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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第十八章 明日という日を逃したら、多分私は一生後悔します
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(2)

「文学部志望てゆうとるからてっきり……三島由紀夫かシェークスピアでも学びたいんがやと思うとったわ」

「違うよお母さん。国公立だと学部じゃなくて学科になるの。教育学部心理学科とかね」

「教育学部ゆうたら先生になるもんかと思うがいね」

「でもないよ」

 夏休みを翌日に控えた七月の二十四日。実質突入したと呼べるのだが、明日から休む間もなく二日間の外部模試が始まり、終わると夏期講習と模試と講習のサンドイッチでカレンダーのすべての日付が埋まる。

 まさに、受験の夏となる。

 三者面談を済ませた帰りだった。判断材料にされていた、こないだの模試の結果は……

 喜ばしくないアルファベットでぜんぶだ。

『国公立は生物と日本史がネックかもしれませんね。見方を変えれば、底上げ出来ればかなりのところを目指せるとは思いますが。……ここと。この学校は二教科や三教科ですけども、私大の入試はこういったセンター試験を意識した模試とは違い、学校ごとにかなり、クセがあります』

 宮本先生の言うとおりでだから赤本なるものが売れる。

『センター利用の私大を選ぶにしても、対策が必要ですから、私大は三つ程度に絞ったほうがいいですね……それと、滑り止め候補も考えておこうな都倉』

 第三志望の私立はC評価だが、現時点でE評価の国公立。

 合格は、厳しい。

「こんな風に一覧になっとるなんて感心やわねえ。お母さんときとだいぶ違うわ」

 私がよほど険しい表情をして沈黙していたのか。母はわざと作るような明るい声で、私の手のなかの、コンピュータのはじき出した結果を取る。

「お母さん。それより喉が渇いた。麦茶が飲みたい」

「はいはい」母は紙を机に戻し腰を浮かす。

 壁掛け時計が四時を知らせる。

 ひぐらしが鳴く以外は蝉も鳴かない、夕暮れ方のひとときだった。白昼の灼熱が徐々に冷めていくのを母不在の右から吹く風に体感する。その風が私を通し、廊下へと抜けていく。小窓の向こうの台所にて祖父母の働く気配を感じられ、食器を洗い流すリズムを聞く。

「無理せんでいいがよ。真咲」

 冷蔵庫を前に屈んだ母は不意に言う。「うちのこと気にして学費安いとこせんだっても、あんたが入りたい学校で構わんがよ。……ここんとこ毎晩毎晩あんたが根詰めとるん見ると心配になるわ。お母さんたちな、私立やてどこやったっていいってさっき宮本先生にもゆうた通りなげし、……」

「違うの。そうじゃなくって……」

 冷蔵庫の扉に隠れて見えなかった母は、麦茶の一リットル強が入るグラスボトルを取り出し、一旦それを肩くらいの高さの食器棚のうえに置いた。母の視線が私に流れる、私はそれを待って言った。

「志望する大学がたまたま国公立なんだよ」

「そうなが?」

 またしゃがんで食器棚の下方を覗く。……お茶飲むだけならグラスなんて選り好みしなくたっていいのに。それよりもはやく乾いた喉を潤したい。

「私が学びたいのは心理学なんだけど……心理学と一口に言っても色んなジャンルがあるんだよ。犯罪心理学、児童心理学に発達心理学」偏ってるな。まいいや。「で一番興味があるのが臨床心理学なの。ひとのこころを治療するための学問ね。それにも学派が色々あって……有名どころだと、というよりいまアツいのがユングかな。Xファイルの影響だね」

 母のこころは決まった。

 海のような青をした切子ガラスを手に取る。

「学術論文以外に一般のひと向けに分かりやすい書籍を出してる大学教授もいるから、それで私は気になる学派や教授をチェックしてたんだよ。……学派なら私はフロイト派かな。カウンセリングか講師一本の先生もいるけれど、臨床も講義もバリバリ現役の先生もいる。そういった先生から直接教えを乞えるチャンスなんて、この時代に生まれてこそだもん、逃したくないんだよね。特にね、東京心理大学の柏木慎一郎先生が気になっていて……著書でしか知らないけど、すごく、人に向ける目が優しい感じが」

