(2)
「まっさきぃー」
「うほわぁっ」
やっぱり飛びついてきた。
紗優のおうちのチャイムを鳴らせばこっちにまっしぐら。ドッグフードめがけるまるで忠犬の彼を私は抱きとめる。「……怜生くん、背が伸びたね」
頭の位置に変化がある。鎖骨のしたらへんまで来てる。
「分かるう? 前へならえの先頭じゃなくなったんだー。よしろうとみひろちゃんの身長抜いたんだ、すごいでしょ?」
顔を起こす、明るさの率直さ。
私もこんな時分があったのかと……うたぐってしまう。姉というよりは親の心境だ。
私は笑って小学生の彼の髪を撫でる。犬みたいに柔らかな髪の毛を。
「怜生くんも今年はお神輿担げるんじゃない?」
「まだ早いてねーちゃんが、……言うんだ」
姉に似た赤い唇を尖らせ、
その両の唇をぶるぶるぶるーっと振動させる。
私はそれもできない。
それにしても何故毎度飛びつくのだろう。
私はラグビーの練習台か。
「あらあらあ真咲ちゃーん。いつも怜生がごめんなさいねー」
玄関からつっかけサンダルでおばさんがやってくる。
「いえ」首を振り、「私、一人っ子ですから、弟ができたみたいで嬉しいんです」
「でもさ。弟じゃないんだから」
思いも寄らない、合いの手が入る。
「……おばさん、怜生。こんにちは」
怜生くんのことを抱えながら恐る恐る、確かめに入る。
この心拍数。
「久しぶりだね、真咲さん」
そこには、
夕暮れを覚え始めた日差しに照らされる、なんてことのない街並みを後ろにした、
花のこぼれんばかりの、笑みがあった。
確かめてみると抑えられるどころか加速する一方だった。
あらあカズくん久しぶりやねえとおばさんの声が遠く聞こえる。なにも言わずに微笑する和貴も、どこか、遠くからやってきた少年のようだった。
「ほんっにあの子は仕度に何時間かかっとるんかねえ。怜生、呼んできなさい」
「えー?」
首根っこを引っ張り、家のなかに戻っていく。
感覚が消えると、それはそれで落ち着かない。
お腹の辺りに触れながら、改めて、和貴のことを、盗み見た。
金に近いオレンジに髪を輝かせ。
肌が、全体にうっすら日焼けをしている……鼻の頭が、頬の高い部分が赤かった。運動会翌日の男の子みたいで、微笑ましい。
「焼けたね、和貴……」
私は顔をほころばせるのを抑えられない。
「ほっとんど室内にいたんだけどさー西日が強いんだよ。あすこの老人ホームは。窓際におるだけで日焼けすんの。そんで炎天下のなかをバーベキューしてきたばっかだし」
「それって和貴の送別会?」
「うん」
と和貴は鼻を人差し指でこする。『ばっか』と言ったから、
「それから昨日、こっちに帰ってきたんだね」
「ん」今度は鼻の頭を親指でひっかく。彼はおそらく、老人ホームでも人気者で、周りから引き留められたのかもしれなかった。
帰ってくるのは一昨日の、二十日と聞いていた。
――僕居なさに寂しくって枕濡らしてない?
