式神考察
柔らかなオレンジ色の灯りに、程よく効いた暖房。静かなジャズの流れる空間。とある喫茶店に僕は呼ばれていた。
西側にある巨大なガラス窓からは夕日が差し込んでいた。腕時計を覗くと六時十五分だった。既定時刻を十五分オーバーしている。こうやって貴重な冬休みを無駄にしていると思うと、もったいなく感じる。毎日実験やレポートに明け暮れる理工学部の友人が一瞬うらやましいと思ってしまった。
その友人が入店してきたのは、それから五分後のことだった。
「おう、塩乃木」
「よう」塩乃木は右脚をかばうようにしてテーブルに歩き、着席した。
テーブルには二十分ほど前に注文したコーヒーがあるが、当然、冷めている。それを見た塩乃木に「なにか飲むか」と言ったが拒否されてしまった。急いでいる様子だ。
「それで、何の用?」
「ああ、これを見てくれ」塩乃木はテーブルに一枚の白い紙を置いた。
「これが何か分かるか」
「見当もつかないな」僕は全く思考せず答えた。
「そうか」塩乃木は息をはき出して上を向いた。そして顎を引き、「まあ、直接見せるのが早いか」と言った。
「何なんだ」
「式神って知ってるか」塩乃木は紙を人差し指で擦り始めた。
それとは別の親指には絆創膏が巻かれていた。化学の薬品か何かでやらかしたのだろうか。満身創痍というのは度が過ぎるが他にも顔などに怪我を負っているようで、以前見た塩乃木とは違っていた。先ほど右脚をかばっているように見えたが、それも怪我だったのだろう。
「まあ漠然と操り人形ということぐらいしか……」
そのとき、僕は突然現れたそれに目を丸くした。
驚くのも無理はなかった。なぜなら擦っていた紙が、たちまちのうちに紙人形へ変化して直立したのだから。
まさか、これが式神なのか?
「式神だ。これ、お前に渡すよ」塩乃木は式神からは目を逸らしていた。
「はあ……」
「じゃあな」
塩乃木は僕を残して立ち去った。テーブルの紙人形は、いつの間にかただの紙に戻っていた。
帰宅後、四畳半に寝転がりノートパソコンを開いた。パスワードを入力してブラウザを立ち上げ、お気に入りのウィキペディアに飛ぶ。「式神」の記事にはこうあった。
『式神とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるもの。』
鬼神という記述が気になるが、おおよそ操り人形という解釈で正しいのだろう。
とりあえず、試してみないことには分からなかった。
僕はど真ん中の半畳にでんと腰を据え、先の紙を取り出した。そして塩乃木がやって見せたように、人差し指で擦ってみた。
かくして式神は現れた。ぐにゃりと変形し、非常口のマークのような人になったのだ。
半信半疑だったのに……
一応自分の親族が陰陽師だったりしないかと疑ったが、どう考えてもそんな可能性はなかった。僕は生粋の仏門なのだ。
心臓の鼓動を抑えつつ、試しに命令をしてみる。「昨日買った雑誌を取ってこい」
式神は雑誌を両手で掲げるようにして持ってきて、あぐらをかいている僕の下に置いた。
「すごいな」
僕は一通りの命令を試してみた。「部屋の埃を掃け」「パソコンを片付けろ」「お菓子を持ってこい」
その内「パソコンを片付けろ」と「お菓子を持ってこい」は叶えられなかった。明らかに体躯に合わない物は運べず、具体性の無い指示は実行できないのだ。「お菓子は柿ピーで」と言うと、式神は本棚の上にひらりと飛び上がり、柿ピーを一袋持ってきた。
その後も式神をこき使ったが、就寝前に僕は一種の遊びを覚えた。「ブレイクダンス踊ってみろ」と言う。 ぺらぺらのくせになかなか様になっている。なかなか見応えのあるダンスだ。動画を撮って、インターネットに晒してやろうか。
横になって眺めていると、式神がバック宙を失敗して腰から転倒した。
「おいおい、完璧じゃないのかよ」
そうは言ったものの十分満足していたので踊りを止めさせ、式神を本棚の上に放置した。
