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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二章 それは不幸なことじゃない
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(3)


「担任の宮本です。よろしくな。都倉さん」


 生物室にて。

 白衣を羽織った眼鏡のおじさんと向かい合っている。


 都倉、という響きにも慣れてしまった。こっちに来てからの、母の旧姓に。

 よろしくお願いします、と私が頭を下げると、宮本先生は親指でくいっと私の背後の彼のほうを指し、

「なーんかあったらこいつらに聞いてな」

「まっ、かせといてみやもっちゃん」胸を張るけど四往復で息を切らした茶髪くん。前髪がまだ汗に濡れている。

「……子守は一人で十分なんだが」机に寄りかかる黒髪の彼はよそを向く。

「失礼な人がいるんですがどうにかなりませんか」私は悲しくなる。

 はっは、と宮本先生は声を立てて笑う。茶髪くんばりに声のトーンが高いんだこの先生。母なんて赴任そこそこの若い先生だと思い込んでる。

「桜井も蒔田も、面倒見はいいぞ?」

 実際には七三分けの神経質なサラリーマン。四十手前の気難しい、電車で女子高生を不快に思ってるおじさんの年頃。でも見た目よりも話してみるとずっと、優しそう。

 その優しそうな宮本先生は、


「特に、子どものな」


 前言撤回。

 全員が爆笑する。ひどい。黒髪の彼までしかめっ面なのに口許ぴくぴくしてるし。

 腹を立ててるのは私だけだ。手短に説明聞き終えて足早に生物室を去る、つもりが。

「あ」

 また、忘れそうになった。

「み、やもとせんせい。あの。これ、うちの母からなんですけど、よかったら……」

 ひらり、白衣を翻しかけた宮本先生が、おー? おれにか? と振り向いた。分解しただろう鳩サブレは避け、予備に入れたというバウムクーヘン。ユーハイムの缶を渡す。

「先生って甘いものは平気ですか」

「おお。好き好き」

 きっとこの先生、嫌いでもこんな風に受け取ってくれる。

「けどなあ都倉。気ぃ遣わんでいいんやぞ? これはもろうとく。ありがとう。お母さんにもよろしく伝えといてなー」

 母の名を口にしても顔を曇らせることのない。


 初めての大人だった。


 * * *


「職員玄関から来たんだったよね。ここ出てずーっと行くと運動場。つってもこっちのはあんまり使わない。体育んとき僕らが使う体育館とグラウンドはねえ、あっち。三年の校舎から回ったほうが早いよ」

 宮本先生から言いつかった二人は、校内を隅々まで案内してくれた。二年四組に最も近いお手洗いの位置まで私は密かに把握した。

『お前らどうせ暇やろ? 暇しとんのやったら都倉に緑高のなか見したってくれんか?』――宮本先生は忙しくはなさそうだった。山積みのプリントを採点してたけど。きっと、

 ――気を遣ってくれたんだと思う。

 案内といっても説明するのは茶髪くんで、黒髪の彼は口を開かず茶髪くんの隣歩いてるだけだが。

「俺、寄るとこあっから。じゃ」

 あっさり、廊下の暗がりへと消えていく。まさにいま私たちが来た方向へと。

「あ……」私のこの声は遮られた。


「マキーっ」


 明日も学校来なよーっ。

 九時に開くから遅刻すんなよーっ。

 僕図書室おるからねーっ。

 

 ……ドラマのお別れ場面じゃあるまいし、大げさな。内田先生が職員室から注意して飛び出してきそうな声量だ。大きく手を振るのはどうやら彼の癖なのだろう。

 ……黒髪の彼にお礼を言いたかったんだけど。

 ま、いっか。

 

「真咲さんは? 帰る?」

 ひと通り叫び終えると、元通りの声でこちらに首を捻る。

 さっきとは違う角度で、玄関からの夕陽が注ぎ、髪が瞳が、きらめき、うっすらとオレンジを帯びる、頬の影。

 肩越しのまなざし。

 切り取られた一瞬が、どうしてこんなに綺麗なんだろう。

 見惚れる自覚と共に逸らす。「わ、私は」

 にち、とズックの摩擦音。

「送ってく」

「……どうして」

「理由なんかないよ?」アヒル口をちょっととがらせ、ポケットに片手を突っ込む。

 そんな所作も、可愛らしいなと思う。

 視覚的にペースに飲まれている。

 私は、冷静に務める。

「理由はあったほうがいいよ。なんに対しても」

 すると彼は。

 唐突に、唇を引き結んだ真顔へと変わり、心持ち俯き。

 声だってやや低く抑え、


「キミともうすこし一緒に居たいから」


 上目遣いで見つめられた瞬間に、心臓がけたたましく壁を叩いた。

 頬だって、熱い。

「……なーんてね?」

 いたずらに赤い舌を覗かす。全てを帳消しにさせる種の笑みをのせて。でも単なるいたずらっ子と違うのは、彼、この効果を分かっててやってる、そんな余裕がどこか感じられる。

