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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十章 ある一点において徹底的に
73/124

(4)

「ごめん。見苦しいところを見せちゃって」

 白い、Tシャツにチノパンが砂地で転んだ人のごとく汚れていた。

 私のせいだ。


 なーに言ってんの、とおどけて首をかしげるけども。


 お祭りに戻れる心境でも状況でもなく、それを読んで……家まで見送ってくれた。

 道途中は。

 老人ホームでの苦労話とか。和貴のおうちのお向かいに住まう一人暮らしのいじわるばーさんが、「おばーちゃんて呼ばれると聞こえない振りすんだよ、おばちゃんならギリ。お嬢さんなんて呼んだげると年甲斐もなくはーいって返事すんだ。にこにこしてさ」

 違う話を振ってくれた。

 ……気を遣われているのが、よく分かった。


 ぎぃ、と鳴る玄関戸に手をかけ、じゃあまたね、と振り返ろうとする。


 異変を、感じた。


「ご、めん。ここでっ」


 靴を脱ぐいとまも無かった。

 こみあげる、間に合いそうにない。

 玄関、を転ばずに駆け上がり最短のお風呂場へ。

 洗面台に顔を突っ込み、


 口を開くより先に出る、濁流に飲まれる感じに襲われる。

 実際は飲むのではなく吐き出しているのだった。

 形容しがたいし難い声が出た。蛇口を捻る。水を出す。……


 なに食べたっけ私。


 午後の三時に焼きそば。以降はつまむ程度にしか食べていない。ひく、と胃が引きつる。予兆。また喉の管から気持ち悪さがせりあがる。真夏なのに、素肌の腕にびっしりと鳥肌が立つ。

 苦しい。

 吐くのが苦手でいつも我慢したくなる。この抵抗感が、


「入るよ。真咲さん」


 目の端に彼の残像が映り込む。

「待」

 って、と言いかけた顎を捕まれていた。容赦なく指が突っ込まれ、喉の奥をこじ開かれる。

 洗面台に突っ込ませるように頭の後ろを押さえられ、

 促されるがままに吐き出した。


 鼻からもこぼれ涙が出てくる。

 嘔吐しなければこの事態は解消されない、

 でもなにも吐き出せない、吐き出せるものがなにもないのに、胃が痙攣して、嘔吐感が、止まらない。

 たまらず顔を歪めた。


「大丈夫、大丈夫だから」

 

