(2)
強い風が吹き荒れ、日本海の波は荒れ狂うと聞く。
だが、そこにある海は不規則なリズムの波音を周囲に漂わせる一方、寸時、聞くものの鼓膜にすうと溶け込む静けさをも保つ。群青色を白に飛沫に、変えながら。寝そべって麦わら帽子を日除けに顔に乗せたら気持ちよく眠れてしまいそう。
泳ぐ者はない。向こう岸にヨットの輪郭がちらほら。
誰の姿もない。私たちを除いて。
波打ち際を走るシルエットは金に近い髪をきらめかせ、半島の緑に紛れていく。ひかる点の残像を残しつつ。せっかく似合いのカーゴパンツが泥に海水にまみれ。あとのことなんか気にしない、無邪気な少年。
対して。
じっと座る影。砂浜に流れ着いた大木に。老人のように達観した後ろ姿がなにを眺めているかは、分からない。
砂浜と国道との間を繋ぐ白い、奥行きのある階段。砂浜を見守るゆるいカーブの真ん中に腰掛けている。江ノ島にもこんな段々があったな、と思う。
「海泳がれるんは盆までなんよ。盆過ぎるとくらげが出てもうて」
冬は極寒の地と聞き及ぶが、現在、真夏の白んだ日射しが照りつける。
「そうなんだ。くらげなんて見たことないな」
あたしもないなー、と立てた膝を払う紗優。さりげに気にしてる。「刺されるとすっごいいったい。ちっちゃい頃にいっぺんあってな。背中ぶすーってきてすぐいったーってなんの。……くらげ出て泳げんくなるとあー、夏が終わるって思う。きゅーに町が静かなって寂しくなんの」
「残るは宿題だけってとこ?」
「よう分かったな」払う手を止めてにたり。意地悪っぽい笑みも彼女には似合う。「そのとーりやわ」
ふと、直線を戻り走る茶髪くんを見やったと思えば、
「なあ。聞いてもいい?」
膝頭に手を添え顎を預ける。黒目がちな瞳に私は頷く。ふっくらとした涙道は芸能人みたいで、強運の持ち主であることも示している。
「東京ってどんなところ?」
「どうって……全然違うよ。なかにはこういうのどかな場所もあるけれど」
それだって江ノ島の海はここよりも大幅に都会だ。
「それに。あんまり出歩いてないから分からないよ、この町のことは」
そっか、と頬杖をつく。「でもなー安心したって? うちらがついとるから大船に乗ったつもりで」どーんと胸を叩くけどえぇえ?「どういうこと?」
「和貴もな。親がおらんの」
「うん。聞いてる」
何の気もなしに形のいい唇の動きを追うと、
「あいつ、小学三年のときにな。お父さんとお母さんを事故で、亡くしてしもうて。……トラックにぶつかられて即死やってんて」
まさか。
……事故死だとは思わなかった。
「ああ、和貴は無事やったよ? 車に乗っとらんでおうちで留守番しとってん」懸念の色を見てか紗優は安心させるように言い添える。「当時まだちっさかった和貴が誰と暮らしてくっつったら、近い親戚が向こうおらんもんでな。こっち越してきたんよ」育ちは名古屋。一番親等の近い方がどうやら「お母さん方のお祖父ちゃんな。うちから歩いて30秒のとこ住んどんの。むかしっからうちの親と交流あってあたしもよー可愛がってもろーた。孫が遠いぶん実の孫みたかってんろうなあ。遊びに行くたび50円アイスにふ菓子かんならず用意してくれとったもん。おばあちゃんが甘いもんばっか与えちゃいけないでしょうつってもこっそりおじいちゃんがなあ、50円渡してくれんね。ばーさんに見つからんようになってほんでまたおじいちゃん怒られんね。祖父ちゃんより優しいおじいちゃんやわ。……和貴には厳しいんやよね。男の子やからやろな。……とにかくま。そーゆー事情で和貴はお祖父ちゃんと二人暮らししとるんよ」
茶髪くんの発言に引っかかりを覚えていた。
『紗優はうちの近所に住んでてね。小学校からの幼なじみ』
理解した。
いい性格を形作る、そんな簡単に語れない事情だということも。
彼は、……お祖母ちゃんも失っている。
喪っているのかもしれない。
「やし、背丈こんなんやった頃から知っとんやがけど……あいっつ」なにか思い出し肩を揺らす。「和貴な。来た頃全っ然馴染めんくって」
よほど私が深刻な顔をしているのか、紗優はわざと明るく語るように思えた。
「そんな風に見えないけどね。人懐っこそうだし」
やろ? と紗優は同意する。「けどなー小学校の頃なんてみんなガキやろ? 喋る言葉違うだけやのうてどっからどー見ても女の子やったもん」あんな隠れマッチョやのうてな、と笑って前髪の流れを整える。「髪キンキンやさけ、ガーイジーン! って特になあ男子からがひどかった。カズコとかオトコオンナとかゆわれて、いじめられとってん」
髪って。「彼。……地毛なの?」
