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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十五章 俺のようにな
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(2)

「ながれゆく我は水屑みくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ――無罪を訴えようとしたが、宇多天皇に面会を拒否されたときに道真が詠んだ歌だ。しがらみは『柵』の意味。落ちぶれていく自分を水屑の儚さに重ねたのだな。……菅原道真が太宰府への左遷を嘆き悲しむこのような歌は数多く残る。……休憩を入れるか」

「訊いてもいい?」

「なんだ」

「中学三年生の頃のこと……」

「おまえ、俺の話を聞いていなかっただろう」

「聞いてたよちゃんと。道真を祭った太宰府のお守り、私も一つ持ってるもん」

 顎をつまみ、彼は考え始める。

 きっと、話せる程度と話せない程度の思い出を、砂金さらいのように、選別している。

「私には肘鉄しないでよね」

 こちらを向いた彼が。

 無表情のまま、顔を傾けコキ、と首を鳴らした。「……一組にいたおまえ以外全員、シバくか」

「笑えない。本当やめて」

「おまえを笑わせるために言ったのではない」

「じゃあ安心させてよ。誰にも暴力は振るわないって」

「了解した……」

 浮かびかけた、青白い炎が終息するのを待って、私は二つ目の質問をした。「ねえ、タスクとマキが喧嘩したらどちらが強い?」

「長谷川だ」

 即答するから驚いた。

 俺だ、くらい言うと思ったのに。

 私の戸惑いを取り残し彼は暗誦するようにすらすらと言う。

「運動能力と喧嘩の強さを兼ね揃えてやがる。経験値も違う」

 いつも温和で、平和的なタスクからは想像もつかないことを。

「タスクって、喧嘩なんて出来るの?」

 横顔でも分かるほどにマキは深く眉間に皺を刻んだ。「……世の中には知らないほうがいいこともある」

「なによその言い方。逆に気になっちゃ」

 最後まで言えなかった。

 目を見開いた彼の残像。直後、一瞬にして視界が黒で埋め尽くされる。

 急接近した彼に支えられていた。

 鼻歌と。自転車がきこきこと通り過ぎるメロディを聞く。

「……あっぶねえな」

 安全を確かめ、彼は私を離した。「あ。ありがと……」

 目をつぶっても平穏無事に歩けるかもしれない現状は変わらず。

 涼しい顔をしているけれど、私は自分が涼しくない顔をしていないかが不安になった。

「もう一つ、訊いてもいい?」

「なんだ」

 信号で止まる。

 右折してくる軽のライトをまともに見てすこし、目が、くらんだ。

「ひとを好きになってまた、誰かを好きになる。……これって、誰にでもあることなのかな」

 だから、マキの顔を見あげてみても、二つの虹彩でぼやけて見えた。

「おまえ、自分のことを言っている? それとも、一つ目の質問の変化球か」

 私にも分からない。

 ふとした疑問が頭をもたげた、ただ口から出た、それだけなのだった。

 青信号を見上げ、マキは抑揚のない声で語り始める。「誰にでもある。生涯愛するのがたった一人だけだなんて人間はそう、いやしない。フィクションだけの綺麗事だ。……さっき源氏物語を読んだだろう。見目形の美しい、亡き母と現・父の妻と生き写しな幼女を、寺から即かっぱらい手をつけたロリコンの浮気性な野郎を執念深く想い続けるファンタジックな紫の上よりも、俺には。意に添わぬ相手と婚姻させられるが好きになろうと努力する、玉鬘たまかずらのほうが現実的に思えるがな」

 こちらに一瞥をくれ、

「不遇に思えた新しい環境に流されず、新たな自分を開花させ、ひとと、心を通わせることに喜びを見出す……」

 そういう時代の話をしているんじゃないけど。

 と私の疑問を読み取ったように、話題を引き戻す。

「俺の話をするならば」

 情の一切を交えぬ声で、愛や恋や人々の悲劇を語れる、彼は。

 私の顔色を確かめ、小さく、笑った。

「そんなに聞きてえんなら最初っから言えよ」

 ……相当興味津々な目をしていたらしい。

「ある人を見ていたはずが、いつしか違う人を見ている自分に気付く。……兄貴と付き合い始めたのを見て、分かった」

 稜子さんのことを指している。

「嫌じゃ、なかったの……」

 自分の元彼女が自分の兄と付き合い始める。

 平常心ではいられないはずだ。

「兄貴からの相談に喜んで乗った」私の同情混じりの声にも彼は、動じない。「……罪滅ぼしかもしれねえな。稜子には幸せになって欲しいんだ。俺が出来なかった分、兄貴とな」

 優しく微笑む彼と、

 お兄さんのイメージとがここで初めて、私のなかで重なった。――


『……ちょっと抜けられるかな。中庭にでも行かない? 風が気持ちよさそうだし……』

 いつから、という答えを得られればそれで終了する話だった。

 間の抜けた顔をする私に対し、柔らかく笑みながらも、蒔田樹さんの目は真剣だった。

『きみには、誤解のないように、うちの弟のことを話しておきたい』


 去年の六月だった。あいつが怪我をしたのは。そっから間も無くして稜子と別れたのは。

「タイミングが合わないことって誰にでもあるんだよね」

 当時、音楽の世界で切磋琢磨していた稜子さんにとって、マキの、辞めるという決断は信じがたいものだった。

「やってみんと分からんやろが――つい口に出したこの一言を、稜子はいまでも後悔している。……取り返しのつかない一言だとね。人前では破天荒なところもあるけれども、音楽やってるだけあってね、あれで結構ナイーブなんだよ。それは弟についても同じだね。互いを思いやろうとするあまり、息苦しく感じられてしまう……そういう時期に差し掛かってしまったんだ」