 もうすぐ終わるよ。終わったらずっと気分がよくなる。すっきりするから、ね。


「もうちょっとだけ、頑張って」


 肘先までを洗面台に入れて髪も冷たい水まみれになりながら声をかけられ、

 背中をとんとんと叩き、さする、

 私は彼のことが。

 かけられる励ましだけが救いだった。


「気持ち悪……」


 ようやく、終わった頃だと思い、そばの壁に倒れこんだ。

 流水音が止まらないのは、和貴がどうにかしてくれた。

 胃のなかがすっからかん、体力を絞り出したようで、猛烈にけだるい。鶏がらになった気分だ。

 喉が、……乾いた。


「待ってて。僕、飲み物持ってるから」


 目を閉じるとまぶたの裏が白かった。風呂場一帯のいろを反映する、その白い世界に身を投じると、今度は生理痛が訪れた。

 ……最悪だ。


「あーほら。飲む前にコップで口ゆすご?」


 ぐったりとした私は、情けなくも膝でずりずりと歩き、洗面台に誘導される有り様だった。

「うが」

 なんか、引っかかった。

 ガラガラとうがいをする。「元気だねえ真咲さん」と和貴が笑った。

 再び壁に戻るまでを支えられるのも、……介護されてるひとみたいだった。手渡されるペットボトルをがぶがぶと口に含む。

 染み渡る水分が、すこしずつ、混乱と混濁を洗い流していく。


「……落ち着いた?」

「うん」勢い良く飲み過ぎて口端から垂れてしまった。腰を浮かせ、後ろポケットからハンカチを取り出して拭う。「ごめんね。更に見苦しいところを見せちゃって……」


 和貴が首を振るのは気配で伝わった。


 どころか、頭に手を添えられている。


「……うん、お風呂入ったほうがいいのは確かだね。念のため訊いておくけどキミ、ひとりで入れる?」


 くん、と大袈裟に鼻息を立てる。


「は、いれるに……」


 彼の声音は、からかう意図が明白だった。


「決まってるでしょうがっ」


 投げつけた結果、こんな近くからにも関わらず、腹立たしいことに和貴はキッチリと攻撃を避けていた。ハンカチをしかも片手でキャッチし。


「その元気があるならへーきそうだねえ」余裕にもハンカチをヒラヒラさせ、「……ここ。表のお店と繋がってんだよね。僕、真咲さんのお母さんに挨拶してくるよ」

「……なんで。帰っていいのに」


 絶やさなかった笑顔を突如消し、

 真顔で、従者のように片膝をついた。

 手のなかにハンカチを握らせる。


 握らせた手の甲を二三度、とんとん、


「真咲さんが眠るまでついてる」


「ほ、えっ!?」


 奇声を出させたことに策士は満足気に、いまだ匂いで満ちる風呂場を出ていく。


 ……どうしよう。


 そもそも。


 なにをしているの自分。明日は模試だというのにズタボロだ。だいたい、自分から抱きついておいて「いやっ」で叫ぶってなんなの。

 嫌われたかも。

 こんなくっさい嘔吐物まみれで悲惨な姿を見せつけて自己嫌悪こそを明日の普通ゴミに出したい。失態もろもろを焼却していただきたい。

 後悔さておき。

 現状をどうにかするのが先決だった。汗やら嘔吐物やらにまみれた服を脱ぐ。お湯の温度は高めにし、頭っからシャワーを浴びる。

 自分の肌に触れる。

 不快な感触を思い出し、赤くなるまで擦っても落ち着かなかった。


 風呂場に着替えは置いてなく……さっきの下着を着用してバスタオルを巻き、誰もいないことを確かめ泥棒のように風呂場を出る。戸は、閉めなかった。換気が必要だった。

 と頭がすこしばかり働くいっぽうで大半が気を抜けば倒れ込みそう。

 居間から明るい和貴と母の笑い声が聞こえる……ますます足音は立てられない。急いで部屋に入るつもりがこの階段。こんな急で、しんどかったっけ。蛙みたく這いつくばって段をあがる。

 二階にトイレがあって、よかった。往復なんてとても無理だった。


 喉が、乾いた。


 とにかく。部屋に戻らなければなにも始まらない。

 トイレから戻るとベッドに、ダイブした。


 ああ気持ちいい。

 もう、起き上がりたくない……。

 けど髪、乾かさないと。

 パジャマにちゃんと着替えないと。


 脱力。しんどい。寝ちゃいたい。いろんな言葉を並び立ててそのまま眠りそうな自分を叱咤し、白眼剥きながらもタンスからパジャマを取り出す。目眩を起こす寸前だった。


 母が二階にあがってきてたのにも気づかなかったくらいだ。

 母は二回ドアをノックする。すこし沈黙。

 声かけるのに珍しいなあ、


「お母さん。仕事あるんだから見にこなくっても平気なのに」

「僕はキミのお母さんじゃないんだけどな」


 扉を開き顔を覗かせた彼の表情が驚きに変わる。


 う、えからキャミソール着ようとしかかっていて下着のまま、女の子座りしてる状態だった。


「ご、めんっ!」力強く扉が閉まった。「み、見てない僕はなんっにも見ていないっ!」

「ちょ、ちょっとだけ待ってて!」


 へ、部屋に来るなんてきき、聞いてないよ。


 焦りと動揺とで手が震える。ボタンを閉じるだけの行動が亀のようなとろさ。もどかしい指先に苛立ちを感じながらも全身を、パジャマに着替えた。


「……いいよ、和貴」

「お邪魔します」


 ペットボトルとコップを乗せたお盆を手にしていた。勉強机に直行し、「こっち置いちゃうね」

 ちゃぶだいではなくベッドの左手にある勉強机をチョイスするのはそういえば紗優も同じだった。

 そういえば私は双方ともベッドに横たわったままでお迎えしている。

「あそだ。飲むでしょ」

 私が答える前に彼は、ペットボトルの蓋を開く。……あれをさらりと開けられる男の子を羨ましく思う。特に、輸入もののミネラルウォーターの蓋は信じられない固さだ。開けられんーってか弱い女の子アピールする子がときたまいるけど、私の場合は本当に苦手で、だからミネラルウォーターなんて滅多に買わない。

