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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第十六章 ケジメです
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(3)

「大学に行け」

 お通夜のような夕食時間を終え祖父が口火を切った。「わしは高等学校までしか出とらん。ほんでも仕事は手に余るほどに仰山やった。職にありつけんもんは誰一人としておらんかったもんなが……今の世の中は変わった。大学出とかな何にもなれんやろが」

 宮本先生と同じ意図を匂わせる祖父に少々失望した。

「……大学に行かない子だって普通にいるよ。同級生でも、……緑高には少ないけど東工には沢山……」聞きかじりをネタにする自分の自信の無さ。「うちのクラスなんて殆どの子がそうだし」自信の無さが当然声音に表れる。

 それに比べて祖父はしっかりしたものだ。

「働くちゅうもんはそう覚悟を決めたもんや。緑川に生まれ育ち、親がどんな仕事しとっか幼い頃から見てきて知っておる。緑川つう土地に愛着も持っておる」

 台所にて食器を洗い流す祖母の存在をかすかに聞く。祖父の背景の遠く小窓で陽炎のようにシルエットが揺れている。

「……お前は違うやろが」

 老練した眼光がさし向けられ、

 説得にかかる、祖父の声音に、

 私は明言された気がした。


 みんなとは違う人間なのだと。


「大学に行く気はないんか」


 右向けば押し黙る隣人。……パトロン任せか。

「行、きたく……」

 詰まる。一つ息を継ぐ。「行きたくないと思ったら嘘になる。でもそんなの。目的もなしに行くものでもないでしょう。余計なお金もかかる。うち、……貧乏なんだよね。だったら。行かせられないっていうんだったら最初っから期待なんかさせないでよ。この家のこと将来どうするの。せっかくお母さん帰って……お店切り盛りしてるのに。誰も、継がないの、したら私しかいないじゃん。だったら私出てくことないし、他のことに目を向ける必要なんか全然ないんじゃ、」

「真咲あんたは」

 肩を抱かれる。母だ。

「なにを要らん心配しとんの。……こんな小さい肩して。目的なんかな、……いくらでも探したっていいんよ。夢探すんも、大学通いながらでちっとも構わんの。真咲のためにかけるお金に余計なお金なんてひとっつも無い。お母さんたちが働くんはあんたをこの家に縛り付けて諦めさせるためやない。あんたに好きなことして欲しい……お母さんたちそのために一生懸命なんやから……」

「お、母さん……」

 そんなことを打ち明けてくれたことは無かった。

 母は自分の生活を守るために、……祖父母は生きていく道だからこそだと、思っていた。

 私の目を覗きこむ母の潤ませた瞳に嘘偽りがあるとは思えなかった。

「ばあさん、あれ」

「はいはい」

 台所から戻ってきた祖母がお茶を乗せたお盆を持っている。ところが熱茶を配らず一旦お盆をテーブルに置くと、やや手垢の目立つエプロンのポケットからなにか取り出す。

 通帳だ。

 そっと目の前に置かれる。

 私は無言で顔をあげた。

「見なさい」祖母は微笑んだ。


 昔ばなしを絵に描いた、慎ましき老人夫婦の生活。

 それに合わせて私たちもそういう質素倹約を務めていた。

 大きな買い物など滅多にしない。直近で一番大きな買い物といえば私のベッドで、それも新品ではなく中古だった。

 物欲にまみれたショッピングを趣味とするカルチャーに慣れた私にはカルチャーショックだった。

「こ、れ……」

 予想外の桁数に目を見張る。

「いつか役に立つんかと思ってずぅっとおじいちゃんと貯めてきてんよ。これを見せるんがは真咲が嫁入りする頃にでもと思っとったんやがねえ」顔をほころばせ祖母は椅子にかける。

「わしらは老い先短いさけ、先のあるもんに遣うて欲しいと思うとる。……好きなようにしい。長男が家を継がなならんかったわしらの時代とは違うんやさけ」

 定期的なサイクルで振り込む個人を見つけた。


 キジマヨシオ


「……お母さん、慰謝料なんて貰ってたんだ」

「払わんほうが今日び当たり前やがになあ、ほんに律儀な人で……」そう語る母の声には、別れた夫に対してとは思えないほどに情感が込められていた。「お父さん……義男さん、木島のおばさんたちに黙って振り込んどるんよ。ほかに子どももおらんし真咲に期待かけとるんかもしれんね。まだあんたが小さい頃から将来大学に通わすこと考えておったわ……ほらお父さん高校卒業してすぅぐ会社継いでんさけ……お父さんの世代は大学を浪人してぷらぷらしとるひともいぃぱいおった。大学生活送れるんが羨ましかってんろうね」

 そんなことも、知らなかった。

 父がいまだに私のことを気にかけてるなんて。

 私はごみのように捨てられたとばかり……。

 たまらず胸元を押さえた。

 母の手が離れる。湯のみを私の傍から離す。

「いまからでも遅くはないんろ? 都倉の血筋はちぃとも賢うないさけ医者は無理やろがなあ……そんだってあんた。ばあちゃんより賢い子なんやさけ。勉強したいっつうもんの一つでも二つでもあるやろが。あんたの読んどる本でもなんでも構わんがよ。探してみぃ」