翌朝、式神は本棚の上でただの紙に戻っていた。昨夜、「Mr.ホワイトゲームアンドウォッチ」というニックネームを考えたが略称名が思いつかず、悔やまれながらも却下したことを思い出す。
テレビなどを小一時間観ているといささか腹が減り、僕は朝食を摂りに牛丼屋に行こうと立ち上がった。
部屋を出て薄暗い下宿の階段を降りていると、小汚い壁に怪しく光る影が目に入った。それがかさかさと動き始めた瞬間、僕は気が動転して足を踏み外してしまった。結果、転げ落ちる。
「いてえ……」立ち上がることのできない痛み。
どうやらアザが出来たようだ。後ろを一瞥すると、かさかさ虫は既に居なかった。
この一連の事件に何か強烈な違和感があった。その正体を掴もうと頭を巡らせると、式神に引っ掛かりがあった。そうだ、昨晩……
図らずも式神と同じ行動をとっていたようだった。
腹が膨れて家に帰り、くつろぐ。僕はふと戸締りを確認したくなった。確か今日は腰のアザをさすっていたせいで、鍵に手をつけていなかったような気がする。頭を扉の方向にむけて目を細めるが、暗くてよく見えなかった。
そのとき、式神の存在が脳内によみがえった。今日もこき使うとしよう。紙に腕を伸ばし、指で擦る。
「鍵をかけてこい」
式神はてくてくと扉の方に歩き、やがてガチャリという施錠音が聞こえた。しかし、式神が手元に帰ってこない。どういうことだ? と不審に思い見に行くと、紙が扉に挟まっていた。
「何やってんだ……」紙を引っ張ると、式神はてくてくと本棚の上に向かった。
それを見て、今度は僕は手を扉び挟むのではないかと予感した。彼は良く出来た占い師だな、と思った。
案の定、翌日僕は手を挟んだ。こういうことにならないように気を付けていたのだが、まさかエレベーターで事件が起こるとは思っていなかった。もちろん大怪我では無かった。しかしその日から、式神は毎日何らかのアクションを起こすようになった。何もしていないのに足の部分に切り込みが出来ていたり、手の部分がひしゃげていたりするのだ。僕はそれを見る度警戒して一日を過ごした。そのお陰でなんとか免れる怪我もあった。しかし僕に降りかかる災難はエスカレートする一方。外に出れば必ず何かが起こる。切り傷、捻挫、脳震盪……。僕はいつしかカーテンを閉め切って四畳半に引きこもっていた。
数日後、式神の脚の先端が折れ曲がっていた。その日は足を意識して過ごしたが、夜、突如地震が起きて本棚が僕の足元に倒れた。刹那、式神の予見がフラッシュバックし、僕はなんとかそれを避けられた。テレビを付けると、別に地震はどこにも起こっていないようだった。異常震域にも程があった。
良く考えてみれば、式神を貰ったあの日から僕はよく分からない災難に好まれるようになった。初めの頃は、危険を知らせてくれる占い師のようなものだと思っていた。こいつはそんな良い物じゃない。単に危険を運んでくれる物だった。
本棚を放置したまま塩乃木に携帯で電話を掛けるが、誰も出ない。代わりに、「お掛けになった番号は、現在使われておりません」というアナウンスが聞こえた。もう駄目だと思った。
そして彼は半ば押し付けるように式神を僕に渡したことを思い出した。もう、同じように誰か交友の浅い人間に押し付けて姿を消す他無いように思えた。もしかして塩乃木も僕と同じ被害者だったのかもしれない。
明日久し振りに外へ出る決心をして、僕は死んだように布団の上に倒れ伏した。明日の朝、式神が悲惨なことになっていないのを祈りながら、眠りにつこうとした。そしてそのとき、崩れた蔵書の中から灰がサラサラと飛んでゆくのを見た。
今夜は非常に熱い夜になるのだろうな……そう思った。
「これ、『空の境界』?」と言われました。僕は読んだことないのですけどね()
今読み返してみると、文章が結構粗削りな感じがしますね。こんな作品でも感想を書いてくださる方には、心から感謝します。