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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第十八章 明日という日を逃したら、多分私は一生後悔します
63/124

(1)

「ごめん。今日も部活お休みするってタスクに伝えといてくれる?」

 出くわした彼から逃れるようにそう伝える。

「まさーきさん。期末前だからお休みだよどのみち」

 おっと。

 そんなことも失念していた。

 バツが悪いままに顔を上げる。

 平らなポロシャツの胸が、浅い呼吸に上下している。

「……あんまり、寝れてないでしょう」

 睡眠時間は短いほうだけどここ最近は特に。

 なのでかぶりを振ることも首肯することもままならず。

 ポロシャツのボタンが全開なのは……留め忘れているのだろう。一番上だけ敢えて留めないのが私たちのなかで流行っている。私は彼に訊こうと思ったけれど、首から繋がる皮膚のいろに目が行く。地肌のいろが薄いのに首からにかけてが健康的に日焼けしている。そう認識し、なんとなく……切り出せなくなってしまった。

 この間の私の逡巡を彼は、私自身の持つ疚しさに依るものとみなしてか。そっか、と納得した調子で言った。


 でもね。

 

 と意を得たかのように。そして、よく利くまじないのような語感を伴って以降の台詞を口にする。


 ――頑張ってるんだからそのうちいいことがあるよ? すっごくいいことが。いまは大変だろうけどもね、真咲さん、少なくとも僕は――


 校門を出て左へ進み、住宅街を抜ける曲がりくねった裏道を通じて目的地へ向かう。

 図書館へ行くには校門を右に自分の帰宅する道途中で交差点を左折し、大通りを道なりに行くのがしごく一般的なルートなのだけれど。

 本日も一軒家を守るゴールデンレトリバーに吠えられ、芝生の庭にてホースで遊ぶ兄妹の水しぶきを眺め、玄関口に停められた水色のとピンクの三輪車をちらと見て私は歩いて行く。

 父親を見かけるのは初めてだった。子どもたちの水遊びに加わる新参者に洗礼を下そうと兄妹がタッグを組んで容赦無くずぶ濡れにする。子どもの遊び方に限度を作るのは大人の役目だ。こらあと叱りつつも父親はまんざらでもなさそう。リビングの窓から複数枚タオルを手に、微笑ましげに見守るエプロン姿の母親が印象的だ。

 それはまぶしすぎる家族の肖像であり、私に手の届かない現象だった。


『――僕は、応援してる。どんな、なにがあっても、キミのことを』


 教室で聞くには、……考えようによっては情熱的な台詞だった。なんであんな臆面もなく歯の浮く台詞をすらすらと言えるのか、生粋の日本人なのに。……と赤面する暇があるなら英単語の一つでも叩きこむ状況だった私は。咄嗟に浮かぶのは、supercalifragilisticexpialidociousが最長の英単語だなんて試験に役立たない情報だった。

 思うに受験勉強を阻む最大の障壁とは、ヒトとモノと繋がりたい自身の欲求なのだと思う。受験とは孤独な戦いだ。流行りのテレビドラマと。雑誌に載ってるファッションと。みんなが持ってるアイテムをチェックすることと。好きな漫画にアニメと……それらのすべてを心内において出入り禁止にさせる。するにもなにかしらの罪悪を伴う。そもそもが遊び歩く場と時間の恐ろしく制約された緑川においては、流行りモノと手近な色恋沙汰の収集にみんな御執着だ。

 隙間なく互いを埋め合う女の子グループの友情を持たない私は、一人のことに従事できる。……自分のことばかり考えている。考える時間はもっと欲しいのだが、答えの出ない問いを延々巡らせていても仕方がない。二十四時間受験モードオンにしたところでさして能率も上がらないので、この図書館に向かう五分程度の道のりだけは、自由に。思うがままに水面下で自分を解き放つようにしている。

 議題は。

 部活のこと。マキのこと。将来の願望のこと、とか。

 部活に合宿以来ひと月ほど顔を出していない。和貴を避けにかかったのは自分の後ろめたさゆえだった。

 タスクに一度会った。欠席が続くことを詫びると「僕も二週間に一度出るのがせいぜいです」と受験生の共通のややむくんだ顔であくびを噛み殺し彼はそう言った。

 紗優いわく、週に一度は顔を出してすこしずつ川島くんに引き継ぎをしている。

 マキはまったく見ていない。タスクとほぼ同じ頻度で部活に出ているらしいが。


 学校の図書室に比べると、市の図書館の学習ルームは冷房がキンと利いていて頭が冴える。賢くなったかの錯覚を得られる。学習机に向かい、然るノートやテキストを広げれば充実感もますます。

 では駄目なのだ。

 学校が終わってすぐでないとこの窓際の隅の席は得られない。わたし的には私の定位置となっている。この時間はまだ、司法試験かなにか狙ってる風ないい年したいつもチェックのネルシャツ着てるおじさんや、日経の朝刊か司馬遼太郎辺りのハードカバーのいずれかを背筋を正し読むご老人がいるばかりで空席が目立つ。ものの、三十分もすればかなりが埋まる。