私もかなり茶色いほうだけど彼は数段上を行く。見た感じオレンジのブリーチ。光の加減でさっきみたく金髪にもなるし。
身を乗り出す私に紗優は含み笑いで応じる。艶やかに、風になびく横髪を手で押さえ。
また、彼女に見惚れてしまった。
「あれで純日本人」ハーフでもクオーターでもないよ? と念を押す。「移り住んでしばらくは借りてきた猫みたく大人しゅうしとってん。やのに中学入ったらもーヤケになったんか反動でも来たんか。取っ替え引っ替え女と遊ぶようになってもうて」
「うっそ」あんなあどけない風貌からは想像もつかない。
「ホントホント。……やし、誰かからあいつの過去のネタ聞いても引かんといてね。高校入ってすっぱり手ぇ引いたっぽいし」
引くって。「はあ」
「昨日な、うちに和貴が来て」目線を追う。その彼が、座る黒髪の彼の腕を引っ張っている。先入観も入ってか、父親に絡む子どもに見えてくる。「玄関先でさーゆー、て大声で呼ぶんよ。なにかと思ったわ。ちっさい頃そー呼びに来ることあったがやけど高校入ってからそんなんちぃともなかったし。降りてってどしたん? てあたしが訊いたら、『あした。同じ時間に来るから必ずあけといてー』それだけ言って走って出てった。……意味分からんやろ?」
やっぱり最後まで聞かないんだ。
そんな茶髪くん、波際に引っ張り込んだはいいものの、ぶしゃっと波、黒髪くんにかけられてた。なにすんだよーって顔ぶるぶる振ってる。洗いたての子犬があんな仕草をする。
「ほんで今日になったらいきなし蒔田も連れてやってきて。あたし朝も食べとらんがに。真咲さんち行くからーてそのまま行ったんよ」
「そう。……だったの」彼の発案だったんだ。『あたしなー真咲に会えるんずぅーっと楽しみにしとってん』……あの言葉も、合わせてくれたのかもしれない。
「きっと和貴はなあ、ちっさい頃の自分と重ねとんの。やから真咲のことほっとけんのよ」髪を片耳にかけ、どこか嬉々として語る。「聞いたよ? 学校で会うてんて? 真咲んち行く途中もなんかずーっと一人でぶつぶつゆうとったわ。僕失礼なことゆーてしもたとかよう分からんことを……」
小学生だとか言ったことね。
びっしゃびしゃだよ僕洗ってくるーって走る彼にちょっと冷たい目をくれ隣を向くと。
愛しいものだけに注ぐ眼差し。
誰かが誰かを思う気持ちが、なんて美しくって。
ただ誰かを大切に思うことが、こんなにも綺麗なことなんだと。
胸の内側からあたたかくなる感覚と共に、私は、知った。
すこし雲がかる太陽を眺めた。かもめだって自由に空を泳ぐように思う。髪を耳にかけてみた。視界は広まる。見えていなかったものが見えてくる。潮騒も強くなる。
――ずっと。
閉じこもってばかりいてとげとげした私の心が、ここに来て初めて。
解き放たれたように思えた。
「あいつはなーあーやってなんも考えずガキくさくのほほんしとるよーに見えっけど、全然気ぃ遣い。あたしのこともマキのことも気にしすぎなんよ。和貴は」
「付き合っちゃえばいいのに」
「ない。それは、ない」
二度否定。
愛情めいたものを垣間見たからこそ言ってみた。自覚せず恋に落ちるって私のよく読む漫画のお約束なんだけど。
目で私の疑問を悟ってか、
「近すぎるんよ」言い飽きてるのだろう、ため息深々。「……さっきもゆーたやろ、男として見られん。好きとか付き合いたいとかまったく思わんの。弟と同じやね。仮に。二十世紀の終わりに世界に二人きりになったって。和貴とだけは寝ん自信あるわ」
そこまで断言されると逆に気の毒になる。「……彼。ちょっと、猫とか」ううん、あの髪のオレンジっぽさと無垢な瞳は、「子リスに似てるよね」
「そやねー目がくりっくりしとるし。蒔田はなんやと思う?」
「オランウータンかな」私は片手でスカートの膝の下を覆う。「見た目は黒豹だけど」
ぶはっ、と紗優が吹き出した。「なんやのそれ?」
当の彼は、私たちの数段下に寝そべってる。長い足を組んで自由気ままに。気持ちよさそう……。「テレビで観たことあるの。だだっ広い森に一人で住んでて独りを好むんだって。あと。絶滅の危機にあるらしいし」
「絶滅関係ないやん」紗優の口許が笑いをこらえきれてない。
「ある意味希少価値があると思って。私あんな無口な人、他に見たことがない」
「やろねえ」立ち上がる紗優。パンツ。見えるから。逆を向く。と、
「ねえーっ子リスにオランウータン! ぼさっとしとらんとそろそろ行くよぉーっ!」
広い海も驚きの声量で叫ぶ。
むくっと起き上がった黒髪。
こちらにガン飛ばしてくる。
青白い炎のオーラが見える。
がっくりと私はうなだれた。