微妙な変化
次の日の夕方。西野さんは何事も無かったように出勤してきた。しかし、右目の下には青いアザが見えた。きっと、昨日階段から蹴り落とされた時に怪我したのだろう。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
「…」
「……」
「…?」
そして、西野さんはスタスタといつもの席へ。
(エーーー??)
昨日のことに関して謝罪も、その後どうなったかの確認もなし。
本当に、何も気付かない事にある意味感心しつつ、俺は開店準備に移った。
フロアの丸イスとテーブルをソファの上に逆さに置いてバックヤードに掃除機を取りに行く途中で、出勤してきた増田さんに会った。
「おはようございます」
「おはよう。ああそうだ、海斗は今日から掃除を途中で止めて、坂東とキャストの勤務会議に加わってくれ」
「はい。俺、副主任も兼任でしたね」
「6時半位から始めるから、それまでに今日出勤の担当キャストの出確も終わらせといてくれ」
「わかりました」
そう言って海斗はバックヤードに向かう。
掃除機を手に取り、またフロアへ戻る途中の通路で増田さんと西野さんが話していた。
海斗は掃除機をかけながらその場を通り過ぎ、隅々まで掃除機をかける。フロアをはじめ毎日かけていてもかなり汚れる。特に今日は昨日粉々になったシャンパングラスの破片や、床に落ちているピーナッツ類や、ドレスに装飾されているラメ、ヘアピン、客が落としたであろう百円玉など。
それが終わると更衣室やヘアメイク室に落っこちているキャストの長い髪の毛をコロコロを使って掃除をする。
山田君と秋山さんは黙々とガラスや鏡、トイレ、ボトル棚、テーブルの脚などの拭き掃除を分担して行っていた。
その間も増田さんと西野さんの話し合いは続いていた。
海斗がバックヤードでキープボトルの管理表を整理していると西野さんがきた。
「昨日はすいませんでした」
「目の下大丈夫ですか?」
「うん、まぁ。それから…、今日から、あー…、その、よろしくお願いします」
「あ、はい。こっちこそよろしくお願いします」
バツが悪そうに頭を掻く西野さん。きっと増田さんから降格の件を言われたのだろう。海斗はその件には触れず当たり障りのない返事をした。
そしてキープボトルの整理を終わらせ、残りの掃除を西野さんと秋山さんと山田君に任せ、俺は一足先に出確を行う。
俺の場合は最初に前日の日報をコピーして各担当キャストの成績を自分のノートに写す。
そして、メールやラインで前日に出勤し今日は出勤しないキャストの中で指名があった子に指名数や、バック金額、指名小計金額などを伝え、間違いがないかを確認する。
その後、今日の出勤キャストに出勤時間と退勤時間の確認、前日に出勤していたキャストには先程と同じように成績を伝え、軽い雑談と身の上話を交えて何かキャストの方からの報告がないか質問する形。
最後に、返信できない状況なら空メールで良いので返信だけくださいと入力して送る。
前回指名がなかった子に関してはあえて成績の事は書かずに無用なプレッシャーを与えないようにする。
また、成績を逐一伝えることで後から給与金額の差異が無いように配慮する。給料を貰った後に間違いがあったりすると会社の事務所に連絡し先月の伝票を取り寄せて確認しなければならないので時間がかかる。
そうなるとキャストの不満や不信感が溜まるので必ず早めに、覚えているうちに確認してもらうようにしている。
その後、自分のノートに担当キャスト別に、指名客の名前、来店日時、滞在時間、ボトルの有無、一緒に来た客の指名キャスト、使った金額や、キャストから聞いた客の情報を書き込む。
ゆくゆくはノートパソコンで管理していかなければいけないと思っている。そして海斗が担当を持つようになってまだ日が浅いため、これがどのくらいの効果があるか判断しかねる部分もある。それにこれから担当が増えた場合にやりきれるのかの不安もある。
この作業を始めたばかりの頃、西野さんにはバカにされたが、増田さんは続けられるところまでやってみなと言われたので半信半疑で続けていた。
そうして顧客情報を月ベースでデータ化し、どのくらいの来店頻度なのか、指名期間がどのくらいなのか、一回で使える金額はどのくらいか、月で使える金額がどのくらいか、などをまとめておく。
それをキャストとのミーティングで使うかはキャストの性格を見ながらにはなるが。
