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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十四章 泣いてもいいですか
87/124

(2)

 美味しいおやつの時間を過ぎた午後の、四時。

 舌の甘みはいずれは消えては無くなる。

 雪は溶けて水となり蒸発する。

 夢ならば目覚める日が来る、或いは潰える日が。それとも叶える日が。

 シンデレラのガラスの靴はいつかは壊れる。

 通い慣れた場所も、いずれは、去らねばならぬ時機が来る。

 時間の流れを逆さまにすることはできない。

 未来の私が過去に戻っても、同じ選択をしただろう。

 コンセントを引き抜き、コードの巻きとりボタンを押しては引っ張ってはし完全に収納してから、掃除機を階段下の物置に仕舞った。普段開け閉めしないせいで埃っぽく、出入りするだけで汚れそうだ。エプロンをしておけばよかった。制服に降りかかっただろう埃を払うと、ポロシャツがからだに貼りつくくらい集中していたことに気づいた。

 自分のことだったらこんな一生懸命になれない。特に、掃除の類は。

 貼り付くポロシャツを掴んで背中の間に通気をしながら、私は風呂場に足を踏み入れた。

 風呂に入るためではない。

 ガラス戸の向こうの、シャワー音が止まる。

「おじいさん。そろそろ、……おいとまします」私は大きな声を意識して呼びかけた。おおそうか、とおじいさんは湯船から顔を覗かせた。ゴム靴をきゅっきゅ鳴らし冷水で手早く一帯を流す。私は飛沫がかからないようかなり後退した。

「いえ、そのままで結構です」ゴム手袋を外しにかかるのを声で制止した。「いままで……ありがとうございました」

「おお」

 来るのは今日が最後であることを、お仏壇に挨拶をしたときにおじいさんにはお伝えしていた。

 最後だから、すべてを焼きつけようと思うのか、

 最後だから、なにも見ずに去ろうと思うのか――今回は後者だった。

 私がいなくなれば、おじいさんは和貴と二人きりの生活に戻る……この家で生活する、私の知らない和貴のことを思った。振り返れば、一度私が訪れたときなどは、元気づけるためにわざと陽気にふるまっていたように思えた。

