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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第十五章 マキが幸せでいてくれれば
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(4)

 西の山の端に夕陽が沈みかけている。

 いまだ赤い丸のかたちを保つそれは、沈みきる最後までいのちを燃やし尽くす、線香花火の玉に似ていた。

 置き残した真昼が東の空に明るかった。そこは、ぎらつく灼光に比べ平穏そのものだった。二つの世界をつなぐ、橙から紫、淡い水色へのグラデーションに染まりうろこ雲が流れている。

 同じ雲を見ているのだろうか。

 あの彼の定位置を選ぶ、彼は。


「――僕は生まれつき、腎臓が弱くて……」


 来るのが誰だかを知っている。

 前を向いたまま彼は口を開いた。


「二年、留年しているんです。……中学一年の時に、蒔田先輩も千羽鶴を折ってくれたはずですよ、入院中の僕のために」


「ちょっとマキっ」

 ――当の本人は、やや顔をしかめ西の方角を見ている。

 これがまるで他人ごとのように、

 まさに聞こえてないかのように。

「どういうこと。安田くんのこと知ってたんでしょうっ」

「知らん。覚えてねえ」

 私はがくっと項垂れた。

 ――頭に相当血がのぼってたのか。

 胸ぐらを掴んだその手首を一本一本、外される。

「ずっと、憧れだったんです。太陽の下を自由に動き回れる人間が。……今はこの通りですが、子供の頃、日の暮れるまで泥んこ遊びした経験が僕にはありません」と言って片方の手をポケットに差し入れる。「動けない代わりに、動ける人間を写真に収めるのがいつしか、僕の楽しみとなりました。中でも印象に残ったのは……」

 金網を掴む手がかすかに震え、


「蒔田くんのことでした」


 かごのなかの鳥が彼に重なる。


「……入りたての一年が、それもディフェンダーが四試合で四得点……注目を集めたのは、見てくれも関係していたと思います。僕はサッカーを見るのが好きでした。といってもテレビで海外の試合を観るのがです。同級生の試合なんかに関心は無かったのですが……」誘われて仕方なく、と彼はつけ足す。「準決勝の、第一試合……予選を勝ち抜けたのは相手が弱かったからだと後で聞きました。今度こそ相手が悪かった、というより結果は順当でしたね。優勝校ですし。――ピッチに立つ全員が諦めてるのが伝わりました。僕を誘ったクラスメイトなんてほっぽいてほかの試合観に行ってました。応援団も呼ばれて来てましたが、……本気で勝ちを信じる人間がどれだけいたのか、火を見るより明らかでした。写真ばっか撮ってる女子もいましたよ。僕も同種だと思われるのが嫌だったんで下ろそうとしたとき、


 ……ヘディングを見ました。


 片腕でふっ飛ばされそうな相手に一体どうやったのか、競り勝った。そこから見てれば……そいつに何度も倒されるわ審判の見えない所で削られるわ。せっかくパス出しても守り入られて前がかりの裏を突かれ、カウンター一本で失点。……つくづくサッカーは一人じゃ勝てないスポーツだと思いました。結果の見え切った試合でした。しかし、彼だけは最後まで、……諦めなかった。逆転不可能なビハインドを負い、ロスタイムに突入してもボールを全速力で追い続けた」


 馬鹿だと思いましたよ。


 と彼は言う。「負け確定なのにあんな必死になってなんの……意味があるんだと。試合終了後にくずおれてピッチを殴りつけた彼があんまりにも悔しそうで、僕は羨ましいを通り越して呆れましたよ。けれど。……どうしてでしょうかね。入院した先のベッドに一人、潜り込んだときに……何故か思い浮かぶのが、……僕が緑川を離れる前に最後に見た最大の馬鹿の気迫でした」

「安田くん……」

「緑高に入ったのは元々入ろうと目指していたからですよ。勘違いしないでください」

 背後に迫った私を強く、睨みつける。

 逆光でも分かる反発、それが、――視線とともに、足元へと沈む。

「諦めれば楽になれる、と思うこともありました。でもあの姿を思い出せば負けたくない、とも思いました。――下手なお守りよりも効き目がありましたね。思い返すだけで、どんなきつい治療にも耐えられた。僕を奮い立たせた、あの人間のその後に興味が湧きました。もう一度戦う姿を目にできる日を待ち望んでいた、それが、……」


