3−3
スーパーの袋片手に、のんびり道を歩いていた京介は、
『京介さん』
頭上からかけられた弱々しい声に足を止めた。
「マオちゃん、お散歩?」
微笑みかけても、彼女は笑わない。いつも楽しそうな彼女らしくもない。
「どうしたの? そろそろ、富子始まるんじゃない?」
『……今、いいですか?』
なんとなく事情を察して、京介は頷いた。
「いいよ」
近くの公園のベンチに京介は腰を下ろした。隣を指差されて、マオに素直に隣に座る。
隆二と違って、京介はマオが外で話しかけても拒絶したりしない。最初に声をかけてきたときからそうだった。だから、居辛くて家を飛びだした後、京介の姿を見かけて迷わず声をかけた。
ただ、その後どうやって話を続けたらいいかわからない。
視界の端で京介が煙草に火をつけるのがわかった。
『……ここ、禁煙だよ』
小さく呟くと、京介が笑ったのがわかった。
「やっぱり、マオちゃんはマオちゃんだねぇ」
なんだか納得したように呟くと、名残惜しそうに煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
『……あたしはあたし?』
「真面目で素直でいい子ってこと」
『……いい子じゃないよ』
全然、いい子なんかじゃない。
「隆二と喧嘩したの?」
のんびりと聞かれる。
喧嘩?
『ううん』
首を横に振った。
『喧嘩じゃ、ない』
隆二はマオと喧嘩したりしない。マオがどんなにむちゃくちゃを言っても、ちょっと呆れるだけだ。マオはバカだなーって、いつものちょっと呆れた顔で笑って、それで終わりだ。
彼が本気で怒ったのなんて、あの時、マオがエミリのところへ戻ると言い出したときぐらいだ。
さっきだって、怒っていたわけじゃなかった。少し苛立っていたけれども、怒っていたわけじゃなかった。それよりももっと、冷たいものだった。
どうでもいい、そんな感情だった。突き放された。そう、思った。
『喧嘩じゃないよ』
もう一度呟く。
わかっていたことだ。自分が隆二にとって、ただの居候でしかないことなんて。
『隆二はあたしと、喧嘩なんかしない』
居候が身分もわきまえずに家主にたてついたから。改めて、距離感を正されただけのことだ。
京介は少し目を細めて、
「何があったの?」
優しく尋ねて来た。
『京介さんは、茜って人、知ってる?』
足元を睨みながら尋ねると、
「茜ちゃん?」
意外そうに言葉を返される。
『……知ってるんだ』
知らないのは自分ばっかり。
「なんで、マオちゃんが茜ちゃんのことを? あいつが、自分から言うはずはないと思うけど」
『……寝言』
「ああ」
京介は苦笑し、
「女々しいねぇ」
ぽつん、と呟いた。揶揄するわけでもなく、ただぽつんと言葉が宙に投げ出される。
「仕方ないか。そうなってるだろうとは、思ってたし」
『そうなってる?』
「引きずってるってこと」
『……茜っていう人は隆二の』
「恋人だよ」
京介はさらりとそう答えてから、
「あー、いや、そういえば、本人からそう聞いたわけじゃないけど。見た感じ」
『会ったことあるの?』
「少しだけね」
『……いつ』
「もう、かなり前だよ」
『……その人は今』
「亡くなったよ」
顔を上げて京介を見る。彼は淡々と呟いた。
「もう、随分前だ」
『……そうなんだ』
「元々体弱かったらしいからね。なんでもなかったら、まだ生きていたかもしれないけど」
仕方ないことさ、と京介は続けた。
『……隆二にとっては』
「うん?」
『仕方なくないことだよね』
「そうだねぇ」
『……そうだよね』
ワンピースの裾をぎゅっと握る。大切な思い出に、土足で入り込もうとしたから拒まれた。
『……帰らなきゃ。謝らなきゃ』
立ち上がる。
『隆二にちゃんと謝る。居候のあたしが何にも知らないのに無神経に訊いてごめんなさいって』
何も知らないから迷惑ばかりかけている。
「誰だって、最初はなぁんにも知らないもんだよ」
のんびりと、だけど真剣に京介が呟いた。それに思わず振り返ると、彼はいつもと違う、真面目な顔をしていた。
「教えられていないことは知らなくてもいいんだよ。知らないことを最初から知っているなんてことできないんだから。勘違いしちゃいけない。マオちゃんが知らないことを知りたがるのはなんの問題もないんだよ。知らないことを知りたいと思うのは、当たり前のことなんだから」
『だけど……』
「知りたいことはちゃんと尋ねれば良い。尋ねていいんだよ。まあ、隆二にだって訊かれたくないことも、教えたくないこともあるだろうけど」
教えたくないことは色々な意味で色々あるだろうしなぁ、となんだか含みをもった笑い方をする。
「だけど、訊いたことそれ自体をマオちゃんが気に病む必要はない」
京介は優しげに微笑んだ。
「遠慮しなくていいんだよ。マオちゃんにとって隆二は特別なんだろう? 特別な、社会との窓口なんだから」
マオは京介の顔をじっと見つめ、
『……よくわかんない』
悔しそうに唇を噛んで、首を横に振った。
『バカだから』
「マオちゃんはバカじゃないよー。まあ、天然だとは思うけどね。俺の言ったこと、今はわからなくていいよ。だけど、覚えていて」
京介が優しく言うから、マオは小さく頷いた。
『……うん』
京介は満足そうに笑う。
『……でも、やっぱり、謝らなきゃ。拗ねてでてきちゃったし、隆二困っただろうし』
「確かに。自分で酷いこと言ったくせに、いざマオちゃんが出て行っちゃうと、家でうろうろと落ち着かなさそうにしてる隆二が目に浮かぶね」
京介のおどけた言い方にくすりと笑う。そのとおりだ。
『それに勝手に京介さんに色々きいちゃったから』
「ああ、それについては俺も怒られるから。口止めっぽいこと言われてたんだった」
喋った方も同罪でしょう? と笑い、マオの頭を軽く撫でた。
『やっぱり、京介さんと隆二は全然違うよね』
「え?」
『……ううん』
撫でられた頭を右手でそっと触れる。
隆二の同族で、マオに触れる二人目の人。隆二以外にマオに触れられる人が居るということに、本当は少しがっかりしていた。隆二だけが特別だと思っていたから。
でもやっぱり違う。隆二は特別だ。京介は京介で隆二じゃない。頭の撫で方も外での対応も、なにもかも違う。
だから、帰ってちゃんと謝ろう。これからも一緒に居たいのは京介じゃなくて隆二だから。