(2)
「んっもータスク先輩てば速すぎ速すぎぃー」
勝手の違う、パソコンルームというより講演会会場と呼ぶにふさわしいパソコンルームにて。
タイピングを最後に終えて石井さんがぶぅと頬を膨らます。
午前中はこの会場で下田先生のインターネットとセキュリティに関する講義を受け、いまは、実習にかかっている。
二時間も続ければ頭が煮詰まってくるので気分転換に、みんなでタイピングのスピード対決に入った。一位が誰なのかは言わずもがな。二位は予想通りにマキで、私はビリの石井さんに続いて後ろから二番目だった。
「僕だけ持ち込みのノートパソコンですので有利でしたね」
「けど長谷川先輩、ノーパソって打ちづらくないですか? 間隔狭すぎて僕、慣れてても打てませんよ……」
『ご宿泊の皆様。夕食の準備が整いましたので一階の食堂までお越しください』
合宿所なのにホテルみたいなアナウンスがかかり、各自が腰をあげた。ジャージに着替えているせいか見た目にもフランクな感じでお喋りに興じ、みんなが出ていく。
一人、机に向かう彼が目に留まる。
「……なんだか学校みたいだよね」
記録をつけているのだろう彼に声をかけた。部長は大変だ。
「ええ」パスワードロック。きちんとノーパソを閉じたタスクは、「……都倉さん、プログラミングをされるのは初めてでしたか」
「うん、そうだけど……」
離席する際に机の下に丸椅子をきっちり入れる。そうだ和貴のところなんてだしっぱだ、だから石井さん足で蹴ってどかしてた。
「理解が早いですよね。アルゴリズム……いえ、フローチャートの辺りで大体は躓くものですが」
「YesNo分岐って日常生活でも誰でもしてるし」下田先生が入り口で私たちを待つ。「雑誌の占いでフローチャートって必ず出てくるじゃない、だからあんまり抵抗感は無かったよ」おそらく紗優も同じだ。
プログラミングをするのは初めてだった。
私たちの様子を見守りつつ鍵をかける下田先生に、タスクは目で会釈をする。
「それよりもね」
「なんでしょう」
と言うタスクの語感が私は結構好きだったりする。
「全部一人でしてて、……疲れない? そのうちタスクがハゲたりしそうで心配」
前を歩く下田先生が小さく息を吹いた。
「振り分ける所までまだ至っていませんから。船頭が五人いては辿り着ける場所へも辿り着けません……けども。おっしゃる通りですね。少々肩に力が入っています」
肩をとんとん拳で叩くタスクは言葉よりも余裕たっぷりで。
受験生特有の焦燥感とは無縁だ。私なんて焦りだらけなのに。
タスクって慌てたりテンパったりするんだろうか。少なくとも私が見る限りではそんなタスクにいまだかつて出くわしたことがない。
階段を下りながらタスクは歌うように言う。「……こう見えても人を使う所では使っていますよ。お気づきですよね、僕は荷物運びなど一切しておりません」
同級生のことを「使う」と語るタスクの言葉を下田先生はどんな気持ちで聞くのか。
「頭を使うのが部長の役目なんだね」
「見てくれにかどかわされてはいけませんよ都倉さん。見方を変えれば、僕はみんなのしたいことを独占しているのです」私が口を挟む前に、タスクは指を一本立てる。「……よくですね、『客観的に見て』などと言う方がおられますが、あれは反対尋問をするための前置きです。要は、発言者に対する異論を唱えるための誤用だと言うことです。歴史を少しでも紐解けば、『客観的な事実』など存在せぬことは瞭然ですのにね。……僕たちは主観的にしか物事を見ることができません」
なにかに気づいたのか。
手を下ろし、階段を降りてすぐのところの食堂を見ている。やや暗い廊下に比べてぴかぴかと明るい。
「僕の主観に見ても、彼は無邪気ですね」