 知っての通り、うちの弟もそういうのをぺらぺら喋るタイプじゃないし。

 あいつがサッカーを辞めて、自分から稜子にも別れを告げて、苦しい状況にあるってことを……僕は彼女から聞いて初めて知ったんだ。

「恥ずかしながら、うちの家族に聞いても一向にあいつの状況が掴めなくってね。……それどころじゃなかったのかもしれないね。電話代わってって言っても全然出なかったから……」

 失声症の時期があったと聞いている。

 樹さんは、知らないようだった。

「それで、僕は稜子と連絡を取るようになった。まあ自分を責める彼女の様子も気になったし……」

 稜子さんを励ましているうちに、いつしか、自分が励まされていることにに気がついた。

 声だけのやり取りだった。

 それが、屈託なく話せ、互いが素直になれる――そんな居心地の良さを感じ始めた。電話線たった一本を介して。

 東京に住まう樹さんを、全国大会が東京で行われるのを利用して一度尋ねた。

 再会したときに、二人は確信した。

 それからバレンタインの日に、樹さんは稜子さんに告白したのだが……事前にマキには相談していた。

『当人同士の問題だ。他人がいくら気を揉んでもなるようにしかならん』

 ――あんなことを言っておいて、自分は、樹さんと稜子さんのあいだに入り、二人の仲を取り持っていたのだった。


 なあ兄貴。……俺が兄貴に遠慮されて喜ぶと思うか。

 認めるが、俺は稜子が好きだった。過去の話だ。

 かつて好きだった女がみすみす不幸を選ぶのも、望んじゃいない。

 もし弟のことを思うんだったら、自分の気持ちに正直になることだ。


 ……私が、紗優とタスクの関係を悪くするきっかけを作ったときに。

 もしかしたら、マキは自分に言い聞かせていたのかもしれない。


 ――時間が解決してくれることもある――


 一ヶ月後のホワイトデーの演奏会には、必ず行く、と樹さんは約束した。

 急な試合でそれができなくなった。

 行き場のない気持ちを稜子さんはマキにぶつけ、直接渡せなかった、想いを込めたチョコをぶつけ――

 私が目撃した場面へと繋がっていく。


「……緑高では、彼と稜子さんが付き合っていることになっています」

 中庭にてゆうに二十分。

 そこまで彼のことを話してくれた樹さんに、私は率直に現状を伝えた。

「そうなの?」言葉よりも驚きが見られない。「ふぅん。変だね。……どうしてだろう」

 聞く限りでは、人前で目立つ行為をしたのはマキだった。

 そして否定しなかったのも。

 言いはしないが、ここで、彼への疑念が生まれた。

「ですので、……驚きました」

「あいつ、変わってんよね? ……家でもああなんだ。不器用な奴で自分の気持ちを押し殺してばっかりでさ。僕以外には一言も口を利かないんだ……あ源造さんも別かな」

 樹は誇り、と語ったあのお母さんが思い出される。

 彼の居場所はあの家には無いのだろうか。

「まったく我が弟ながら何を考えているか掴めないところがあるよ。まああいつのことだから……なにか考えがあってのことだろうね。成功してるかは分かんないけど」

「私。一臣くんを探してきます」

「気は遣わないで都倉さん。きみが東京に来るのを楽しみにしているよ。美味しいものでもご馳走するから。一臣や稜子と一緒に」

 浮かしかけた私の腰が止まった。「私が東京に行くのをどうして……」

「東京の大学を目指してるんだってね。……僕と同じ現象があいつにも起きていることを、電話口で声を聞くだけで、理解したんだ」

 樹さんは、疑問を浮かべる私の視線を受け止めて、微笑んだ。


「あいつが話すのはいつもきみのことばかりだよ」


「自分から話振っといて聞かねえのな」

 手加減なしに、

 頭を掴む手に、我に返った。「痛った」

「中三の頃の話も道真公の話も終了し、その後、羊が二百三十五匹現われた」

 よくもそこまでカウントできたものだ。

「あ。ありがとう」

「どういたしまして」

 しかし、彼の手は離れない。

「なあ都倉。……おまえの言う通り、永久不動の愛情などこの世には存在しないのかもしれん。愛情自体がある種の幻想だ。だが刹那的な感情であれ、それに身を焦がすのは存外、悪くはない」

 ぼんやりと、また樹さんの余韻の残った頭を起こせば、

 お兄さんと重なる顔で、彼は、笑った。

「俺のようにな」

 ぼさぼさの髪をそのままに、呆然とした私を取り残し、迷いなく自分の道を突き進む背中。

 ふと振り返り、唇のかたちが動く。


 勉強しろよ。


 見惚れていた自分に気づき、またも私は両頬を叩き、一目散。


 いま自分が浸るべき、受験勉強の世界へと還った。

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