 言葉を止めさせられる。

 どこで見失ったのか。

 グラスが滑る。

 母の手を離れ、

 下へ下へと青が落ちる、

 パリィンと音を立てて粒子が散る色が舞う。不覚にもそれは身を引いた母のスーツを背景にきらめく、コバルトブルーに彩られた花火の美麗さだった。

「大丈夫お母さんっ」

 答えは無い。

 顔を両手で覆う母の様子が気にかかるものの、急いで廊下の荷物入れからほうきとちり取りを取りに行く。

「怪我は? してない?」

 顔を振る。

 幸いにして淡いグレーのスーツにかかった様子もなさそうだ。

「危ないからちょっと。どいて」

 押しのけて周辺を払う。青いちらちらが無くなるように、粒子が消え去るように。裸足を好む祖父がうっかり踏んづけたら大変だ。あとでもう一度掃除機をかけたほうがいいと思う。

 ビニール袋を二重にし、外側の袋に後で書いたゆえに汚い字で割れ物と書いて玄関横の割れ物置き場に置く。

 そこまでして戻ってきても母は、座り込んでいた。

 前のめりに床に手をついてまさに慟哭するかのその姿に、私は面食らった。

「……そんなに大切だったの? あのグラス」確かに私の中学の修学旅行のお土産だったけれど。「また買えるよ。北海道行く機会あったら買ってきたげるからそんな」

 いつか働いてお母さんを北海道旅行に連れてってあげたい。

 そんな連想までしていたのだ、私は。


 私を育ててくれた母のそばに跪き、

 私を産んだ母のからだを支えながら。


 ――昔のひとはよう言うたもんや。蛙の子は蛙……。


 呪印でも唱えるかの低い響きに怖気がついた。母は私を見ていない。焦点の合わない眼差しで私の助けを借りず、自力でからだを起こして自己を支えると、母は、まさか、こんなことが、あるなんて、と一語一語を肺を絞られるような声で呻く。


「どうしたのお母さん。しっかりして、」

「真咲が」


 遮る、

 母の目からしずくが落ちる。

 そのひかる筋の残る面差しで母は、

 覚悟を固める人間の意志を持って、

 されど、わずかに躊躇いを彷徨わせる震えを持ってして、


「真咲が、うちを出るときに言おうと思っとったんやけど――」

「な、にを」


 私の言葉は躓いた。

 それ以上を聞くのが、怖い。

 なにかとんでもないことを明かされる予感が、いや予感などではない。確実な鍵を手にしかけるその不気味な手触りまでも感じられた。

 知れば正気を保てなくなる、母のように瞬時我を失うかもしれない、そんな予知までも感じられるのに、それでも、私の言葉が声が口が、駆り立てられる。


 知りたいという、方向へ。

 

 私は母を見つめ返した。

 なるべく期待値を削いだ、透明な眼差しで。

 寸時押し黙っていた母は、涙を止めた瞳で、

 理解してか。

 かすかに微笑み、曖昧な風に首をかしげる、

 私と母に共通の、困ったときのあの仕草で――


「真咲はお父さん……義男さんの本当の子じゃないんよ。血が繋がっとらん」


 真実の扉を開いた。


 * * *


 昼間が夜闇に変わりきる前のひとときが私は好きだった。変化し切る直前の危うさが美しい。夏の夜は長い。髪を軋ませる日差しの凶暴性が山々に喪失させられ、炎色反応の実験で見たことのある強烈なオレンジに変化へんげし、それもまた落ちて、海の青へと還っていく。

 その変化の終わりまでを見届けられる気がする。

 このままここに居れば。

 うっすら明るい群青というのか。この空も紺へ、やがては眠る前のまぶたの裏に似た漆黒へと明度を落とすことだろう。一日の始まりから終わりにかけては人間の一生に似ている。

 アウトサイダーとして眺めるだけの。

 それもまた、同じだ。

 腰が、痛んだ。いったい何時間座っているのだろう。時間という概念が消失していた。

 初めて訪れたときはこの深くベンチのところまでは至らなかった。入学式の次の日に――早退してカラオケにしけこんだ翌日……川島くんたちは当時まだ入部していなかった。ほんの三ヶ月ちょっと前のことがずいぶん遠い出来事に思える。