 いつの間に頭に祖母の手が添えられていた。

「分、かっ……た」

 そう答えるのがやっとだった。

 初めて自分が認められたと感じた瞬間だった。


 ずっと、疎外感でいっぱいだった。

 日々同じ仕事をして切磋琢磨する母と祖父母、彼らの領域には入れないし、……実際台所に立てない。

 食事のときに顔を合わせる程度で、他の一般的な子どもみたいに甘えたりもしない。今日学校でなにがあったのか明るい話題を逐一振りまいたりもしない。

 そんな可愛げのない子だから、要らない子だって木島から突き返されたんだ。

 お父さんにも要らない存在、だと思っていた。

 なのに……


「こぅれ鼻拭きなさい」ティッシュを突き渡され、

「ほんに頑固やねえこの子は。跡継ぎ気にしとるなんてゆうたことなかったんに一人で悩んで……」

「美雪を嫁に出した時点で都倉の家は消滅しておる」

 祖父は唯一熱茶を飲み干す。

「お、じいちゃん……」

「なんや」

「ありがとう、私……」

「当たり前のことをゆうただけや」


 にべもなく居間を去る。

 私は久しぶりに見た祖父の背中に、好きな人を重ねた。


 行きたいとは思っていた。

 興味があった。

 でもその気持ちを無視していた。

 伝える前からずっと諦める癖が出来ていた。

 逃げているのは私のほうだった。


「わ、たし……見つけるよ、やりたいこと必ず、好きな、ことも、」

 しゃくりあげながらも母と祖母に決意を伝えた。


「頑張る」


 * * *


「……和貴? だよね」

「真咲さん」


 人違いかもという不安を吹き飛ばす笑顔がお目見えする。

 初夏の鋭い紫外線が髪をも焼くのだろう。

 片膝をついて熱心に本棚を見ていた彼の、髪の色はもはや金色に近い。


「珍しいねこんなとこで」近寄って気がついた。

 福祉のコーナーだここは。介護や福祉の本と思いきやホスピスと名のつく本を二冊……そういう知識も要るのだろうか。

「真咲さんこそどして制服?」

 本を脇に抱えると彼のポロシャツがラルフだと分かった。

「あ。これはね……」


 模試があるから宮本先生も来てるだろうと見込んで、進路変更を伝えてきたところだ。

 場所を図書館の玄関に移してこのことを明かすと、やっぱりね、と笑って彼はプルトップを引いた。乾いた音に満足げに、

「僕もこーなると予想してた」

「へえ。どうして?」

 答えずスポーツドリンクを嚥下していく、上下する喉仏をまともに見た。

 ただの動きなのに妙にセクシャルに私の目に映った。

「真咲さんて心理学の本ばっか読んどるもん。やしそっち方面進むやろなあって思っとった」

「そ。そお?」うす赤い頬を缶で冷やす。「私、……進むなら文学部か英文科辺り考えてた」

「真咲さんてバリ文系だもんねえ。国語や英語が得意ならそれ突き進めるのもいいだろうけど」勢いよく飲み過ぎたのか、けふ、と喉を鳴らす。

 例えばね、と前置くと指一本立てる。

「心理カウンセラーは?」

 仕事って意味でだよね。「……思ってもみなかったな。すごく難しい職業だし……」

 臨床心理士という職業を聞いたことはあるものの、難度の高さにハナから諦めにかかってた。

 そういうのが駄目だとつい三日前に決意を固めたばかりなのに。

「んー心理学が好きやから心理カウンセラーてのも単純すぎるかな。けどま、真咲さんそーゆーの得意そうだし。だーれも来ることのないカビ生えた研究棟の片隅でしかめっ面してぶあつい本もさもさ読むよりかさー対ヒト。こんな風にダイレクトに誰かの話聞くこと、性格分析に人間観察……大人しそーに見えてヒトとの接触がさりげに好きなんだよね。ジャンルは置いておいて、仕事でなにするかって考えたらそういうのが合ってそうだなと思ってた」

 否定はしない。

 和貴は他人のことをよく見ている。

「考えてみる。……ねえ、紗優は?」

「ん?」白い壁から背中を浮かす。既に空となった缶の縁を上から持ってる。

「……風邪引いたって聞いてたんだけど大丈夫かな」キャンセルされたのもあって今日は図書館に来てみたんだけど。

 えっ、と小さく漏らしたのを私は聞き逃さなかった。

「家で寝てる」

 和貴が右手で頭を掻いたからたぶん嘘だと思った。


 その和貴の嘘と、


『心理カウンセラーは?』


 この言葉が引っかかり、やっぱり、このセミのうるさい真夏を感じさせる暑い夜も受験生にふさわしくよく眠れなかった。

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