 最後に買ったのは、下手をすれば合宿の夜まで遡る。


「はい」


 手渡され、一気に半分を飲んでしまった。喉が乾いていたのを思い出した。トイレ、近くなっちゃうかも。


 和貴は丸椅子でくるくる回ったりはせず、椅子を机のほうに戻し、勉強机とベッドの間の壁に、よ、と言いながら寄りかかり、膝を立てて座った。

 こちらに目線を上げ、


「おやすみなさい?」

 和貴こそ「帰っていいよ」

「まだ八時回ったとこだよ……早すぎる」


 膝に肘を乗せ、頬杖をつく。

 窓からの淡い光が、息を吐く彼を照らしだしている。周りの子よりも高めな鼻、丸顔なのにちょっと削げた頬。と笑みを乗せた口許。


「……去年も十時すぎまで遊んだんだっけ」

「だね。十二時で早いほう」すこし微笑む、頬の筋肉が震える。「二時三時まで出歩くのがふつーだよ。大人はみんなへべれけだし、だいたいこの時期しか出歩いても面白くはないからね」

 親は、とは言わず、大人は、と言うところが和貴らしいなと思った。

「これ、そっちに置いてもらっていい?」

「ん」

 私は布団のなかに潜り込んだ。

 和貴は、勉強机にペットボトルを置き、入り口に進み、部屋の照明を、落とした。

 戻ってくる途中でなにか、引っかかったのか。机に手を添えてかかとを浮かせる。けっこー明るいんだなこの部屋、と呟いたのを聞いた。

 私はその一挙一動を注視する。

 男の子のからだって、……なんて美しいのだろう。

 障子窓ごしのほのかなひかりがさっきとは違う手法で彼の存在を浮かび上がらせ。薄暗いなかに光る髪の色。愛らしい女の子のビジュアルといっても、和貴はまるで私とは違うからだをしている。樫の木のようにまっすぐで、されどしなやかなムチのよう。Tシャツを着ていても分かる、背筋の動き。思いのほか肘からうえにかけてが太い、二の腕の筋肉の動きも。