下瞼をわずかに震わす、
タスクの捉える先には、
椅子から腰を浮かせ、
ぶんぶん手を振る存在があった。
おーい真咲さーんおいでー。
「あ、」
「ごめん」
ほぼ同時に謝った。
左利きの彼の肘が私の右肘にぶつかったくらいで、
だからいちいち赤くなるなって私。
「川島くんは……パソコンに興味があったの? 部活に入ったのは」
あ僕っすか? と言いながらほっぺたを肉じゃがでいっぱいにしている。私はその間に利き手とは逆の手で湯のみを口に運ぶ。「でもないっすね。二年から入るやつって僕しかおらんですしね。僕あれです、タスク先輩がしとった部活紹介には行っとらんのですよ、ほらあのパソコンルームでしとったやつ」
「え、あそうなの?」
和貴のまっすぐな頬は動かない。目を輝かせてひとの話に聞き入る習性を持つ彼にしては珍しく。
私を挟んで逆っかわの隣に座るタスクは涼しい顔をして味噌汁の椀に口をつける。
「体育館での部活紹介のときは来てたんだよね」全校集会に似た一年生向けのイベントがあった。前に出て三年が部活紹介をしていた。
「勿論すよ。僕あれで決めたんすから」
「あれ、超短くなかった?」冷奴を箸で分ける和貴が不思議がって問いかける。
「かえって印象に残ったんすよ」川島くんは奈良漬に箸を伸ばす。ぱり、ぽり、と思い返しながら咀嚼している。
『パソコン部の部長の長谷川です。パソコンの知識を深めるだけではなく、部員同士で切磋琢磨されたい方。入部をお待ちしております。……以上です』
「他の部が内輪のノリでだらだらやっとるがにタスク先輩、一人で出てきてパシッとゆうたじゃないっすか。かっこよかったっす。おれ……」三角食べをして残るはその漬物だけ。男の子ってどうしてこんなに早食いなんだろう。「学校から帰ったら店のこと手伝うとるんです。せやけど親父に、学生なんやさけ部活もちゃんとしいやてきつうゆわれっし、ほんで、困っとたんです……おれ絵ぇカラキシ駄目やし。時間割かれる運動部は入れんなて。いまさらなんか始めるんもあれやがなーと思うとったとき、タスク先輩のあれ聞いてなんか……迷いが晴れたつうか。真面目にやってみようかて思うたんです」
一年の頃は非活動的な美術部員だったそうだ。因みに紗優とは面識が無かった。
「そっかあタスクのあれは大して面白くもなかったのに効果があったんだね」
「……笑わせるのが目的ではありません。選別はあの時点で始まっていました」
今だからこそ言えることですが、と箸の持ち方をエレガントにタスクはサラダに箸をつける。食事なのに科学実験のような印象を何故だか受けた。和貴はテーブルに付いていた肘を離すと、小学生のような食べ方でご飯をかきこむ。すかさず奈良漬もぱりぽり。
「でもさーなんにだって笑いは不可欠じゃない? 笑かすことのひとつもできないとさー話聞いてくれないことだってあんじゃん」
「実演をどうぞ」
やけに食いつく和貴に、急須で自分の湯のみに熱茶を注ぎタスクはそう命ずる。あ私のにもだ。「ありがと」
和貴は空にしたご飯茶碗を置く。
大胆不敵とも見える横顔が、
ちらっと視線を私に投げた。
「川島んちって寿司屋なんだよねー。お父さんの仕事手伝うなんてえっらいなあー」
芝居がかった大きな声は、
明らかに私を意識したものだったそして、効果的だった。
「か」咳払いをする。お茶を一口。熱い。「川島くんのお家ってそうなんだ。将来はお父さんのあとを継ぐの」
「そのつもりっす。仕込みの仕方教わったり店出たりもしとるんですよ。あ先輩らやったらいつでも歓迎しますよ」
「おれは呼んでいないということか」
それまで会話に加わらなかった下田先生が唐突に。
今度こそ私は本格的にむせた。タスクの手が背中をとんとんさすってくれた。
