伝説のスペシャリスト
咲さんの入店から1ヶ月が経った。
そして俺が働き出して半年が経とうとしていた。
咲さんの成績は順調に伸びている。
ただ、俺に一つだけ変化があった。
今までは掃除とホール業務のみを淡々とこなしていく毎日に安らぎを感じていた筈なのに、自分から少しずつやれる事を増やしていこうと思いはじめていた。
咲さんの担当になったことも大きかった。
咲さんが少しずつ接客スキルやルール、マナーを会得していく姿を見て、自分自身の仕事に対する姿勢に疑問を感じ始めた。
かといって、いきなり増田店長のように振る舞える訳もないので、今自分に出来る事をより徹底的に行うことにした。
まず、今自分に任されている仕事を整理した。
雑務に関しては、開店準備、掃除、更衣室整理、店ドレス管理、各種ボトルの在庫管理、備品管理、ヘアメイク用品、雑誌の管理、ポイント表管理、酒発注など。
営業に関しては、ホール業務がメインに加えて、キッチン業務、フロント業務、エスコート業務、延長確認、シャンパンなどの抜き物業務。
キャストに関しては、咲さんの出勤確認、顧客管理、ミーティング。
そして今一番自分に出来る事を突き詰めると、ホールのスペシャリストになる事と、店の備品関係を完璧に管理することだった。
実はコレには理由がある。
先日、開店準備が終わりまったりしていると、西野さんとトレンチ談義になった。
「海斗、これ出来る〜?」
西野さんはトレンチに灰皿を乗せ、その灰皿がトレンチの上で円を描くようにクルクルと回っていた。
「そのくらいはまぁ出来るようになりました」
そう言って俺もクルクルと回す。
西野さんはそれが癪に障ったらしい。
「まぁ、そんなのは初歩の初歩だからね。俺なんてアイスペールを5個一気に交換できるし、そのくらいになったらまぁ一人前かな」
「はぁ、すごいっすねー」
その言葉に満足したらしく、みんなの牛丼を買いに行った。
本来ならば俺が買いに行くべきなのだが、別の仕事がある為、最近は西野さんがパシリの様になっている。
前までは俺がみんなの分の弁当を買いに行き、西野さんが店で使う消耗品や日用品、買い置きタバコを買い出しに行っていた。
だが、西野さんは普段から適当な性格の為、冷蔵庫の奥の方にまだ未開封の物があるのに買ってきたり、在庫が0なのに買ってこなかったり、レシートをもらい忘れてきたりと無駄が多すぎるため、そのうち俺が買い出し担当になっていた。
この日も西野さんが出て行った後、買い出しリストの確認をしていると、黙って新聞を読んでいた増田店長が話しかけてきた。
「なぁ海斗、ホール業務で一人前になるってのはどういう事だと思う?」
「忙しい時間帯でも業務が滞りなく回る様に動ける事ですかね」
「じゃぁその為には何が必要なんだ?」
「さっきの西野さんの話のように一度にたくさん運んだりして効率良く動く事ですか?」
増田さんは少し難しい表情をする。
「ぶっっちゃけ、俺はトレンチに慣れる前に役職が上がったから、物を運ぶのは下手なんだ。だから過去の俺はホールを見下していた。トレンチが上手く扱えるってことはそれだけ下っ端仕事ばかりしてたんだろってな。だけどな…」
そこで増田さんは遠い目をする。何かを思い出すかのように。そしてまたゆっくりと話し始めた。
「何年か前に、吉川というホールのスペシャリストと呼ばれた奴がいた。俺は当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで店長までなり上がり、ある街で吉川のいる店の店長を任された。そしてそいつの働きを見て衝撃を受けたよ。いまだかつてあんなに凄いやつは会ったことがない。なんせ街中に吉川の働きぶりの評判は知れ渡っていた。どうしてかというと、その街の中で定期的に場所を移るキャストって多いだろ。そのキャスト達を通じて吉川の評判が広まっていったんだ。ただのボーイなのに引き抜きの話もあったりな。けど、吉川の実家の父親が病気でな。社長が父親の治療費を立て替えたりしてあげていたらしいが、最終的に実家の家業を継ぐことになったんだ」
「そんな人がいたんですね具体的にどう凄かったんですか?」
「まずな、営業前の準備が完璧なんだよ。細かいところまで効率化するんだ。例えば冷蔵庫の中のものをきっちり整理して全部すぐ出せるように保管するとか、ストッカーに張り付く氷は毎日落としておき、常に取り出しやすくしているし、営業前にずーっと上見ながら店内を隅々まで確認するんだ。小さい電球の切れとかも一番早く見つけてたな。ボトルの管理もしっかりと客の名前、指名キャスト、来店日、どの位飲んだかをきっちり記録していた」
「徹底的にやるんですね」
「あいつ曰く、準備段階でしっかり整理しておくと、自然と頭の中も整理出来て、営業中に同時進行で物事を考えやすくなるらしいんだ。だから優先順位の判断が早い。先を読んでトラブルを回避できる、トラブルが予想できる、その対策をどうするってところまで同時に考えてるんだ。それとは別に、吉川はボトルを開ける時、ものを運ぶ時、下げる時の所作も流れるような滑らかさで動けるから、立ち振る舞いがその辺のシティホテルのウエイターよりも全然美しかったなぁ」
「そんなにできるのにずっとボーイだったんですか?」
「ああ、致命的な欠点があってなぁ。…会話と女が苦手だったんだよ」
そしてまた遠い目をする。
「ただ、下っ端だと思っていたホール係の吉川が実質店を回していたからな。何かが足りなくなったらどこにあるかわかってるし、どこに電話すれば客の要望のものが手に入るかも把握していた。結局ボーイも、キャストも困った時はアイツの判断に頼ってた」
「つまり、ホールの仕事も極めるには奥が深くて大変なんですね」
「だから本当は西野の事を悪く言いたくはないんだが、西野の言葉を真に受けて表面的な作業スピードを上げるような仕事の仕方はするなよ」
「はい。わかりました」
「海斗を見てると、たまに吉川を思い出すんだ。営業中の仕事ぶりがよく似てる。それにこの仕事は自分のカラーって大事なんだ。今後どんなカラーを海斗が出すか、それによってキャストが付いてきてくれるかどうかも決まるからな。まだ海斗は咲に対して的確なアドバイスが出来ないかもしれんが、お前の真摯な仕事ぶりは伝わってると思うぞ」
「はい。これからは自分でも少し仕事の幅を広げてみたくなりました」
「目指せ吉川だな。吉川を超えてくれても俺は一向にかまわんがな。お前にはそんな夢を見てるんだ」
その日から仕事を日々の作業とは思わなくなった。
そしてまた一歩、夜の住人へと身も心も踏み込んでいった。




