杏奈さんの不満爆発
バーベキューから一週間が経ち、8月の営業も下旬となる。
この頃から店の忙しさは一段落し始める。
そしてキャストによって成績の差が顕著になりだした。
理子さんは相変わらず長い指名客と新規開拓した指名客のバランスがいい。きっと今月もNo.1は確実。
ただ、No.2の楓さんはバーベキュー以来ヤル気は回復したものの、一度疎遠にしてしまった指名客が戻ることはなく、先月忙しい時期に新規開拓を怠ったため、一気にTOP7から陥落する事が確定的になった。
そしてモエさんと杏奈さんはこの忙しい時期に上手く指名客を増やし、安定して上位をキープ。
ミリオさんは出勤が安定していないため出勤してきた時に常に自分の指名客への対応に追われてしまっていた。その結果フリー客を掴むチャンスを逃してしまった。ただしミリオさんは太客が多いため何とかTOP7には残っている。
そして最近成績が伸びてきたのはリンさん。
元々経験豊富でスタイルもいいし話術もある。最初は以前の店の雰囲気を引きずり、賑やかな接客で空回り気味だったが、ここ最近は客に応じて落ち着いた接客も身につけた。また男ウケのいい博多弁も高評価。その結果、場内指名の客が本指名で帰ってくる率があがっている。ただ、顧客にサラリーマンタイプが多いので細客が多いのが課題。
それでもリンさん自身、上昇志向が強く、海斗と海斗がまとめていた顧客ノートを参考に場内が入った客に対してどのようにアプローチしていくかミーティングを重ねて地道にコツコツと指名を増やしてきた。
このまま行けばTOP5入りも見え、Aランク入りはほぼ確実。海斗にとっても自分の担当から初のAランクキャストとなりそうだ。
そしてダークホースの咲さん。入店して2ヶ月半。今月もTOP10入りの成績が見えてきている。
しかし、団体客だとまだまだ個性が埋もれてしまったり、騒がしいノリについていけない。
その代わりピンでの接客に強みを発揮し、特にオタク系のお客さんからの人気がある。
まだお客さんにお金を使わせる事に抵抗があるようで折角お客さんが延長しようとしたり、ボトルを入れようとすると遠慮してしまう。
その謙虚さにハマってしまう客も多いのだが、咲さんが本当に申し訳なく思ってしまうため、ボトルを入れてもあまり嬉しそうにしなかったりする。
そのせいで折角延長したりボトルを入れたお客さんがガッカリしてしまっている様子も見受けられる。その事を伝えても自分に自信がないのか中々割り切りができない。
それから営業メールもどうしていいかわからず、上手く平日にお客さんを呼べない。
結果、指名客が週末に被る事が多く、楽しむつもりでお金を使おうと思って来た客が不満の残ったまま帰ってしまう事もあった。
素材の良さだけで指名には繋がるものの、お客さんが勝手に好意を寄せるだけになってしまっていて、上手く顧客をコントロール出来ていない。
指名客の数は確実に増えているのに売り上げに反映していかないところはまだ経験不足の感がある。
海斗もその辺のアドバイスが上手くできず、もどかしい結果となっているが、増田さんからはまだ焦らせずそのままで良いと言われている。
結衣菜さんは杏奈さんとの接客に強く杏奈さんの成績に比例して結衣菜さんの成績も上がっていった。まだまだ色恋営業は難しく、本人も面倒くさいのかしたくない様子。
自分の気に入ったお客やノリのいい客にしかやる気を見せなかったりするので指名客の傾向が杏奈さん以上に偏っている。
また、2人組で来る杏奈さん指名のお客さんのもう片方の客が仕方なく結衣菜さんを指名している場合もあるので、一概に指名客が安定しているとは言えない。
また、自分が楽しい席では強引に場内指名のおねだりをすることもある。増田さんからは結衣菜さんのヤル気を損なうこと無くちゃんと指導するよう言われているが、今の所海斗にとって一番難しい課題を突きつけられている。
海斗の担当である咲さん、リンさん、結衣菜さんとは十分ミーティングを重ね、忙しさからくる苛立ちに対して根気よく話を聞いたり、店に対する不満にその都度対応したり、疎かになりがちな場内指名が入った客に対してちゃんとメールをするように確認したり、時には世間話だけでミーティングを終わらせる事もしていた。
そうやって細かくコミュニケーションをとっていくうちに、出勤率、指名率、出勤時の態度、共に上昇傾向になっていった。
