお、増田くん済まなかった。いや、社長と飲んでたらどうしても筑波くんを見てみたくなってなぁ。こんな時間に悪い事をしたね」


橋本さんは笑顔で増田さんに軽く詫びる。

一瞬、増田さんと社長達が狼狽しかけるが、そこに理子さんの横ヤリが入る。


「おじさまは、私に会いに来てくれたんじゃないんですかぁ?でもごめんね、お店には入れてあげれないの。お店終わったら合流するから待っててね」

「分かった、分かった。お前に迷惑かけたら後が怖いからなぁ。もう行くよ。また後でな。あと、優矢、お前はちょっと付き合え」

「はーい。兄貴、ちょっと行ってくる」

「優矢、皆さんに失礼のないようにな。橋本さん、後藤さん、わざわざ足を運んでいただいたのに申し訳ありません」

「おう、気にすんな。立派にやってるじゃねーか。これじゃぁ流行る訳だ。ガハハ」


最後は貫禄たっぷりに大股で帰っていった。

エレベーター前で見送る3人。


増田さんはホッとため息をつく。

理子さんは小さくセーフのゼスチャー。


「理子、最後の最後ですっごいのが来たなぁ」

「危なかったねー。でも後で挨拶しに行かなきゃぁ。面倒くさいけど」

「済まん。俺も一緒に行くから」

「ありがとうございます。でも気にしないで。あの人達には私もかなりお世話になったから。それより、早く店内に戻らないと」

「おお、あとラスト1時間ちょっとか。俺もフロアに出るかな」

「あ!最後に増田さんのぎこちないトレンチ運び見たい!」

「だろ?よし、気合い入れて頑張るかぁ」

「おー!」


そして仲良く店内に戻っていく二人を慌てて海斗は追いかけた。




早朝に差し掛かる頃、本日最後の客を見送り営業が終了した。

そしてラストまで残っていたキャスト、ボーイ達に見送られ、理子さんは花束と大量の荷物を持って笑顔でこの業界を去っていった。



ある一つの伝説を残して。



それに最初に気付いたのは海斗だった。

閉店作業を終わらせ、誰も居ない更衣室の壁の成績表。

海斗は今月最後の書き込みをしていた。

売上欄の棒グラフを書き込んだ時、思わず笑ってしまった。


すでに今月の中旬時点で、理子さんの成績だけ紙を付け足していた。それが今日の売上で天井に届き、それでも足りない。そこから天井伝いに紙を折り返し、棒グラフを更に伸ばす。そして30㎝ほど行ったところまで伸ばしてやっと書き込みを終えた。


指名売上560万。


2番目のキャストでさえ200万に届いていないその成績表の光景に、しばらくその場に座って茫然と眺めてしまった。


しかし、その光景に気を取られ、ある重大な事実を見落としていた事にその時点ではまだ海斗は気付いていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