 図書室でなく敢えて図書館を選ぶ理由は緑高生以外の学ぶ環境で気を引き締めたい、という目的以外には。……帰りにみんなと鉢合わせるのが気まずいからだ……この気持ちがかなりを占める。誰に言われるまでもなく、私は部になんの貢献もしていない、のに不参加を選ぶ。登校拒否をする子の決まりの悪さがよく分かる。

 誰も咎めたりしない。会えばみんな久しぶりーって言ってくれるのに、マキ以外は。こんな風に先読みしてかかる心理は、フロイトの抑圧理論がもろに当てはまる。思い悩むことの裏には直視を避けたい、感情なり、欲望なりが潜んでいる。私の場合は。

 部活に行ってみんなと喋ってたい。

 これだ。

 腕時計を確かめれば五分どころか十分を費やしていた。ご褒美にしては頂きすぎだ。机のうえの準備は既に整えている、さて。


 煩悩を捨てよう。


 数学の数列から取り掛かる。――得意なはずの国語も英語も、選り好みの勉強しかして来なかったツケが段々見えてきた。英語なら長文読解は得意だが、発音記号などの小問でつまづく。国語なら古文。現代文と漢文は比較的みんなが点を取れる分野だからそこを押さえつつ、苦手を克服する必要がある。

 数学は、……というより大問題なのは日本史Bと生物IBだ。こんなので国公立を目指せるのかと我ながら嘆きたくなるレベルで。いまから地歴公民の選択科目を現社か倫理に変えたいくらいだ。その手もあるけれど、みんながほぼ満点を取れる科目をゼロからやり直すこととなる。既にやり直すことの満載な私はその道を避けた。

 私が目指す心理学部或いは心理学科の入試は五教科方式のところがほとんどだ。三教科方式の私大も二三は受けるものの、……最も行きたい大学の方式に対応できねば意味が無い。

 走っても走っても追いつけない目的地。

 阻む手付かずの瓦礫を目の前にした気分だ。

 要するに現状は、厳しい。


 要するに私はひどく焦っている。


 ひと通り宿題を終えたところで休憩がてら大学案内の資料を取り出す。大本命の学校含め昨日郵便で届いたのをまだ確認していなかった。家のペーパーナイフで開封だけはしてきた。私が最後尾の席を選ぶのは後ろを気にせずこういうことができるからでもある。私立大学のほうが学費が高いだけあって資料は充実しすぎるほどに充実している。学校案内というよりは書籍ばりの分厚さに驚いた。比較すると国公立のほうが資料は薄く、オープンキャンパスの日程も絞られている。少人数は別として大体が事前申込みも不要なようだ――とひと通り目を通しているうちに。


 あちゃあと声を出しそうになった。


『七月二十六日 特別講義 フロイト入門』――よりによって講師はあの教授だ、絶対に観に行きたい。しかし。この日は私が受ける模試の二日目でもある。

 からだが二つあったらいいのにと直感的に思った。

 夏休みのうちに一度上京する予定だった。祖父母と母も了承している。でせっかく行くのなら大学を二三見学しようと思っていたのだが、――この大学のこの特別講義は一度こっきり。オープンキャンパス自体も一度こっきり。これだから国立は融通がきかないというか。さてどうしよう、参加できなかったからといって入学の意志が揺らぐとは思わないが、……というより私自身が入学に至る実力に満たないことが先ず問題だ。

 先送りして解決できる問題から取り掛かろう。

 と気持ちを切り替えたときに。


 本当に、音が鳴った。


 勉強に集中していたら聞き逃す程度の。ガラスをこつこつ小骨で叩くかの。――緑川には公園が多く、この図書館周縁も例外ではなく、はしゃぎ回る子どもの声がときに聞こえる、それとガラスをどしんどしん叩く子が現れたりも。誰にも関心を持たない気難しそうなご老人が一喝したのが印象的だった。子どもならばもっとべちんべちん手のひらの形や指紋をなすりつけるような叩き方に遊び方をする。