 おじいさんとだけだとどんななのだろう。

 もっと、聞いておけばよかったな。……おじいさんに。

 未だ湿り気を帯びたポロシャツに制服のブレザーとコートとを順に重ねる。屋外は極寒だ。コートに手袋をしないのは自殺行為に等しい。

 身支度を整えている間、べちべちと床を走る足音を聞いた。

 その裸足の足音に、私は話に聞いた、お父さんの元へ駆けつける幼い和貴を重ねた。

「まだ、……走っちゃ駄目ですよ」後ろに首を捻り私は苦笑いを差し向けた。「お医者さんからも止められてませんか?」

 長袖長ズボンをいずれも七分丈までに巻き上げている。直すひまもなかった性急さが見て取れる。

 おじいさんは肩で息を整え、

「あんたに、……渡さなならんもんがあってな」

 白い、セロファンみたいな薄さの袋を手渡す。

 私たち受験生には慣れっこの、あれをいれた紙の袋をだ。

 断りを入れて中身を確かめる。

 てっきり。

 このへんの神社のものを予想していた。それが、

 湯島天神のお守り……。

「い。いつ、行かれたんですか」

 それも、東京は文京区のものだ。ますます驚かされる。

「先週や」おじいさんは胸を張る。「あんさんには言うとらんかったがなあ、わっしゃー旅にぷらっぷら出るんが趣味なんぞ。死ぬ前に全国各地を回りたいと思うとる」

「だって。その足で……」自由に歩き回れるはずが無いのに。

「お嬢さん」

 おじいさんは、胸にお守りを押し当てる私に、歩み寄る。

 目線を合わせて屈む。

 思いの伝わる、真摯で、やわらかな笑顔を見せた。

「あんさんが希望する大学に入れるよう、わしも、願うておる」

「お、じいさん……」

「どうした」

「泣いてもいいですか」

「もう泣いておるがや、このお嬢さんは」

 和貴とまったく同じ笑い方をし。

 まったく同じ手つきで、私の髪を、撫でるんだ、このおじいさんは。

 受験のことなんて言わなかったのに……。

「もう一つ、渡したいものがあるんや」

 クリスマスプレゼントには一日早いが、と言いながら、ひょこひょことした足取りで、玄関脇に置いた、さっきの宅急便のひとが届けた箱を取り上げた。

 かなり、大きい。大勢に配る菓子箱サイズの。

 重いのかと身構えて受け取ってみると、拍子抜けする軽さだった。

「開けてみんさい」

「いいんですか」頷くおじいさんにひとつ、伺いを立てる。「外国の子どもみたく、びりっびりと開けてみて構いませんか。あれを一度してみたくって。私……」

「どんな開け方をしても中身は変わらん」

 アメリカ映画でしばし、クリスマスプレゼントを無遠慮に開ける子どもたちを目にする。ホーム・アローンにもそんな場面があったかもしれない。

 木島の祖父母の家で行儀が悪いと従姉妹が叱られていた。以来、私は無遠慮を遠慮している。

 包装紙に畑中で唯一の百貨店のロゴが入っている。無遠慮に破けば、上質な白の箱が現れ、箱の蓋を持ち上げれば、

「マフラーと、……手袋、ですか」

 クリスマスカラーの赤。和貴のコートとお揃いの色合い。

 触れてみると絹の混ざった滑らかな手触りが伝わり、……質感とあたたかさに、戸惑いを覚える。

 いいんだろうか。

「気に入らんかったか?」屈んで、おじいさんは心配そうに私の目を覗く。この世代の男性にしては表情が豊かだと思う。

 和貴も残す、人間の素朴で素直な部分を、削らずに生きてこれたのだろう。

「素敵過ぎて恐縮してます。頂いていいのかなって……」

「せんでええ。あんたは本当に……ほれ。巻いたるからこっち向きんしゃい」

 空の箱に包装をおじいさんは床に置き、手早くハサミでタグを切り、マフラーを、メダルを優勝者にかけるように、私の首に、かけてくれる。

 風に飛ばされないよう、私がいつも前方で結う巻き方で、おじいさんは仕上げてくれた。

 近くに見ると皺が目立つ。染みも頬の頂点にちらほら。指先も、皺だらけで。

 おじいさんの存在は、私のこころの暗闇を照らす、灯台だった。

 実の祖父が厳しい気質なぶん、私は、和貴のおじいさんに、甘えたい感情を、抱いていた。事実、そうしていた。

 父親に甘えられなかった代償を求めていたのかもしれない。

 できたぞ、とおじいさんは喜ばしげに言うと、顔をほころばせる。

「向こうさ行っても使えるといいがね」

「は、い……」

 頷くと滴り落ち、赤よりも濃い染みが点々とできてしまった。

「あんれーお嬢さん。新品濡らしてどうしてまうがね」

 鼻まで垂らす事態に、おじいさんは、玄関備え付けの箱ティッシュを手渡してくる。みっともなく私は鼻を噛む。ごみ箱まで置いてあるいたせりつくせり度合いだ。

「あんたが大変そうやったんに、長う引き止めてしもて、すまんかった……」

「私が来たくて来たんです」

「……和貴も幸せもんやのう。こんないちゃけなお嬢さんに好いてもらえて」

 それを聞いて私はマフラー並みに赤くなった、と思う。

「や、あの、えと……」

「分ーかっとるて。あいつにはゆわん」からからとおじいさんは笑う。

「おじいさん」私は言い返す。「これを機に、もうすこしおうちの家事を頑張ってくださいね。特にお掃除を。埃はからだに毒なんですから」

 食生活における栄養不足といい、私は和貴のことが気になる。