 みんなでお花見と称してこの公園にやって来た。広大な敷地をなるだけ自然なかたちで残そうという意志の伝わる、坂の上の肥沃な大地に。坂がやや急で歩きでは二三十分かかる立地が関係し、また直近の雨で芝生に土もぬかるんでいるに違いないから花見客は下校途中の中学生が通りすがる程度だった。お目当ての桜のほとんどが散っていてもまだ残るたくましい生命力をそこかしらに感じられる。緑高の中庭よりも種類が豊富で樹齢百年は越そうという松の大木も見受けられた。

 口許に絆創膏を貼った和貴が走り回り、紗優が鬼ごっこの鬼のごとく追う。私も習おうとしたらタスクにおよしなさいと言われた。

 日の当たるところを熟知しているのですよ彼らは。貴女の制服が汚れるのを僕は見たくありません。

 なんだか顔を赤くしながらどもありがとうとお伝えした。

 一方、無関心な彼がどこにいるのかと目で探せば。

 水たまりの向こうに。

 この町でもっとも歴史を重ねた巨木の下に。

 迷惑なことに煙草を吸う。

 なくせに迷惑な顔をし、俺はこんなとこ来るつもりはねえんだ風に。

 けれども。うたかたの白煙と。

 何故か彼のところに流れ来る、死した桜の花弁が散り吹かれ。

 例え疎ましく自分の周囲を舞おうとも、なすがままなされるがまま。

 桜が彼を愛でているように思えて。

 真新しいブレザーに、綺麗に揃えられた漆黒の髪。淡くまとわる桜吹雪のいろと不快気な眼差しとのコントラストに。

 私は飽くることのなき魅惑を覚えたものだった。


 季節は変わり、いまは夏。あのときよりもいっそう輝きを、――暴力的なまでの生存を魅せつける新緑のまばゆさに。覚醒させられる。眠る、隠そうとする意識を揺さぶる輝きの度合いだった。


 ――お母さんが東京におるときに、……つきおうとるひとがおったの。


 このベンチの斜め前に一本、物言わず針葉樹が立つ。根っこの傍らに雀が一匹。もう一匹と。


「あのひととお母さんとは家柄も釣り合わん、……将来を約束されとるひとやった。結婚する相手も、学校を卒業したらどの道に進むかも、決まっておった」


 木の実か誰かの残したパンのかけらだろうか、点々と落ちるなにかをついばむ。争わず干渉せずお互いが。


「親の望む道とあのひとの進みたい道は違うておった。夢を叶える、才能も実力も持っておるひとやった。それやのに、お母さんのせいでその夢を諦めようとしとって、それで、……お母さんから一方的に別れを告げてん。あのひとはアメリカに旅立っていった。その後の人生に関わりを持たんつもりやった。やけど。そのあとに気がついてん……」


 お腹の中に命が宿っておることに。


 上空で烏が鳴いたせいで雀たちの平和が破られた。

 一斉に飛び立っていく。

 私はまた、見るものを失ってしまった。

 こころばかりの仲間を失ってしまった。


「それから、実家に戻ろうか迷うておるうちに……義男さんに、結婚を前提につき合ってくださいてゆわれて……お母さんはすべてのことを話したの。会社も辞めるつもりやったんに、お父さんは……分かった上で、すべてを、受け入れてくれて……」


 そのひとが私の父親だという確証はあるの。

 そのひとは私のことを知っているの。


 まるで他人ごとのように口が動いた。


 お母さんの血液型はB型。義男さんの……本当の血液型はAやのうてO型。B型とO型からは、……A型の子は生まれんのよ。


 生物を選択科目とする私は母の弁を一応は理解した。


 ――落ち着いて聞いて。真咲。……あなたの父親は柏木慎一郎。……あのひとはあなたのことを知らない。お母さんが言うてないから。


「いい加減にしてよっ!」


 絶叫した。

 母を見下した。

 いまのいままで裏切り続けてきた、

 こんなものを隠し持ってきた、母を。


「親の勝手で離婚、挙句父親は違いました。……お母さんはいったい私をなんだと思っているの。木島の人間も親戚もみんなみんな――『知っていた』のね」


 私が幼い頃から受けてきた仕打ちに関しても合点がいくものだった。

 泣き崩れるのが母の答えだった。

 それ以上に不整合な不正解など見当たりやしない。

 一瞥して家を飛び出した。


 いったいどうなにをどうやって辿り着いたのか。

 記憶含めて喪失している。頭のなかが真白いばかりで足を木の枝だかにところどころ切っている。肺が苦しかったし足の筋肉が変な感じに痛かった。手ぶらだ。制服だ。だから、緑川を出るのは不可能だった。無意識下で回避したということか。ならば、海。砂浜は――いまの時期は海水浴をする家族連れが多くいて目の毒だ、いくら海を眺めるのが好きでも私は行かない。

