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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十章 ある一点において徹底的に
72/124

(3)

 昨年と同じ真夏の興奮と歓喜の渦に身を投じる。違うのは、彼が、


 あの辺りに――立っていた。

 靴を無表情で投げつけて呆れ顔をしていた。

 恋しく思う、砂を噛む想いには無視を決め込む。


「わ、たし。トイレ行ってくるね」

「場所どこか分かるぅ?」

「あっちの駐車場のほうだったよね」

「そ。ひといっぱいおるさけ、あーそれから屋台もなー危ないからとにかくぶつからんよう気ぃつけてぇな」

 母よりも保護者めいた発言をする紗優にふふ、と笑って答えた。「ありがと」


 砂地に落ちる人々の影を踏み、いまだ到着し続ける神輿を避けて歩道の隅を選び、道途中に出くわす同級生と喋ったりしているうちに、思いのほか時間を食ってしまった。

 こういうところのトイレって綺麗だった試しがない、残念なことに。

 入り口の電灯に羽虫が飛び交う、独特のアンモニア臭が漂う。床は必要以上に水がまかれ濡れているし、個室の頭上の蛍光灯にもぶんぶん蝿が。

 戦々恐々、としつつどうにか済ませて洗面台に立つ。鏡が公衆浴場で見かけるずいぶん横長のもの。そこに映る自分が、


 顔をしかめた。


 痛み止めを飲んで来なかったのを後悔する。

 あんまり、……薬に頼るのは好きじゃなかった。普段だったら家でおとなしくしてるだろうに私はどうしても今日という日を楽しみたかった。

 濡れた手を拭くべく取り出したハンカチがひどく濡れていた。汗でだ。頭っからシャワー浴びたかの汗だく。明るい場所だからこそ露見する。……こんなんであんまり誰に会いたくないな。

 と思った矢先、

 かん、と個室が開いた。

 内心で身構える。

 私よりあとに入ってさくっと出てきた、

 通り過ぎる影が、やけに白かった。亡霊のような白さだった。

 なにげなく目で誰なのか確かめにかかったとき、


 心の臓が止まるかと思った。


 たった一度きり、だ。


 しかし私は彼女を覚えている、

 一度だけ話した彼女を覚えきる理由を有する。


 ぶしつけな私の凝視に気づかず、にこにこと、まるで生まれたての赤ちゃんの笑みのままに手を洗い、タオルハンカチで拭き、びちゃびちゃな床に顔をしかめたりなどせず、小走りで去る。

 急いで会いたい。

 待たせたくない、なにかが待つような。


 ハンカチをポケットに押し込み、急ぎあとを追う。


 追うほどの距離ではなかった。

 そこを出てすぐの、電柱に寄りかかる――


「お待たせえ」


 そう伝え、腕を振り、懸命に駆ける。


 親に向かう幼子に似た、

 ううん、


 恋慕の情に駆られての言動だった。


 白のコットンワンピース。

 清楚な彼女に似合いだったそれが、


 彼のもとに向かう彼女という属性を象徴し、


 言葉遣いよりも純粋な彼へと導いているように思えた。


 法被の裾を掴む手に力がこもった……Tシャツにジーパンの自分がみずぼらしかった。汗まみれ砂に汚れた自分が。


 こんな部外者の傍観など、雑踏以下なのだろう。

 彼は、

 彼女にだけ許す笑みをうっすらと頬に乗せ、

 追いつくのを見届け、

 ひとつふたつ、声をかけ、


 人ごみへ紛れていく。


 彼と彼女の世界へと。


 絵になる、白と黒のシルエットだった。


 その二つが一つに重なる合流を見届け、


 ――私は、彼らとは違う方向へ駆け出した。


 砂地に足を取られ、水中でももがく、もどかしい走り方をしている。肺が、絞られる。息継ぎの仕方を忘れてしまったのだろうか。

 足先がなにかに引っ掛かり、すっ転んだ。

 からだが痛む。

 違う、


 痛いのはからだなんかじゃなかった。


 払いながら身を起こす。……せっかく借りた法被が砂で汚れてしまった。膝が、若干に水気を含む泥に濡れた。見回しても誰もいない――駐車場一本を隔てて正対するこちら側は、あちらの喧騒とは裏腹に、波の音を聞き取れるだけの静けさに満ち、誰の姿もない――いまの私に似つかわしい暗がりだった。