 食い入るように後ろ姿を眺めていると、いきなり、彼は、振り返った。

 私は掛け布団をあげて隠れる。

 絨毯にじわりじわり彼の足音が染みこむ。二歩、三歩。


「真咲さん。いま、……僕のことを見てたでしょう」

「おやすみなさい」

「強烈な視線を感じたよ。逃げるんだ?」

 声が大きくなる。うえで腰を屈む気配。

「逃げてません」

 掛け布団を下ろすと、至近距離に彼の顔があった。


「私に、……訊かないんだ。なにがあったか」


 驚いたように彼の瞳は収縮する。


 私は目を逸らさない。


 変な男の人がいたことは、話さなかった。


 ふ、と彼は頬を緩める。「女の子の口を割らせるっては、僕の主義に反する。無粋ってもんだよ」

「そういえば和貴は、フェミニストだったね」

「そいつは、どうかな……」


 茶色いガラス玉が近づいてくる。

 ベッドについた手が、スプレッドを軋ませる。


「怖くないの? 僕のことが」

「ぜんぜん。和貴は鳴かせるタイプでしょう、ホトトギスは」

「鳴くまで待つ派だね」

「……意外」

「昔は鳴かせるほうだったけど転身したんだ」

 笑顔の一切も浮かべずに語る彼に、私は笑顔で提案をした。「じゃ。鳴いてあげる。ホー、ホケキョ」

「ま、さきさん。それウグイス」

「あ」


 額を突き合わせて笑った。

 お腹の底からはじけだす笑いだった。

 すっからかんだった胃のなかから柔らかい、くすぐったい感情がこみ上げてくる。


 ひとしきり笑い合うと、和貴は隣に戻り、布団から出ていた私の手をしっかりと包んでくれた。


 なんにも問いたださない代わりに、見守ってくれる優しさに、私は救われていた。

 ひとの手のあたたかさが、ここちいい。


 けど、なんとなくだけど、酸っぱい匂いがするような……


「和貴こそ、うちのお風呂入ったほうがいいんじゃ」

「いいんだ、そんなのは。……これね、キミのおじいちゃんから借りた。気づかなかったの」

 あ。ポロシャツだ、しかも白の。「サイズ、ちょうどみたいだね」

 よく誤解されんだけどねーと彼は自分の肩口を掴んだ。だぶだぶの服を着た場合にはそこが合わない。「うえの服はけっこうサイズでかいんだよ僕は。肩幅あるから。MよりかL派だね」

「へえ。私は絶対Sだな」……とそれよりも。「帰っていいよほんとに」


 雲の行き先を窺っていたような彼は、こちらに照準を合わせ、


「無茶言うな」


 心臓に悪い。悪すぎる。

 笑みの要素もなしでそんなこと言うなんて。


「へ。変な顔してても。よだれ垂らしていびきかいてたりしても、笑わないでよ」


 もっと違うことを言えばいいと分かっていた。なのに、

 それ以上の無茶を言いたくなかった。


「……真咲さんは」低い声で、彼は早口で言う。「夜寝るときすごく静かだよ。寝てんのかって分かんないくらいだ」

 一つ、引っかかる。

「夜、和貴のまえで眠ったことなんてあったっけ、私」

「なんとなく」

 視線を落とす。左右に揺らす。

 動揺が手のひら越しに伝わるようだった。何故だろう。

 目を瞑るも、不可解な感じが残った。和貴と一緒にいたときに私が眠ったのは、合宿に向かう車のなか。それと保健室のベッド。

 いずれも、夜という条件は当てはまらない。


 こちらの釈然としない様子が伝わったのか、違う話題を彼は切り出す。


「タスクは鳴かせてみせる……まさに秀吉だよね。本人あんま認めたがらないけど、さりげに仕切り屋なんだよ」

 自覚が芽生えたのを知っている。

 けどそれには触れず。

「安田くんも同じだと思うな」

 私は明るい声を出した。和貴を安心させるために。

「川島は鳴かせてみたいんに待っちゃうタイプ。ほんでホトトギスは飛び立ってしまう」

 笑いに誘われてしまった。

「それとは逆で、鳴くまで待つ耐性ゼロで自分から鳴いちゃうのは紗優。……石井さんも同類の匂いがすんなあ」

「マキは、殺してしまえだよね。いかにも信長派っていうか……」


 和貴は小さく息を吐く。

 意外なため息に、私は言葉を止めさせられた。

 低い声で、彼は静かに語りだす。


「そう見えるかもだけど、実は、待つタイプなんだよ」

「……そ?」

 私は半分夢のなかに落ちかけていた。あったかい言葉と響きと皮膚のぬくもりに、自然と誘われていた。


「真咲さんの人間分析もまだまだだね」


 私は、頷いたと思う。

 微睡んでうんとか言ったのが最後だった。


「僕とマキは似ているんだ。ある一点において徹底的に」


 以降の独白は月のみが知っている。


 私は和貴の手を握りしめて眠った。彼が開放されたのは、翌朝の五時だったという。覚醒してはいなかったが、離れていくのがなんとなく寂しかったのは覚えている。


 年頃の男女がなにを、……たわけが!


 祖父が激高したのだが、おじいさんそれよりもあんた、記憶のうなるまで一郎さんと呑んでおったがいね、孫責めるまえにあんたがきちんとしなさい、と祖母にいなされ、


 挙げかけた拳を仕舞いこんだ。


 これら一連は翌朝には知らされず、出来の悪い模試を終え帰宅すると母から聞かされた。

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