 頼れる先はほかに無かったのか、誰か――

 ……紗優は、

「あ旅行だっけ」

 いまごろ軽井沢行きの高速に乗ってる。まーた行き先が軽井沢なんよもーソフトクリーム食べたくなるしぃと嘆いていた。でも私は嘆くほどの飽きる旅行を知らないし、


 いま私が最も嘆きたいのはそういう種のレベルではない。


 どのみち彼女のことは選ばなかった。

 残念な人種だと思った。友達のことも、こんな風に――家族の揃った温かい家庭を目にしたくないという理由で、割りきれてしまう。

 これが私の人間性なのだ。

 意識せぬうちに。誰も来ない。誰の目も届かない。こういう、孤独な場所を。選ぶように。私という人間とはそのようにして生成されている。


 ――親の勝手で離婚、挙句父親は違いました。


 身が切り刻まれる思いがするというのにお飾りの涙も出やしない。

 私の存在って、なに?

 生まれてこなければよかった? ……そうしたら、お母さんはもっと幸せな人生を歩んでいた。木島にいびられることも無かった。お父さんと、或いは違う誰かと違う人生を送っていたことだろう。

 お父さんも他人の子を抱く苦しみなど知らなかった。


 笑える。


 なにが、お父さん――だ。


 木島義男は血も繋がっておらずもはや戸籍上も他人。他人である彼を、彼の周囲を巡る軌道から私を外した彼を何故、私が心配するというのか。

 二度と会うことの叶わない存在だというのに。

 私は彼の役には立たない。

 私は私の人生に役立っている?

 それどころか――


 からだを起こしているのも面倒になる。膝に突っ伏した。

 ままならない。思考もままならない。

 考えること自体が煩わしい。


 にも関わらず、止められない。

 思い至った答えに吐き気がするほどの戦慄と絶望を覚えた。

 それは。


 父と母の離婚の原因は私の存在一つにしか考えられないではないか。


 信じられなかった。自分のことがどれだけ迷惑を及ぼすのかをまざまざと見せつけられた気がした。


 私さえ、――いなければ。


 恐ろしい考えが意識表層に浮かびあがる、

 その手触りを認識するより早く。


 知った声に、呼ばれた。


 迷妄がたちまち現実に還る。

 震える、たちまちからだじゅうから発汗する。

 足元をタップするようなリズム、――この歩き方、は、


「やーっぱ真咲さんだ。どしたのこんなとこで?」


 嘘だと思ったこんなのは。

 現実と思考の狭間を行き交いつつ、精一杯の力を入れて膝を押し、上体を起こす。


 制服ではなかった。

 一度家に帰ったのか、スカイブルーの襟付きのシャツに、黒いニットのネクタイ、下はチノパン。

 彼は、

 爽やかに爽やか過ぎるスタイルでここ、座るよ? と隣にかける。

 近い。


「ここねえ僕のお気に入りスポットなんだよ。可愛くないこのベンチ? ほんで、こっから大好きな町並みを一望できる」


 この座った状態でも、緑に挟まれた夕陽の沈む海を捉えられる。絵葉書にでもなりそうな光景が広がる。海に沈みかけた陽はお椀を逆さにした薄い半月のかたちをしていた。


「このすぐ裏にね、中学があんだけど、こんな奥まではあんま誰も来ないんだ。むかーし砂かけばばあが出るかもっつわれたのも関係してるかもね? 静かに、落ち着いて、自分のことを振り返られる――」