 膝の横で支える手が、砂を、拳のかたちに握りしめていた。


「なんっでいまさら……」


 私はそれを叩きつけた。


「なんでいまさらショックなんか受けるのよ!」


 言葉もろとも。

 こんな一人芝居を打つなんて。馬鹿じゃないのか。情けない。虚しい。――ひと通りの言葉を並びあげて攻め立ててこういう感情から一刻も早く開放されたい。

 にくみ。

 そねみ。

 喜ばしくない感情に満ち満ちた自分という性質を。


 かんしゃくを起こし、すこしは落ち着きを戻せた。

 松明が、……漆黒の海にて煌々と所在を示す。いつも、紗優は私が離れる度に場所分かる? と声をかける。ここじゃ時計も見えないがかなり時間が過ぎたことだろう。いまごろ心配をかけている……


 戻らなきゃ。


 そう、判断が働いたときだった。


「お嬢ちゃん。ひとり?」


 おそろしく近く耳元で声を聞く。

 喉が、引きつる恐怖を覚えた。

 恐怖を持つべきではなく、……相手は人間、だった。

 なにを連想しているのか。

 しゃがんで手をついた奇妙な姿勢で首を捻っている間に、そのひとは、私の視線を置き去りにし、正面に回りこんでくる。

 しゃがれた声。まったく顔が見えない。中年男性。法被は着ていない、そしてそういうひとにあんまり知り合いはいない。

 私が誰なのかを確かめるためか、顔を接近させ、


「はぐれでもしたんかいな。いくつなが?」


 酒臭い。


 咄嗟に顔をそむける、

 がそれはならなかった。


 胸を掴まれていた。

 信じられない事態にからだが、硬直する。


「や、だ、なにす……」

「ちょっとくらい触らしてえな。減るもんやないんやし」


 今度は尻もちをついた。

 その手が離れず、追ってくる。

 存在を確かめるように揉みしだく。


 喉の奥から吐き気がこみあげる。

 なにを、ぼうっと見ている。

 動け。

 叫べ。

 打開しろと本能が水面下で叫び立てているのに、現実での自分は、シャットダウン後のパソコンのように脳が無い。

 はだけた法被を開かれ、Tシャツをまくられ、滑りこまれようとしているのに。


「かたかた震えとって。かわいいなあ」


 歯の根が合わない、

 腹の皮膚を、触れようとしている。


 見えなくても、下卑た笑いを浮かべているに違いない、捕食にかかる人間を目の当たりにし、

 ようやく、私の防衛本能が行動を伴った。


 右の手に掴んだ砂を、私の胸元を覗くその顔に思い切り投げつけた。


「うわ、」ぺ、と唾を吐く。「なにすんねや」

 顔を目をこする。直撃したはず。


 その隙に、私は猛然と明かりのほうへと駆け出した。


 待ってえな、怖いことせんから、など叫ばれても、


 こんなときに待つ人間がこの世界のいったいどこに存在する。


 なにもないところで何度も転んだ。バケツでもひっくり返したかの目まぐるしさに、鼓動が破裂しそう。俊足でも持っていればよかった。ホラー映画で逃げる人物なんか見るとなんであんなもたもたしてんだと思うけど自分があの愚鈍な人間そのものだった。息切らせ駆けているのにまるで世界が動かない。後ろなど確かめられるはずもない。それでも、どうにか、意志を、足を、働かせ。