最近は担当の黒服はしっかりこういう事を把握しておかなければならないと海斗は思っていて、引き続きこの作業を続けていこうと思い始めた。
これにはいくつか理由がある。
まずは海斗の性格の問題。キャストミーティング中に西野さんや増田さんのように軽い感じて話を盛り上げて行くことが苦手であるということ。何か話題のきっかけがないと無言になってしまいがち。やはり共通の話題はお店でのことなので、そこから話を広げていく手法を取った。
それから、キャストはどうしても太いお客さんや最近来店した客ばかりに目が行きがちだったり、日々の接客に追われて客を整理する暇がない。また、ちゃんと黒服が担当キャストの指名客を覚えていないと、怠ける子が多い。
そして、客が使う金額が少なくなったり、来る頻度が減ってくればキャストとの関係が切れそうなのか、勝手に裏引きしてるのか、それとなく探ることが出来る。
ここで言う裏引きとは、店を通さずに客から金を引っ張る行為。
ある程度は許されるが、行き過ぎると必ずトラブルになる。
もちろん店の利益の事もあるが、裏で何かをされるとキャストを黒服が守りきれなくなる。
経験豊富でキャリアも長いキャストならば上手くバランスを取ってくれるが、経験が浅かったり、考えが甘いキャストは目先の利益に目が眩んでやり過ぎることも多い。
そう増田さんから聞いていて、その辺は慎重に判断しろとも言われている。また、ミーティング中は仕事の話ばかりになるなとも言われている。
ある程度は弱音も吐かせてやったり、上手くいかないことを許してあげたりしていかなければいけないと。
海斗の担当キャストの咲、結衣菜、リンは今の所、大丈夫そうではあるが。
一通りの出確と顧客整理が出来たので、VIP席にいる増田さんと坂東さんの元へ行く為にカウンター席から立ち上がる。
ふと、フロアを見ると違和感感じる。
普段はL字型の角の席に秋山さんと山田君が座っているのに、今日は西野さんが座っている席の前に秋山さんが座り、二人で話しをしていて、山田君は一人ぽつんとスマホをいじっていた。
珍しいなと思いつつ、VIP席に向かった。
そして増田さん達と3人でキャスト出勤会議が始まった。
まず、各曜日毎のキャストの出勤数の整合性。そして出勤日数に変動が多いキャストの確認と理由。大体が西野さんの担当キャストだったりするため、その度に西野さんが呼ばれる。
そんな中で坂東さんの担当の楓さんの話題になった。
微妙な顔をする坂東さん。増田さんが話を振る。
「ここんとこ、楓が伸び悩んでいるみたいだけど、大丈夫か?」
「んー、どうですかねー」
連日忙しい営業が続いていて既に月末も近いというのにAランクの楓さんの売り上げはかろうじてTOP10に入るか入らないかくらいの成績であった。
「まさか、あいつと別れてまた悪い病気が始まったのか?」
「いや、それは無いと思います。違うやつと付き合っている雰囲気じゃないと思いますが」
「そうか。ちなみにあいつと楓が付き合いだしてどんぐらい経つ?」
「半年ぐらいですかねぇ。あれ?もうちょっと経つかな」
海斗はあいつと言われているのが誰なのか分からず会話に入れない。すると増田さんが海斗に聞いた。
「海斗は百瀬って知ってるよな?いきなり飛んだやつ」
「いや、知らないです」
「あれ?ところで海斗がここ来たのって去年のいつだっけ?」
「いや、今年の1月ですけど」
「あれ?まだそんなもんか。んで百瀬を知らないってことはあいつが飛んだのはもっと前か」
「確か、入れ違いくらいに海斗が入ってきたんですよね。ボーイが足りなくてどうしようかって言ってた記憶があります。だけど、あの時はこの店もそんなに忙しく無かったし、そこまで深刻じゃなかったので忘れてました」
「そう考えると海斗が入ってからだよな。忙しくなり始めたのって。お前って招きネコか?」
「イヤイヤイヤ、人間ですよ」
「たまにいるんだよ。誰か新しいボーイが入った途端に店が忙しくなったり、逆にヒマになったりってことが」
「確かにたまにありますよね。店の評判を左右するほど長く勤めているわけじゃないのに不思議ですよね」
「へー、そうなんですか。なんか面白いですね」
「まぁ水商売って言われるくらいだからな。それだけ何がどう転ぶかわからない世界なんだよ」
「ある意味怖さもありますね。何か変わったことがなくても急に悪くなったりするんですかね」