 頭のなかに生まれた隙間を鳴らす小さな奇妙なノイズに。このタイミングでなければ気づかなかったことと思う。

 なにげなく流し目で確かめかかる。


 驚きすぎて私は椅子と机を大袈裟に震わせた。


 いつからそこに。

 というより、なにしに。


 最も会いたくてたまらない人間が薄っぺらい窓ガラス一枚隔てた向こうに存在した。

 こちらを睨みつけ、

 ノックした拳をそのまま上げたままで。


 全体的な前髪の感じも、……サイドの髪も長くなってる。一ヶ月程度で人は人をこれだけ変えるのか。

 変わらないのは私の心臓に対するショックだ。こんなのを繰り返していては将来的に心臓を悪くして死ぬ日もそう遠くない。

 表面にうっすら汗を帯びた白磁の肌、鼻のあたりがテカってる、おさなごを大泣きさせそうな眼力その迫力。睨んでいるつもりは無いんだろうに睨んでいるようにしか思えない。

 矛先は、私だ。

 というのを、薄々分かっていても理性が拒否をする。私は期待してはならない。与えられてはならない人間だから。


 睨まれ続けてもなにも返さない人間にしびれを切らしたのか。

 眉がぐっと中央に寄る。

 薄い唇が動く。


 はやくしろ。


 くいくい、と人差し指が彼を示す。

 私は釘付けとなったまま、なんとか机に椅子を落ち着かせながらどうにか、立ち上がった。


 窓を飛び越えて合流するわけに行かず。正面玄関に私より先にたどり着いていた彼は、自動ドアを塞いでいたのを気にしてすこし、左に、私から見て手前にずれた。

「どしたの、こんなとこに」

 勉強をするのは学校の図書室だと聞いている。彼はこめかみからつつ、と伝う汗を拭いもせず、

「手を出せ」

「……こう?」両手で水を掬う、或いは物を乞うかのポーズ。あ。お財布席に置いてきちゃった。

 学生かばんを足元に置く彼は、実は大きな紙袋を持っていた。でその白い紙袋からなにかを取り出す。

「こいつは長谷川から」

 私に与えられたのは水でも物でもなく「……お守り?」

 神社で貰う種の薄い紙に透けて見える。赤の地に金の刺繍で『学業成就』。

「これが宮沢」

 なにか小物でも入ってる風なキティちゃんの小ぶりな包装。アクセサリーとかヘアゴムが入るサイズの。

「安田からで、こいつは川島から」

 黄色いビタミンCの錠剤におでこ用アイスノンの箱、……いくらなんでも両手に収まらなくなってきた。るろ剣四冊に至っては和貴からと言って出して見せるだけだった。

「最後に石井。……こいつも石井だな」

 つけまつげの入った透明なケースが裸でそのまんま。誰からって言われずとも分かる、で残念ながら私は使わなさそうな。くっついてたピンクのキラッキラなメモ用紙にまさにギャルの丸っこい文字で、


 ☆☆☆真咲せんぱーい☆☆☆

 こないだ言いすぎちゃってまぢでごめん(-人-)

 つかせんぱいおらんとさりげにチョー寂しいよ(T_T)


 笑ってしまった。

 で手が塞がった状態から一つずつマキはまた袋に戻していく。その丁寧な手つきを見て思うのは。


 あの。なにがしたかったんでしょう。


 結局元通りに戻ったその袋を渡し、「持て」と命ずる。

 私がそれを受け取ると用事は終わったと言いたげに、自動ドアを開かせる、から。

「待ってよ。これ全部私に?」

「見れば分かるだろが」

 振り向きざま怒ったように。

 引き止められたのがめんどくさいってもろに出てるけど、そんな……

 顔しなくたっていいじゃん。

 すこし傷ついたけど私は笑顔を作った。

「わざわざありがとう。じゃあね」

 彼より先に。

 来た道を戻ろうとする。学習ルームのほうが涼しいだろう、玄関は外の風が入ってちょっと蒸し暑い。

 自動ドアの開閉音を後ろに残し。

 自分の紙袋のなかが揺れる音を聞く。


 それらに混じって。


 なにかを聞いた気がした。


 反射的に振り返る。

 

 ガラス越しに、マキが私を見ていた。

 その彼の口許に、目が引き寄せられる。


 聞き取れないけども、それは――


「うそっ」


 紙袋を落としそうになるほど驚いた。事実落としかけて持ち直した。

 それを、彼はいつものように小さく笑い、背を向け、未だ気温の高い屋外へ戻って行こうとする。

 私は、

 追いかけた。

 自動ドアが開くのを待ちきれずからだを滑りこませ。

 走っているわけではないのにもう、階段に差し掛かっている、普段の歩きを合わせてくれていたのがいまさらに思い出され、胸の奥が絞られる切なさを覚えた。

「マキっ!」

 やや白眼を大きくして振り返る。

 私はその、驚いた顔が大好きだった。

 いま私が伝えるべきなのは、


「ありがとうっ」


 もっと見開くと、

 小さく、納得したように首を振る。

 片手をポケットに突っ込んだまんま。

 そして彼は、笑みを消した仏頂面に戻ると、薄暗さを覚え始めた夕方の街に消えていった。


『たんじょうびおめでとう』


 ――なんで。

 知ってるの。

 わざわざ、用もない図書館に来てくれたの。

 疑問はいっぱいある。

 でも、


 ……充分だった。


 七夕から一日遅れた中途半端な日、期末試験の前日という日。面白くもないイベントもない平凡な一日が、たった一つの言動で塗り替わる。

 一年に一度の逢瀬を待ち望む織姫と彦星の恋焦がれに重なり、一ヶ月ぶりに見かけるマキが、どこまでも私のなかで愛おしかった。


 彼はアイテムの幾つかを取り出さなかった。

 そのうちの一つが、


 海のように深い色をした青のお守りだった。

 それは、ある一人とのイメージと重なった。

 お守りにしては珍しい色で、赤い文字で『合格祈願』の刺繍が施されている。

 言われないでも、海野神社の捺印がされた袋にそれを確信した。


 このことを思い起こすたびに思うのは何故か、いつも、彼のまじないのような、或いは予言めいた、確信の混ざった語感だった。


 ――頑張ってるんだからそのうちいいことがあるよ? すっごくいいことが。

 

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