3−2
「っ」
声にならない悲鳴をあげて、飛び起きた。
『うひゃっ』
跳ねるように上体を起こした隆二に、小さな悲鳴。
『あぶなっ』
すぐ間近に、居候猫の顔があった。
「マオ……?」
『もー、びっくりしたぁ』
確認するように名前を呼ぶと、彼女は膨れた。
手に触れる、慣れた感触。赤いソファー。ああ、ここは、茜と別れたあと暮らしはじめた、自分の安いアパートだ。
あっさりとその現実を受け入れて、ため息をついた。
もう一度会えるなんて夢みたいなことあるわけなくて、どうせあれは夢だったのだ。夢ならもっと、いい夢を見させてくれればいいのに。
唇が皮肉っぽく歪む。
『ちょっとちょっと』
声に顔を上げる。
『なんだか一人シリアルになってるところ悪いんですけどね!』
目の前で膨れるマオ。
「……つーか、お前、何してるの」
よく見たら、彼女は隆二に馬乗りになっていた。近過ぎる顔に、少し身をひく。
『隆二が! うなされてたから! 心配して見に来てあげたんでしょうっ!』
デリバリーのない人ね! とマオは眉尻を吊り上げて言う。
「デリカシーな、運んでどうする」
幾分冷静さを取り戻すと、突っ込んだ。それから多分、さっきのシリアルもシリアスとかそういうのだ。
「あと、そういうときは、横から覗き込もうな」
なんで馬乗りになって上から見るかね。
片手をはらってマオをどかすと、ソファーに座り直す。
「京介は?」
『夕飯の買い物』
「あー、そう」
時計を見ると、夕方の五時過ぎだった。
「あー、そろそろテレビ付けた方がいいか? ミチコじゃなくて、なんだっけ。ほら、あれがはじまるだろ」
膨れたままのマオの機嫌をとろうと尋ねると、
『いい』
冷たく言われた。
「は?」
『富子はいいの』
ちょっとまて、マオが七転八倒富子を見なくていいだと?
なんとなくデジャヴュを覚えながらも、尋ねる。
「どうした? そんなに怒ってるのか? 心配してくれたのに悪かったな」
『違うっ』
マオがますます膨れた。
一体なんだっていうんだ。うんざりしながらマオの次の言葉を待っていると、
『……茜って、誰よ』
吐き出されたのは思いもしない言葉だった。
一瞬、どうやって反応したら良いのかわからなくなる。
「……なんで」
かろうじて呟いた言葉は、思ったよりもかすれていた。
『寝言。……誰?』
緑の瞳が睨んでくる。
一瞬言葉に詰まる。なんとなく、後ろめたい気持ちになる。が、すぐになんで自分が罪悪感を抱えなければならないのか、その理不尽さに気づいた。
「知り合い、昔の」
端的に答える。
『知り合い?』
「ああ」
『カノジョ?』
拗ねたような瞳に辟易する。なんでたかが居候猫に、そこまで答えなきゃいけないんだ。
「何だっていいだろ」
突き放すように答えると、有無を言わせず立ち上がり、テレビの電源を入れた。
『隆二っ』
咎めるように名前を呼ばれる。
「マオには関係ないだろ」
『……関係ない?』
「ああ。俺の過去の知り合いのことなんて、居候には関係ないだろ」
知らず声が大きくなる。
『……そっか』
マオが小さく呟いた。
その言い方にしまった、と思う。やばい、泣かれる。
「マオ」
慌てて名前を呼ぶと、マオは俯いていた顔を上げた。
泣いてなかった。怒ってもなかった。
『詮索してごめんなさい』
ただ小さく唇を噛んで、彼女は告げた。
『……散歩行ってくる』
そしてそのまま、窓を抜けて外へ出て行った。
隆二は声をかけられず、それを見送った。
テレビから、場違いに明るい音楽が流れてくる。
一つため息をつくと、ずるずるとソファーに座り込んだ。
あんな言い方はなかった。それは認める。反省する。
確かにマオには関係ないことだが、だからといってそのまま関係ないなんて告げる必要はなかった。適当にお茶を濁しておけばよかったんだ。マオの好奇心については、前々からわかっていたのだから。マオにとって自分は辞書のような存在なのだから。
ただ、なんとなくマオに問いつめられて後ろめたい気持ちになったのは事実だ。マオに対して疾しいことなんて何もないのに。
あるとしたら、茜に対してだけなのに。
言いたくない。言えない。
自分の心を傷つけたくない。
だから、マオを、傷つけた。
そして結局、言えない理由なんて、全部隆二自身の問題なのだ。