 強気な言葉に任せてみても、一旦、崩壊した涙腺は止まらず。

 今度こそお別れを言わなくてはならない。

「お世話に、なりまじだ……」噛んだ。

「今生の別れでもないんやから。またいつでもんさい。今度は遊びに……」

 孫にする気軽さで肩を叩く。でも。

 ――今度は、無いんです、おじいさん。

 私がこんな人間である以上、……和貴が私のことを見ていない以上、もう、そんな機会はありません。

 あたたかいおじいさんとの交流も終わりかと思うと、引き裂かれる苦しさを感じた。けれど。

 別れ方が出会いを振り返らせるのだと、私は、父のことから学習した。

 おじいさんとの日々は私にとって悲しいものではなかった。

 濡れたまぶたをこすり、できる限りに、明るく、笑った。

「ありがとうございました。おじいさん、……どうか、お元気で」

 おじいさんはきっと痒くもない頭のうしろをすこし掻き、最後にこう言った。


「あんたは笑とんのがよう似合うとる」


 * * *


 家を出たときよりも薄暗い。厚い雲が覆う世界はいまにも泣き出しそうな色をしていた。

 けれど、涙の結晶のような雪は降り止んだ。

 だから、私も笑おうと思った。

 美空ひばりを聴けば間違いなく涙が止まらなくなるから、宇多田ヒカルの『Automatic』をプレーヤーにセット。通い慣れた帰り道は避け、回り道をする。

 塩川神社へと向かい、この時間は無論無人の朝市通りを抜け、――海へ。

 この頃には涙が乾いていた。

 海は青。青という色を私に教えたのは誰だったろう。幼稚園の先生か、お父さんだったか。

 現実に見る緑川の海は、白だ。轟音を立てて吹き荒れる海。高波が防波堤を暴力的に、叩きつく。テトラポットに降りるのも危険で、攫われるのはまたたく間のことだろう。キャンプで川の増水から逃げ遅れるのも残念ながらそのたぐいだ。

 自然に対する、過信と無自覚。

 近寄ってはならない領域が存在する。

『この時期に決まって海で釣りをする馬鹿がいる。……自業自得だ』

 とまで語った彼のことが、思い出される。

 ちょうど一年前のことだった。

 クリスマスイブ。

 あのときの、切なげな。お兄さんを懐かしむマキの表情が、胸を焦がす。

 私はブレーキをかけた。耳からイヤホンを引き抜きぐるぐるにプレーヤーに巻きつけ、かばんに仕舞いこむ。

 車は、無い。

 こうすれば、轟音が唯一の音楽だった。

 ほかのなにも一切を考えられないように。

 波を煽る風の力。寒さを得て水分を得て増幅する荒々しい海風に、私は自転車をがたつかせながらも、なにか意地になり、懸命に漕いだ。

 負荷をかけられても漕ぐのをやめなかったひとを知っている。

 長いまっすぐな道の、分岐点の辺りに赤い点を見た。

 それは、ひとのかたちをしてどんどん拡大する。

「和貴!」

 急ブレーキをかけて私は叫んだ。

 強風に足元の悪さというコンディションをものともしない。

 私の自転車と和貴の走りは、どっこいどっこいといったところだろう。

 学校外で目にする和貴。朝と同じ、真っ赤なダッフルコートを着ている。……と思ったときに帰宅してるはずがない、と彼の家についぞ立ち寄った私は、思考が鈍っていると実感した。

 ポケットに入れっぱなしのキャラメルに等しい。

 和貴は、頬の高いところが赤くて、ゆきんこの可愛らしさだった。開いた口から白い息を吐き、珍しいものでも見たふうに瞳を開かせ、私の下から上を眺め回している。「……ケッタ乗っとんの、初めて見た」

「けった?」私が蹴る仕草をすると、口許を笑みに変え、顔を振る。「違う。自転車のこと。名古屋弁でね」

 ……からだは、なんて正直なのか。

 閉じ込めようとか、制止しようという本能の一切が、働かない。

 現実に彼を見れば、この氷点下に近い気温のなかでも、心臓をあたたかな血が通いだす。

 いつの間にこんなに和貴が好きになったのだろう。

「……真咲さん」

 笑いを消した彼が、何故か、近づいてくる。

 両手でハンドルを持つ私は、身動きが取れない。

 ストップ。

 という距離も越え、

 目のなかに目が、入りそう。

 呼吸を忘れ鼓動だけになった私に、彼は、冷たい指を、私のまぶたに、走らせた。

 片目をつぶった変な顔になりながらも、片方の目で彼を凝視する。

 真顔のまま、透明で無垢な眼差しで彼は、

「どして、泣いたの」

「な。泣いてません」

「目が、真っ赤だよ」

 ふ、と確信したように息を吐いて彼は離れる。

 真っ赤なのは私の顔だと思う。

 視線を下げると見るからに重たい紙袋が目についた。重心が左にずれるほどの。「……講習会の帰り、なんだよね。今日で最後?」

「今年のぶんはね。また来年もあるから」

「大変なんだね……」

「受験に比べればそうでもないよ」

 働くことの厳しさを私は知らない。

 どんな辛く苦しいことがあっても、学生である以上はやはり、親の育てる温室に守られている。

 という、後ろめたさと、自立を求める欲求が葛藤し、反抗期を生む。

 つまりは、反抗期は自活の欲求。

「あのね。真咲さん……」手が、振られていた。視界をいっぱいに占める彼の手が。「考えごともいいんだけどさ、この寒さのなかですることじゃないよ。早く、帰りなさい。風邪でも引いたら大変だよ?」

