(5)
勢い任せに扉を叩いた。
定位置にあの後ろ姿が、あった。
なんだって破壊しかねない、暴力的な気分だった。
「……こんなところでなに、してんの」
答えは、無い。
休憩時間をどう過ごそうが俺の勝手だと言いたげに。
だが自由と勝手は、違う。
後者は誰かの意志をないがしろにしている。
「パソコン部に、戻りなよ」
ずんずん柵のほうへ突き進む。手をかざすまでもない。天候は曇り。日差しはさきほどよりも若干弱まった。
「隠れて煙草なんか吸って、どういうつもり」
ただし、私の口調と足音はエスカレートするばかりだ。
道場破りのごとく現われた人間に見向きせず、彼は、彼なりの自由を堪能している。
「稜子さんと付き合ってないって、どういうこと」
肩が、肉眼で分かるほどに大きく震えた。
「それから。わ、私にキスしたってどういうことっ」
「来るな」
知るかよ。
「……なにすっか分かんねえぞ」
「望むところよ」
ふうと息を吐き、気だるげに空を仰ぐ。
私は止まること無くそのまま、彼の左に立つことを選んだ。
サッカーグラウンドは見えないほうがいいでしょう?
「その煙草、捨ててくれる? マキを殴りたいから」
律儀に煙草を携帯灰皿へと仕舞う。
その指先の動きになんの動揺も見られず。
こちらがわななくほどの怒りに駆られているのに、彼は、静止物にでも向ける眼差しをよこしていた。
暗い深い沼の底のような瞳にはなんの情感も浮かばない。
眉一つ動かさないのも、……腹立たしい。
「私のこと、……からかってたの? 嫌いなら嫌いって最初っから言えばいいじゃない。彼女がいるとか嘘ついて、……なんなのっ!」
ありったけを吐き出した。
酸素が搾り取られ、苦しくて肺を押さえた。
それでも彼は――傍目にも冷静沈着だった。
きっと、誰か大切な人間が目の前ですっ転んだとしても変わらない。情もない脈もない、下手をすれば心電図もP波もR波も無しの一直線かもしれない。
あのお兄さんと大違いなマキは変わらない。
暖簾に腕を押すほうが手応えを感じられる。
爪の先から無力感が血となって駆け巡った。
「もう、いい」私は彼に別れを告げた。「……さいあく。ファーストキスを寝てる間に奪われるなんて」
「起きてるあいだならいいのか」
出入口を視界の端に捉えていた。
その視点が、急速に回転する。
事故に遭ったカメラのごとく。
強い力で肩を捕まれ、足を引きずられもつれさせ、「え」と言いかけた私は、
抱きしめられていた。
違う、もっと酷い。
セカンドを奪われていた。
信じられないくらい近くに石膏像よりも美しい顔が実在する。
なにが起きているのかまったく理解できない私の脳を置き去りにし、私の呼吸を貪り奪う。こんな獰猛な彼を知らない。乾いた湿った感触が合わさり、温かい舌がするり、ねじこまれている。蛇のようになまめかしく、蠱惑的に動き、深く、角度を変えてそれは幾度と無く繰り返される。
熱い激情で心臓が突き破られる。
頭の導線が焼き焦げそう。
不可思議に頭の中が鮮血に染まり、目の前を淡い火花が散る。
息が、……できない。
顔をそむけようとする自由が、頭のうしろをびっちり包む大きな手に阻まれていた。背中に長い指のかたちが刻みつけられている。
私を掴む彼はあまりに強く。だがその力に比して、柔らかく、優しいと誤認するほどの唇の感触。ほのかな煙草の香りが吐息に混ざり。
混乱の只中に投じられ、目眩を起こす。
いったいいつまで続く。
どこまで息が続くのかプールで蹴伸びで試すあの苦しさ――私は、身をよじらせて訴えた。もがいて腹の辺りだかを押した。ようやくして彼が離れる。
瞬間。
私は持てるだけの力の全てを自分の利き手に注いだ。
「最っ低!」
彼は、避けなかった。
瞬間的に見た彼の顔が、ひどく悲しそうに見えたのはたぶん私の願望でだ。
階段を降りる足がもつれた。転げ落ちないのが奇跡だった。倒れこんだ両膝が笑っていた。酸素不足のあまり肩でぜいぜい息をする。
だ、
「大っ嫌いっ!」
猫耳猫手袋を床にたたきつけた。
……直後に自分の行動を後悔する。頑張って坂田くんたちが用意してくれたものだ。物に罪は無い。
――八つ当たりはね、向けるべき怒りを対象に向けられないからこそ、代わりのなにかにぶつけることで解消にかかろうという、代替手段だ。もし対象にぶつけられていたならば怒りなりは一旦終息する。
「柏木慎一郎の、……嘘つき」
ちっとも解消されない。
渋谷のスクランブル交差点に放り込まれた猫みたく大混乱のさなかにいる。
――結局。
気持ちの整理がつかなかった私は、一度保健室に立ち寄り、学園祭を途中にして帰った。誰の目にも留まらないようにこっそりと。……田中先生が、宮本先生に伝えてくれ、そして全休にはならんよと気を回してくれたのも。……中座してくれたのも、涙の居場所を求める私には、ありがたかった。
トリのライブに盛り上がる校舎を去るのは散々な気持ちだった。
それでも、あのままあそこに居続けることのほうが私には惨めだった。
続いて、自室のベッドが私の逃げ込める場所だった。
それでも、大泣きすると、母に祖父母に心配をかけてしまう。
枕に顔を突っ伏し、息を殺す。
タガが外れたとはこういう状態なのか、どんどん濡れてしまう。
『僕居なさに寂しくって枕濡らしてない?』
……タオルが必要だ。
ぼたぼた垂らしながらむくり、起き上がる。動作のひとつひとつが、鈍い。不覚にもゾンビを自分と重ねた。部屋いっぱいを満たす日差しの場違いな明るさが鬱陶しい。窓の障子がすこし開いていた。
まだ日の高い太陽がこんな人間を見下ろして嘲笑う。
これが、青春の傷みと愚かさなのか。
ガラスに薄く映る、自分を捉えた。
その唇、知らずこの指が辿る。
「……大っ嫌い」
吐き捨てて、すべての窓と感情の蓋をしてベッドに飛び込むも、唇を腕で擦っても、こびりついた感触は消えやせず、そして中々寝付けなかった。