そんなある日、トラブルが起こる。またしても西野さんが原因だった。
フリーで入ってきた客に坂東さんが杏奈さんを付けた時にそれは起こった。
その日は8月最後の週末。キャストは成績との戦いの佳境を迎える時期。
忙しい中、杏奈さんが自分の指名客を見送ってすぐ次の2人組のフリー客に付く事となった。坂東さんは向かって手前側の客に杏奈さんを付けた。
手前側の客だった為に杏奈さんから席に着くまで客の顔が見えなかったのも問題だった。
席に着くとものの数分で杏奈さんが席を離れて坂東さんへ確認に来る。
「なぁ、あの客ってフリーなん?」
「え?そう聞いてるけど、誰かの指名客だった?」
「ちゃうねん、あんな、あの人、杏奈が前から連絡とってたんよ。なのになんで指名ちゃうのに付かなあかんの?」
「えっ!そうだったっけか。杏奈さん指名もらってた?」
「先月来て、場内だったけどな。でもずっと連絡とってたんやけど」
「ごめん、指名の確認はしたんだけどね。わかった、すぐ変えるからとりあえず戻ってもらえる?」
「もう!イヤや!何で西野は気付かんの?そんなんばっかりやん!西野呼んでよ!」
基本的にお客さんがフリーと言えばフリーなのだが、たまに悪質な客がいる。
それは目当ての子が居るのにあえてフリーで入る。そしてその子がついてくれれば指名代を払わずに楽しめる。そしてその子が席を離れそうになったらすかさず場内指名をする。
大体、飲み方をわかっていない金の無い客に多い。
これをやられるとキャストとしては本指名として認められない為、売り上げ成績にも加算されない。
基本的にそういう客に対しては店に来店した段階であらかじめ担当ボーイが付け回しやエスコートに前回誰が場内指名が入ったのかインカムで伝える。
するとエスコートは再度指名の確認をし、それでも名前が出ない場合は付け回しに伝える。
そうすると意図的にそのキャストはその席には付けない。
時たまあるのが、客が本当は前回、そのキャストを指名したくなかったのに、キャストが強引に指名をとってたりする場合や、キャストとの仲が拗れて客が指名を変える可能性もあるので、あくまで客の口から指名キャストの名前を言ってもらわないと店としても勝手に誰かの指名とはできない。
本指名の客は担当など関係なく複数のボーイが覚えている事も多いが、場内指名の客まではよっぽど特徴的な客でない限り担当のボーイ以外は把握しきれない。
今回は全く西野さんからその情報が入ってきていなかった。
前回場内指名が入ったのに今回フリーだった場合はそのキャストに状況を確認してから付けるべきかを判断する。それが情報がなかった為に杏奈さんに全くのフリーだと説明して付けることになってしまった。
また、その客が背中を向けて座っていた為に、席に着く前に杏奈さんが気づくことが出来なかった。
結局、それまで連絡を取り続けた杏奈さんの努力が水の泡である。客もフリーで入ると目当ての子が付かないと分かれば次回からちゃんと本指名してくれるかもしれないが、付いてしまっては客も味をしめる。そんな状態で次に本指名に繋げる為の接客なんて出来るわけがない。次は指名してねと言っても、指名しなくても席に来てくれるんだったらわざわざ指名料なんて払うわけがない。だったら杏奈さんも他のフリー客を接客したほうがよっぽど次に繋がる。店にとってもキャストにとっても全くのムダである。そして何より杏奈さんが先月からプライベートを犠牲にしてその人とのメールのやり取りをしていた時間も。
そして西野さんが呼ばれ杏奈さんとバックヤードへ入っていく。
が、元々声の大きい杏奈さん。バックヤードから声がダダ漏れだった。
「アンタなんなん?ちゃんとしてくれんと困るんやけど!」
「ごめんごめん。俺も入ってきたの気付かなくってさ〜」
「は?気づいてないんやなくて知らなかったやろ?」
「ん?何が?」
「杏奈が連絡とってる客がいるって話。前にしたやんか!どの客のことかわかってなかったんやろ!」
「え?いやいや、わかってるって。さっき入ってきたピンの客でしょ?」
「人おちょくんのもエエ加減にせぇ!」
杏奈さんがブチ切れた。バックヤードから物凄い音がしたので慌てて海斗が様子を見に行く。
すると、西野さんを空のビールケースでぶん殴っている杏奈さん。