 保護者の口調で、されどあどけない幼い語感をもって、唇を尖らせる。

 私は彼のアンバランスさが、好きだった。

 この瞬間を切り取って永遠にしたい。

 離れること無くこの場にとどまっていたい。

 寒さなんか、どうだって、構わない。

 破滅的なほどの恋心。その一片も口にできるはずもない私は、ハンドルに力を込め、サドルに腰をかけた。

「うん。和貴、良いお年を……」

「まだクリスマスだよ」

 ペダルに足を乗せ、首を振った。だって。

 会えない。

 私は毎日学校へ行くけれど、和貴は行く用事も無い。

 お休みの日に会う間柄でもない。電話もしない。

 つまりは、それだけの関係でしか無い……。

「ねーえ真咲さぁん」

 答えず逆の足をペダルに乗せにかかった。期待してしまうと、あとが辛い。

「犯人だれやろな? 僕ぜったいキムタクやと思う」

 軽い言い回しに、すこし吹き出して足を止めた。

 笑わせることに成功したと見て、軽快なリズムでこちらにたたたと走ってくる。私は彼の足元を見た。スニーカーの赤が濡れて一部えんじ色に変わっている。「……おじいさんじゃないかな。あのファンファン大佐やってたひと」

「ふっるいなあー」今度は眉を大きくしかめ、顔を軽く振る。和貴は、いろんな笑い方をする。「岡田真澄でしょ? ……今夜、拡大版でやるって知ってる?」

「十時四分からだよね」

「気合入ってんね」

 唇に手の甲を添え、可笑しげにからだ全体を震わせる。

 私も和貴も『眠れる森』を観ている。クリスマスイブに合わせた今日は最終回だった。

 軽く握られていた拳が、開き、空を掻く。不可思議な動きに視線が吸い寄せられる。放物線を描いて、私の、頬に――


 添えられていた。


 すこし濡れた、かなり冷たい皮膚を私の全細胞が感じ取る。


「……思いつめたような顔しとるから、」


 目を伏せるまつげのつくる影。それは雪の粒に、濡れていた。


 ――どうしたのかと思った。

 なにが、あったのかと……。


 私の髪を耳にかける、外気を晒すものなのに熱を増す。

 轟きなど、聞こえない。

 彼のことしか見えない、見たくない。

 添えられた、彼の右の手の尋常じゃない冷たさにも、なにかを悩むように震える眼差しにも、切り取られて収斂する瞬間が、私のなかで膨れあがる。


「か、」言葉を出すのに緊張した。「和貴のほうこそ、この寒いのに手袋もしないで。風邪引いちゃうよ」

 私は彼の手首を掴み、自転車を倒さないよう注意をしながら、そっと自分から離した。

 手首の太さには、性別を隠せない。

「僕なりの罰なんだ」

「なにそれ」

 答える代わりに和貴は左の肩をすくめる。

 影のある、複雑で曖昧な笑みを浮かべ、沈黙した。

 私は彼の瞳に、隠れた過去があるのだと、読み取った。

 なにか言えない、自分を戒めるための理由を。

「いいから、早く帰ってお風呂入ってあったまってから見ようよ」私は自分から切り上げた。「……また来年ね。おやすみなさい」

「うん……真咲さん、よいお年を。おやすみ」

「和貴も……」

 サドルをまたぎ自転車を漕いだ。

 もう、振り返ることはできなかった。

 膨れ上がったこの気持ちを止められやしない。

 きっと、言ってしまう。

 元気が無いのは、和貴のほうだった。

 なにかを言いたげな、辛いことを思い出したかの、不安定に揺れる彼の目が焼き付いて離れない。

 好きだと気づくことで行動が、不自然になる。気づかないうちは楽だった。あの夏の頃のほうが和貴とはもっと、自然に話せた。

 その不自然さを互いに分け与え、距離を、構築する。

 一度開いた距離はなかなか元に戻せない。

 割れたガラスが二度と前の美しさを取り戻せないのと同じで。

 CDプレーヤーを出してB面をセットする。『time will tell』そう――時間が解決してくれることも往々にして多い。

 人間が定義付けた、逆らえない時間という概念こそが、彼らの問題を解決する最大の治療薬であり、また、時間をかけて忘れ去ることが、最大の、武器だった。

 海風にさらされ、宅への道を辿りながら、そんなことを考えていた。

 けれど、どちらにも頼るつもりはいまのところは、無かった。

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