「いや、多分、普段気付かないくらいの何かしらの小さな積み重ねなんだろうな。そういうのって。だけど、気づかないからこそ流れる水のように例えられるんだと思うよ」
「なるほど。じゃぁちょっとした変化にも気づけるようにアンテナは張っておかなければいけませんね」
「中々それが難しいんだけどな」
そこで、海斗はふと先程感じた違和感を思い出す。が、この会議の場で言うほどのものでもないと思った。そして海斗が本題に戻す。
「ところで話は戻るんですけど、楓さんの悪い病気って、この前坂東さんが話してたアレですよね。客と付き合うと出勤が安定しなくなるって話。でも楓さんの出勤日数自体は変わってないように思うんですけど。それに百瀬って人が関係しているんですか?」
増田さんと坂東さんが顔を見合わす。坂東さんは小さくゆっくり頷く。
そしてしばらく思案した増田さんが小さい声で話し始めた。
「いいか、これは誰にも話すな。これまでの海斗の人となりを見て、言っても大丈夫と思うから言うんだからな…」
そうして約8ヶ月前の密かな事件を教えてくれた。
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今から1年前に百瀬尊というボーイが飛び込みで面接して欲しいとやってきた。ほとんど身一つで現れたそいつは住み込みで働かせてくれと言ってきた。まぁこの業界ではそういうやつもいるにはいるらしい。だが、百瀬さんは携帯電話も持ってなければ、所持金も僅か。身分証も免許証はあったが、そこに書かれている住所はかなり遠い。なんとも怪しい人だったが、面接をしてみると中々好感の持てる容姿だったし、清潔感もある。もともとこの業界には知られたくないバックボーンを持つ奴らばっかりなので百瀬さんもその日から入店が決まった。だけど百瀬さんはとても変わっていて無口な人だった。だけど仕事ぶりはとても真面目。寡黙で黙々と仕事をしていたらしい。
しかし、4ヶ月後のある日、突然いなくなってしまった。
なんの予兆もなかったので皆が心配した。
この業界はバックレる奴が結構いる。なんせかなりのブラック企業だから。体調悪くて休んだだけで罰金だし、罰金取られるくらいならこのままやめてやれ、とか、給料日後に突然来なくなるとか多い。
だけど、その百瀬という人は無遅刻無欠勤を続けていたし、人畜無害を絵に描いたような人柄で人間関係も問題は無かった。そして何よりあともう少しで給料日という日だった。だから皆なんでだってなったらしい。
もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのかもしれないとかボーイもキャストもとても心配していた。
また年末だったためにそこそこの忙しさで急な欠員に店はてんやわんやしていた。
そんな中、楓さんが坂東さんに相談してきた。
実は、百瀬さんと付き合い始めて同棲していると。風紀罰金は覚悟していますとの事。
風紀とはボーイとキャストが付き合ってしまうことを指す。これをしてしまうとボーイ、キャストとも高額な罰金を取られる。
ボーイの場合は50万〜100万。
キャストのランクが高いほど高額となる。
これはあまり良い言い方ではないが、キャストは店の商品である為、勝手に手を出すことは許されない。
例えば、高級外車の店のディーラーが売り物の外車を私物として勝手に乗り回すのと同じ事。
ただ、キャバ嬢は綺麗な女性が多いので、ボーイが惚れてしまいやすい。その抑止力として高額な罰金制度を設けている。
キャストの場合も30万〜50万の罰金が科せられる。なぜなら夢を売る商売でお客様を裏切る行為に対する制裁処置。まぁ今で言うAKB商法みたいなもん。
ただ、キャストの場合は下っ端のボーイに手を出すほど高額になる。要は業界に慣れてないあわよくば女が食えるんじゃないかと勘違いして入ってくるボーイをたぶらかすなとの意味合いもある。ただ、高ランクで店への貢献度が高いキャストほど減額される。
そして楓さんは自分と百瀬さんの分の罰金150万を払いますと言い始めた。
もともと竹を割ったような性格の楓さん。
自分のせいで店に迷惑をかけたと思っていたし、コソコソしないで付き合いたいという。
自分の手には負える事じゃないと悟った坂東さんは増田さんも交えて話し合いをする事を決めた。
そして増田さんが一通り話を聞き、思案する。
難しい状況だった。何がって発覚する順番が。