海斗が後ろから羽交い締めにして止めると、今度はヒールで蹴りつける。
「ほんまアホらしーわ!何でこいつが担当やねん!担当ってなんね!」
「ごめんって!」
「うるさい!客は怒らすわ、覚えんわ、アンタ一体何が出来んねん!後輩の海斗さんに抜かれて悔しないんか!ハゲ!」
「杏奈さん一旦落着こう。お客さんに聞こえるから。西野さんも一回離れて下さい。ホールの方お願いします」
「で、でも…」
「いいから!業務優先でお願いします!今はホール長の指示に従って下さい!お願いします」
その言葉に渋々フロアへ戻っていく西野さん。
杏奈さんは今まで溜まっていた怒りが爆発し、このままでは仕事になりそうにないのでしばらく休ませることにした。
「坂東さん、坂東さん取れますか?」
「はい、どうぞ。そっちはどうなの?」
海斗は杏奈さんを見る。杏奈さんは悔しさなのか、やるせなさなのかポロポロと涙を流していた。海斗はティシュを渡し、じっと杏奈さんを見る。恥ずかしそうに目をそらしながら泣き続ける杏奈さん。
増田さんからもインカムが入る。
「どうなの?杏奈いけるの?海斗も早目に戻れるなら戻ってきて。フロアが回らない」
「了解です。5分で戻ります。杏奈さんも10分以内に戻します。少しだけ時間を下さい」
「了解」
暴れて乱れたドレス姿のまま泣き続ける杏奈さん。
海斗は解けた肩紐を直してあげながら話す。
「杏奈さん頑張ってるからね。わかってないお客さんに時間とられたくはないよね。その気持ちはわかるよ。西野さんに思うところがたくさんあるのもわかる。だけど今は営業中。杏奈さんもプロならわかって欲しい。杏奈さんを必要としてくれるお客さんはまだまだ一杯来てる。今日もこれから来店する予定のお客さんだっているはずだよ。頑張ろうと思うからこその涙なんだよね。だったらこの週末を無駄にしてしまえばその涙ももっと無駄になっちゃうと思うんだ。今日、このまま続けるかは自分で決めて。話したいことがあるなら終わった後でも必ず時間作るから」
そうして杏奈さんをじっと見る。少しだけ目が合った。海斗は柔らかく笑い、杏奈さんのセットした髪型を崩さないよう少しだけ抱き寄せて小さく「頑張ろう」とささやく。
それに戸惑いながらも小さく頷く杏奈さん。
海斗は離れ、バックヤードの出口から
「待ってるからね」
と言い残しフロアへ戻った。
フロアへ戻ると増田さんが声をかけてきた。
「すまんな。杏奈は大丈夫か?」
「はい。落ち着いたらすぐ戻ると思います」
「そうか、それにしても海斗もキャストのフォローが板に付いてきたな」
「いえ、あのまま杏奈さんに抜けられると困ると思ったんで」
「その判断も含めて成長したな。まだまだその辺は俺が動かなきゃいけないかと思っていたが任せても大丈夫そうだ。海斗も頼もしくなってきたな」
「ありがとうございます。ホールがヤバそうなんで戻ります」
「おう、よろしく!」
案の定、ホールが回っていなかった。
海斗の代わりに指示する立場であるはずの西野さんがボーッとしている。
秋山さんがイライラしながら交換物を運び、山田君がサンキューコールを受けている。
海斗はすぐさま指示を出す。
西野さんにグラス洗い、秋山さんに空いてる席の片付け、山田君に交換物とオーダー運びに役割を変える。
そして、海斗がサンキューコール対応とエスコート、延長確認、会計、立ち上げ、抜き物対応の全開モードに。
なぜなら、秋山さんが同じ作業ばかりで気持ちが切れそうになってきていたからだ。
「秋山さん、片付け終わったら一服入って下さい。終わったら山田君に次入ってもらって」
「ありがとうございます」
「もう一度、波が来るはずだからその前に充電しかとかないとね」
秋山さん、山田君、西野さん、海斗の順で休憩を回し、0時以降に備える。結局海斗の休憩は5分もしないうちに店内がまた混みだした。慌てて業務に戻り、そのままラストまで休憩を取るような時間はなかった。
杏奈さんも復活し、問題の席には付かないよう坂東さんが配慮してつけ回すとその客は1時間で帰っていった。
それまで沈んだ表情で仕事をしていた杏奈さんだったが、その後指名客が2組来店した。どちらも派手にお金を使って飲んでくれた為、杏奈さんもいつもの明るい表情に戻っていた。
しかし、営業終了後にまた一波乱起こることは既に予想できていた。