 それであっても、私は、

「僕、図書室に荷物置きっぱだから取ってくる。ちょっとだけここで待ってて?」

 くるりと反転、再びあのフォームで走りだす。

 見送るのがやっとで。

 断る反応を返すこともままならなかった。


 * * *


 夕焼けが町全体を茜に染めていく。

 歩道を歩く姿はほかに、ない。車も少なく。たまに通る軽トラが田舎を象徴している。

 すこし先を行くポロシャツの、肩甲骨の間がちょっと滲んだ背中も。夕陽の色をそのままに映し出す。

 初めてこの地に降りた日。同じように先を歩く母の後ろを追った。影を縫い辿るだけだった。いたずらな運命に従って続く私の道筋に。

 自分がどうなっていくのか見えなくって、ただただ不安だった。見知らぬ町、田舎の風景。固く舗装された道であっても、足元がおぼつかない感じで。

 いまは、どうかといえば。

『そう言うなよサイコ野郎が』

 突然に再生される。

 目を閉じ唇を薄く開いた。ガード固そうなひとが無防備に晒した、あのあどけない、笑み。

 どうして。

 胸の奥が収縮するのはなんなのだろう。

 思わず首を振った。

 振ると、

「なに。どしたの?」

 現実には茶髪くんのドアップ。近い、近すぎる、ガムのミントだって香る、信じられない近さに。

 現実に足元が崩れた。

 足首になにか巻き込まれる。缶。柔らかくて固いアルミの。後ろ向きに、転ぶ。どうしよう、

 固く目をつぶった。

 来たるべき感触を待った、のが。

「あ、れ」

 代わりになにか、温かい感じに救われた。

 がっちりと、素肌の肩を掴まれている。逆の手が、背に。背中に添えられている。

 大きな手のひら。私の知る種の女の子の手ではなく、熱い、大きな。皮膚の厚い、しっかりした感じの。

 布越しの手のひらと、手のひらの素肌を認識したときに脈が著しく乱れた。

 息を殺しても鼻腔に男の子独特の汗の匂いが入り込んでる。ほのかな花のデオドラント。

 抱き込むような、筋張った腕の感触だって。

 薄目を開けば、顔だって近い。

 こちらが物凄く動揺するのに対し、彼は、丸い、無垢な子どもの目をしていた。

「だいじょーぶ?」

「へ。へいき」

 正直平気ではない。

 腕が、からだが、離れた。

 離れた途端に、目の前の。顔は女の子。見た感じ健やかな少年ぽいのに実は、筋肉質で。

 何度も前後した二の腕の質感。

 美しく駆けるあのイメージと重なって、急速に意識してしまう。鼓動が速まって顔だって、ううん、つま先まで全身赤くなっている。

 私を素通りすると彼は、落ちていた空き缶を拾い、

「難しい顔してんなーと思ったらいきなしニヤけるし。ぶんぶん首振ったと思ったらタコみたく真っ赤になるし。……まったく、忙しい子だね」

 かこん、とゴミ箱にシュートする。

 穴があったら入りたい。

「真咲さんってホント面白い」

「別に」逃げたい。「あの。家もうそこだから」

 助かった。建物の隙間からちょうどうちの白い看板が見えた。電気は点いてる。

「よかったら、明日も学校においで?」

 タイミングを逸した。

「……なんで」

「理由を聞くのが好きだねキミは」露骨にこちらが残念な顔をしたせいか、困ったように頭をかく。「みやもっちゃんから宿題いっぱい出されたでしょ?」

 見られていたようだ。沢山頂戴した。直視せずトートバッグに手続き書類もろもろまとめて突っ込んだ。「でも。先生は全部終わらせなくっていいって……」

「しょっぱなっからそんなんでどーすんの。何事も最初が肝心だよ?」

 興味深いの意味で面白いのはこのひとのほうだ。

 くるくるめまぐるしく表情を変える。子どもをあやす口調になったと思えば、ニキビ予防洗顔料のCMにふさわしい爽やかさで微笑んだりする。夕陽を背負い、髪をそして彼自身をいくらでも輝かせながら。

「僕は、九時には来て五時くらいまでいる」さっき行った二階の図書室ね? と指で宙を指す。「入っていちばん奥の席に座っとるから」

 いやいや結構です。

 と言おうとしたのに、「んじゃ、まったねー」と走り去ってしまう。最後まで人の話を聞かない。今度はぶんぶん手を振りながら。


 ……参ったなぁ。


 残された私は、断ろうと伸ばしかけた手で無意味に頭をかいた。


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