普通はボーイの行動が怪しい→問い詰める→罰金が怖くて女捨てて逃亡→とっ捕まえて払わせるか金がなければ親のところまで取り立てに行く→キャストとの接触禁止の誓紙を書かせる→破ったら追加制裁。のコンボ。
キャストには女捨てて逃げやがった最低野郎で、終いにはあっちから誘惑されたとのたまってたよと吹き込む。使えないキャストの場合は50万しっかり払わせてクビ。
使えるキャストには騙されて可哀想だったね、無理矢理脅されたんじゃないのとなだめる。でも同じ事を繰り返して欲しくないため、5万ほどの罰金を貰って店を続けてもらう。
通常ならば。
だけど、今回は楓さんの方から言ってきた。このまま150万しっかり取ったところで店の売り上げには出来ないし、増田さんと坂東で折半して、もし社長の耳に入ったらマズイ。しかもこんなはした金で身を滅ぼしたくはないと考えた。
だけど、150万を社長に渡すと半分が社長のポケットマネー、その半分が専務に、またその半分が部長にと渡っていく。
今まで頑張ってくれた2人から搾り取るような事もしたくはない。そこで増田さんは楓さんに提案した。
「じゃあ50万を出してくれるか?」
「はい。すでに今150万は用意していました」
そう言って、いつもより大きめのポーチから百万の束と財布から50万を出す楓さん。それを見た増田さんは、
「お前の覚悟はよくわかったよ。まず、50万を俺に預けて欲しい。そして今後ともしっかりと働いてくれ。流石に百瀬と楓の2人を一緒に働かせることはできない。だから、楓には今まで以上に頑張ってもらいたい。これまでのように、体調不良以外でいきなり休んだりとか、彼氏がうるさくて出勤出来ないとか、彼氏に呼ばれたから帰りたいとかそういう事もしないと約束してくれるか?」
「はい。そうすればタケルを捕まえてボコボコにすることはしませんか?」
「もちろん約束する。そして、楓の月の売り上げが150万を超える月が出たらこの50万を返すよ。どうだ?」
「あ、ありがとうごさいます!!」
「約束破ったら百瀬の所に制裁金取りに行くからな」
ニヤっと笑う店長。泣き笑いで応える楓さん。
そして何故か目頭を熱くする坂東さん。
それを見た二人が突っ込む。
「「なんでー??」」
「いい話じゃないですかー。めっちゃ純愛じゃないですかー」
髭面のガタイのいいクマみたいな坂東がメソメソ泣いていた。
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「ちょ、ちょっとー!俺のことは話さなくてもいいじゃないですか!」
「あぁ、すまん。ついつい」
そう言って増田さんが笑う。恥ずかしそうな坂東さん。そしてお返しとばかりに坂東さんが続ける。
「その後、俺と増田さんで社長にその50万を預けて経緯を説明しにいったんだ。そしたら増田さんが社長に土下座してさ。俺も慌てて土下座したよ。それで増田さんが、楓は今までもこれからも店に貢献してくれてますし、今回もちゃんと話してくれました。許してやってくれませんかって、それでも足りないと思われるんなら俺の土下座で許してもらえませんかって。俺また涙が出ちゃってさー。これからは担当の俺がもっとしっかりしなきゃいけないと誓ったよ。俺あんなカッコいい土下座見たの初めてですから」
そう、坂東さんは熱い視線を増田さんに向ける。そんな坂東さんを軽くビンタする増田さん。
「いたっ!」
「お前まで余計な話しなくていいんだよ!ったく!で、社長はお前の店なんだから好きにしろって言ってくれてな。でも楓は未だに150万を超えたことはないから楓の50万は社長が預かったままなんだがな」
「そうなんですよね。あれから楓も気合い入って100万超えも何回かはあったんですけどね。でも最近は俺とミーティングしててもケンカばっかりで。届かないことへのジレンマなのか、百瀬と何かあったのか何とも理由が掴めないんですよね。もうちょっと話し合いを続けてみます」
「今は他のキャストが頑張ってくれてるから何とかなっているけど、楓は替えの効かない貴重な戦力なのには変わりないからな。坂東も慎重に話を進めてくれ。でも、そもそもあんなにお金大好きな楓なのに、なんで百瀬と付き合ってるのかも不思議なんだよなぁ。あいつが面接来た時の所持金400円だぞ。タバコも買えねーっての。なんでだろうなぁ」
結局、楓さんの事は何も解決しないまま営業時間が迫ってしまい、慌ててご飯を食べた。