 やっと、ひとけのある、駐車場の辺りまで到達した。

 こころもとない程度だが電灯の灯っている。


 ――明るいということは。


 顔を、見られかねない。


 なによりも、


 見たくもない。


 再び、手綱を引いて走りだす。


 浅い息遣いを耳の後ろで聞く。足がコンクリートを蹴るのは分かる、どんな焦燥に駆られているのか、

 走っても。

 逃げても、


 さっきのが追いかけてくる。


 寄せては返す人の波を避け走り、

 なにを目指せば解決するのだろう。


 全速力も続かず、呼吸が限界を覚え始めた。


「ま、さきさん?」


 よたついた、足が止まった。


「真咲さんっ!」


 それを捉えたときに、

 焦燥に駆られる走馬灯のような濁流が、収束した。


 自分がどこに立っているのかも把握していなかった。


 神社に続く、朝市通りだった。


 上下とも白を纏う、

 法被を脱いだ和貴が、

 驚いたように、私のことを見ていた。


 和貴を見たその瞬間に、

 やっと、すべてのものにいろがついて見えた。幼子をおんぶする、その子の手にするくるくると回る風車のそのいろが。通りを軒並み飾り付ける屋台の華やかさが。彼の背にしている、おかめやキャラクターのお面の数々が。行き交う紺地の浴衣の、花開く鮮やかさが。

 視界を彩る色彩と共に、私のなかからなにかが溢れだした。


「……どしたの?」

 怪訝な表情をそのままに、こちらに手を広げ、やってくる。

「なっかなか戻ってこないからその辺探してたんだよ。真咲さんのことだから間違えて朝市来ちゃった、とか、さ、っ」

「和貴っ」


 いまごろ震えが、くる。

 からだじゅうが信じられないほど震える。

 遭難でもしたみたいに歯の根がかちかちと合わない。

 震えとってかわいいなあ、あの言葉が再生される。

 強く奥歯を噛む。

 ぎゅっと目をつぶっても、

 私はなにをされてなにを言われてたのかを記憶している。

 指の毛の生えたあぶらっこい指先酒臭い息かわいいねと下品な口調でいたぶりにかかる触られたそれらのすべてが、

 津波となって襲い掛かってくる、現実に、たまらず拳を固める。

 その手が泥や砂にまみれているのに気づき、

 あれが事実なのだと、思い知る。


「ま、さきさん……」


 つむじの辺りに息を感じた。

 私は見上げた。


 男の人の手が。


 私に、――


「やっ」


 大袈裟に反応した。

 離れようと働いた、


「大丈夫だから。大丈夫……」


 髪の毛についているのだろう、砂を、丁寧に、払ってくれる。

 私が目の前にしているのは、


 さっきとは違う。


 私のよく知る、和貴の手だった。


 ぽんぽん、と背中を叩く、その触れ方も、


 微笑みかけてくれる、その人の在り方も。彼の所在も。


 和貴の存在を認め、やっと息が吸えるようになった。肺のなかから呼吸ができる感覚が戻った。


「こわ、こわかったよ、私……」

「大丈夫、もう平気だよ。ほら、真咲さんのよーく知ってる子リスな和貴だよ。……もう、離れたりしないから。安心して」

 額の辺りに鎖骨を感じる。

 首筋の匂いも、汗の匂いも混ざった香水の感じも、知っている。

 頭の後ろを包む、やや皮膚の厚い手のひらも。

 それなのに、またさっきのが蘇る。耳元で囁かれた、男の息遣いが。


「大丈夫。大丈夫だから。僕が、ついてる」


 和貴は何度も大丈夫だよと繰り返した。子どもをあやすように背を叩き、髪をすき、安心させようという彼の意志が伝わった。

 すこしずつ、震えが収まり、落ち着きを取り戻し始めるのを感じた。

 呪文のように唱え続けられる彼の言葉は、私にとってそのとき、薬よりも効力を持つ魔法だった。

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