 ふっと自らを嘲るように笑い、


「ここに来ると愚かな自分を思い出す。そのために来てるのかもしれないなあ」


 膝に肘をつき、両の指を組み合わせる。

 いつかタスクが自分を語ったのを彷彿する姿勢で。

 ひとが祈るときには誰しも、この祈りの手を組む。


「……突っ込むとこなんだけどここ。気になったりしない?」


 肘をついたまま、

 苦いものの混ざったような、照れの類いなのか、笑いとも苦笑ともつかぬ複雑なものを交え、こちらに顔を向ける。

 私は。


 さっきから彼を傍観している。


 なんの、いっさいも、入って行かない。


 空虚に。

 からだの内部ががらんどうになったかの虚無に、満たされている。

 それを別の言葉群で表すなら、


 存在不定と、

 孤独だった。


「よしっ」

 だしぬけに膝を叩いて和貴はベンチを立った。

「行こう真咲さん」立ち上がらされ、腕を引かれたと気づいたときに自分は歩き始めていた。借り物競争のときはあんなにもスリリングだったのに、彼の皮膚を体感するいまの私は、マリオネットじみた自分を知覚するのみだった。

 来た道とはおそらく途中で別れ、坂道沿いの一本の歩道を塞いで停めてあった赤い、本当に真っ赤なポスト色の、折りたたみ式の車輪が小さい自転車の前で止まった。

 それが人形劇の終幕だった。


「乗って?」


 生きた、人間の、発言だった。

 意識がレンズを曇らせるのか。普段ほどには魅力的に彼は映らない。

「後ろ、乗って?」

 二度言われなければ言うことがきけない。なにを言われたのか耳には入るけれども理解にひどく、時間を要す。愚鈍な私はスカートの裾を気にしながらまたいだ。膝を露出したのでスカートで隠す。……冷たい。さらに冷たい、前の座席の根元のシルバーを掴む。


「そんなんじゃーあぶないっ」


 ……当たり前なのだが。

 誰が運転するかと思ったらそりゃ彼に決まってる。

 そんなことにも思い至らなかった。

 彼は、その前方座席に座ると、シルバーを掴んだ私の手を順に剥がし、


「はい。捕まって」


 ぴったりと彼のお腹に添えられると、

 初めて頭に血流が通いだす感覚があった。

 こんなの。


「か、……」


 後ろから抱きつくのと変わらない……!


 彼のお腹が、波打つように震える。その固い振動を手とからだの前面とで私は受け止めていた。

 面白がる風に振り返る。

「なによ」

 笑いをこらえ彼はハンドルを握る。「足、浮かせて? ほんじゃー出発ぅーしんこー」

「は、い、お願いしま、」

 二人乗りいつ以来だっけ、お腹に回す手に力がこもる、締まったお腹は指なんか食い込まない、

 だん、だん、と歩道の段を降りる。お尻の下に、続いて尾てい骨に響く。


 と。


「や、なんか、速く、な、」


 こんな高い声を出せるのかと思うような高い悲鳴が漏れた。


 坂道を転がるように繰り出すスピード。

 荒いバスの運転で段差を降りるときにお腹にぞくぞく寒気を覚える、

 あんなものの比ではない。

 つよい風が頬をかすめる。

 足をついて止まりたいのに自由が利かない。

 頼れるものが一つしかない。

 背中にお腹に必死にしがみつく小心者っぷりを運転手は笑い飛ばす。

「あっはは。そんな怖いぃ?」

「後ろっ後ろなんか見ないでえっ和貴っ」

 うずめていた顔をあげて私は即座に後悔をする。

 真横を轟音でトラックが通り抜け私の髪がなびく。自転車が大きく左に振られたその先には、蓋もガードレールもついてない深いドブが。

 曲芸師のごとく白いラインとその縁との間ぎりぎりを走り抜ける、

 幅は手のひらの幅ほども無い。

 ハンドル操作をちょっとでも誤ればこの速度のまま急降下。


 またも悲鳴が漏れた。


 いったいぜんたいこんな恐怖がこの世にあるものか。

 ジェットコースターに乗れない体質の私、それだってあれはプロが一応は監査してから通している。

 こちらは和貴。

 彼頼みだすべて。


 なんど叫んだか分からない、

 逆車線で車を運転する大人が笑ってるのも拝見した、


 でこの坂道を下るのはほんの五分程度のことだったそうだ。


 恐怖に時間は関係無い。

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