こんなことを言う先生だとは知らなかった。みんな笑ってる。冗談を言った下田先生でさえも。……最終的に、食事があまり喉を通らなかった私はほとんどを和貴に差し上げた。失礼ながら、タスクは見かけに反して存外に少食なのだ。
二人分の奈良漬は塩分過多かも。でもご飯と合わせてすごいスピードで食べていく。男の子の速度ならず食事の量にも驚かされる。冬眠前の子リスみたくほっぺたに詰め込んでかつ消費していく和貴は、一息をつくとこっちを見て呆れる。
「こんな残しとるから真咲さんちっさいんだよ。ちゃーんと食べないと」
「和貴は人のこと言えるの?」
しまった。
と思ったときには和貴は音を立てずに湯のみを置く。
その湯のみを包んだまま。
一旦戻した顔を再びこちらに傾け、じっくり、ゆっくりと、私の反応を確かめながら魅惑的に微笑んだ。
「僕の売りは、そこじゃなくて違うところにありますから」
桜井和貴になにを言っても無駄だと悟った。
* * *
「うっはあ気っ持ちいー」
七時までの自由時間を、私は貸し切りのお風呂で過ごした。うちのお風呂の何十倍だろう、さすが合宿所というだけあって広い。下手な温泉旅館に勝る。大きく開けた窓は外からは柵と竹林とで目隠しされ、その向こうに新緑を感じられる。……こっち側に森と管理人小屋があるんだろうな。柵と壁で仕切られて男子風呂があるようだけど、みんなは部屋で喋ってるんだろう。誰もいない、静かな快適さを味わっていた。
「うちのお風呂もこのくらい広かったらな……」
やわらかなお湯を手ですくう。家の浴槽は私の身長で足を伸ばしてぎりぎり。昔のひとにしては長身で、身長が百八十センチを超す祖父には特に狭苦しいことだろう。
旅行も行けたらいいのに、うちの家族にはそんな余裕はない。
大人になって働くようになったら、家族を温泉旅行に連れてってあげたいな。でもそんなの、……いつの未来のことだろう。都倉の血筋は祖母曰くしぶといから、八十過ぎても祖父母は元気に過ごしてくれそうだけど。
入り口で、物音がした。曇りガラス越しに影が動く。……紗優かな。
紗優だった。
白く立つ湯気に隠れるも彼女のメリハリのある身体を直視できず。同性だからなおさらこういうのは恥ずかしい。……でも結局は見てしまった。ウエストが細いのにしっかり胸のある体型が羨ましかった。
洗い場でからだを流し、紗優は私から離れて隅でちょこんと湯に浸かる。
「お父さん、元気だった?」
お風呂行こうよと声をかけたが、さきうちに電話してくるから、と紗優は断った。
「うん」
「怜生くんも。おばさんも元気してた?」
「うん」
わんわん響いた私の声が消える。
消え去る。
……
いつも。紗優となに喋ってたっけ。
部活のこと。紗優の過去の恋バナ、かなり具体的な行為について。処女の私に「こんな足開くがよ」ふぎゃーっと言わせてアハハと笑った。男の子のこういうところがかっこいいと思える瞬間。私はあんまり見ないけど、テレビに出てる芸能人のこと。ジャニタレ。雑誌。non-noは唯一チェックする私に分かるりょうさんや小雪さんのこと、綺麗だねーって目を輝かす。
この沈黙が、気まずい種のものなのか、
仲がいい同士に訪れる自然な性質なのか、
私にはいまひとつ判断ができない。
でも紗優は無口だった。
と思うのは、……いつも、紗優が私に色んな話を振ってくれるからだった。
「……あんま入っとっとのぼせるから気ぃつけいや」
二分も浸からず。
乾かす手間を考えてか、髪を流さずに紗優は風呂場を出ていった。
元気のない声色に、
もし逆の立場だったら、紗優は「真咲どしたーん元気ないねー」って声をかけてくれるのに。
私の主観で見ても、
そういうことに思い至らないのが私という人間の鈍さだった。