不在を寂しがるもなにも、私は彼と頻繁に会う間柄には無い。紗優とは違って。『久しぶり』という表現は間違っていなくもない。だけれど、……
「僕が、弟みたいなもんだったら」
コンバースのスニーカーが視界に入る。使い込まれた、和貴には珍しくも、黒の。
足を揃えた彼は、身をやや屈める。
目線の高さを私に合わせ、いたずらに笑い、
「真咲さんに抱きついても構わない?」
「な、」
……にを言っているのだろう。だって、
「か。和貴のことを弟みたいだなんて、考えたことも無い。むしろ、」
「……むしろ?」
透き通るガラス玉の瞳に囚われる。
なんだか、自分が汚れた人間のように思えてくる。
「なか、入ろっか」
困り果てた私の反応をふっと鼻で笑い、玄関口へと誘った。
このごろ、どんどん和貴に近づいている気がする。
からかっているだけには違いないのだけれど。
といつぞやの紗優をエスコートするタスクを思い出し、背中に添えられる手を感じながらも、私は期待めいたものを排除するよう努力した。
* * *
「え。あ来れないんだマキ」
「海野の祭り派なんやないがー? 安田がなーせぇーっかくウチラが誘ったんにさーあっちの祭り行くんやってえー」会話をしながらもポケベルのチェックを欠かさず、「真咲せんぱい海野の祭り知っとるぅ? ふんどしで海ざぶざぶ飛び込むエグい男祭りながよ」
夏によくニュースで見るようなのかな。「タスクも?」
「知らん」
「……そっか」彼を誘ったのかは知らない。
「あ」そや、とポケットから今度はインスタントカメラを取り出し、「写真撮って撮ってえ! ヒデ喜ぶしぃー」
いまひとつ彼女の脈絡が掴めない。会話におけるリズムが。
手渡され、ファインダー越しにパシャリ。
レトロな宮川町商工会議所を背景に選んだ。彼氏は名古屋にお住まいだと聞いている……土地柄が伝わるものがいいかも。
「お神輿と撮ったほうがいいんじゃない?」石井さんを誘導にかかると、
「そんなん持っとったら危ない。ママに預からせるから貸して?」
仁王立ちで腰に手を添え。
去年と同じ言い方で紗優が現われた。
い。やーん! 紗優せんぱいちょーイケてるーヤバかわぁーねーねー撮って撮って紗優せんぱいとぉー。
て、
私に対する反応とまるで違うじゃないか。
とは言わずおとなしくカメラマンに徹する。紗優って足がしなやかで超短いショートパンツも似合うんだよね。……石井さんは去年は不参加だったように思う。明るい髪の色でお化粧十二分なギャルを見かければ記憶しているはずだ。
「カメラ。おばさんに預けてくればいいんだよね。私行ってくる」
「あ。そやな。頼むわ」
何故だか紗優に言われ、神輿の傍で仲良くお喋りに興じる二人を残し、おばさんの居るだろう会議所へと向かう。彼女たちはファッション関係のことに共通の話題があり、ときどきあんな風に夢中になる。
あちょっと焼きもち焼いてるな私。
結局、石井さんと一枚も撮らなかったや。
まいっか。
和貴の真似をして頭を掻きつつ去年もお見かけしたマッチョなお兄さんの間を頭を下げて抜ける。あのひとたち会話するのになんであんな距離あけてるんだろう、煙草スパスパと。
「ま、さーきさんっ」
いきなし。
腕を掴まれる、後ろからだった。
驚きすぎて振り向いた姿勢のまま看板に接触した。
幸い、カメラは落とさずに済んだ。
ものの、
「ごめん。そ、んなびっくりせんだっても」
瞳孔を開かせた私の支えに入る。
整髪料のフローラルな香り、制汗剤スプレーの爽やかな匂い、
と、いうより看板に背を預け、
接近されてる状況で、
近すぎる。
「いっ」声が裏返る。「いつもと違うからびっくりしたのよ。正面からわっ! て驚かすのが和貴のやり方でしょうっ」
鼻息荒くする私に対し、
瞳孔を開かせた、間近に見る和貴は、
不敵に目を細め。
ふてぶてしい笑みをうっすら口許に乗せ、
親指でつうと下唇を拭う仕草をする。
「これからいろんなパターンを混ぜてあげる。キミの期待に添えられるように」
添えなくていいよ。
と首を振るが、その隙に素早く手の内からカメラを抜き取られ、「おばさんに預けてくるよ」と走り去られてしまう。
その俊足を見送りながら思う。
いったいぜんたいこの二週間でどんな色香を身につけたんだか。