 ――その日が訪れることは無かった。


 タスクが見せてくれたのは安田くんの略歴だった。


 ――「安田くんは蒔田くんに並々ならぬ好意をお持ちのようですね。……変な意味ではなく。尊敬、憧れ。敬愛といった意味合いでです」


 海野中学に入学後半年足らずで東京に移り、通信制の中学を卒業した。

 おそらく、入院か通院を続けながらだろうと。


「……海野中学から緑川高校に進学するのは例年二三名程度。しかしゼロではありません。もし行った先の高校で、早々に中学を去った自分を知る人間が現われたとしたら、……果たして嬉しいですかね。僕はそうは思いません。転校は不本意だった。空白の二年を語るのが好きなら、とっとと僕らに明かすかしているでしょう。彼を……知ってる人がいても黙っていたと考えるのが妥当です。彼自身も積極的に明かしはしない」


 中学の修学旅行を『知らない』のは当たり前だった。

 彼は、――行っていない。


「たったの十二三歳という――ぬくぬくと親元にて甘え育つ時期に郷里を離れ、四年あまりの間を孤独に耐えぬく闘病生活を過ごした。そんなタフな人間なら……そのまま勝手を知る東京の地で暮らすほうが快適ではないですかね。親元で住まう温かさと引き換えに、いっぱしの大人扱いと自由を得られる。僕ら高校生には中々にエキサイティングな街ですよ東京は。あくまで現在見た限りでは健康な体を手に入れた。……これ以上の言及は避けます。しかし僕が思うのは」


『教えてあげましょうか、僕が確信していることを。あなたは――』


「……知らずに戻ってきたんじゃないですかね」


 とだけ口にした。


「辞めた蒔田くんには心底失望しました。僕のような人間にとって……希望の星だったというのに」


 彼の見る先には、

 白んだ月が浮かび上がる。


「……僕は。諦めが悪いのか、……いえ諦めの悪さを身につけました」


 彼はマキを見ていない。


「退院したのは昨年の六月。暫くの間松葉杖をついて登校した。ちょくちょく人の目を盗んで屋上に来ていた。声が、……出なくなった。出そうと思っても出せなくなった」


 ――足元のぐらつく感覚があった。


『退院してもベッドで眺めてる天井と世界は変わらなかった』


「失声症、というより自閉症に近かった。教師も暗黙に了解し、授業でも当てられる機会は激減した。元々寡黙を貫いていた彼ですからさほど支障は無かったようですが――変化が見られたのは夏休みがあけてから。人懐こい一人の人間と関わるようになってからですね」


 他の誰とも違うことを言ってきた人間が一人だけいる――彼はそう語ったではなかったか。


「表情の一切を封印した彼が少しずつ、笑みを見せるようになった。一見する言動では伝わりにくいけども、友達を作り、仲間のことを労るようになった。目立った行動で示さないのは――彼自身が、恐れているからですね。つまりは、」


「もう、やめて。それ以上は――」


「緑高で彼が一番気にかけてるのは他の誰でもない、あなたですよ」


 躍り出た私を見た、

 認めた彼の表情に同情――いや呆れの色が混ざる。「その剣幕だと、……知らなかったようですね。噂になってましたよ。だから彼が他の子と、となったときに一部で騒ぎ立てられた」

「安田くんがパソコン部に入ったのはどうして」彼の発言を私は無視した。「色々知ってるのは情報を、それだけ集めたんでしょう。やっぱり、マキを近くで見たかったから?」

「違います」断言し、自身を守るように腕組みをする。「僕は写真が趣味です、ですけど写真部がありませんでした。写真とパソコンは切り離せません。データ化や管理など……趣味としても役に立つのではないかと思ってのことです。もっとも。


 直に確かめてみてあなたにも、蒔田くんにもがっかり――させられましたが」


「ふざけんな」


 いまのいままで。

 馬鹿呼ばわりされても一言も発さなかった彼が。


「なにが憧れだ。お前は人のことを勝手に言っていればいい。所詮は他人だからな。だが俺は、俺の人生を生きていかなきゃならない。――この意味が分かるか」


 怒鳴るのではないのに、

 静謐な一喝が私を背中から貫く。


「言うだけならまだしも、おまえは、……」


 言葉を止める。

 後ろを見ずとも怒りかなにかに彼が戦慄くのが空気で伝わる。

 ――思いつめた顔をし、腕組みをほどき、安田くんがあとを引き取った。「かばんをわざわざ届けて下さり、ありがとうございました。……僕はこれで」頭を下げる。


「さよなら」


 儀礼的な笑みを乗せ、

 無言で渡されるかばんを脇に抱え、後ろ向かずに進んでいく。


 別れの言葉にしかいまのは聞こえなかった。


「待ってよ。安田くん」


 届かない。

 私は――

 これを逃したら彼が消えてしまうのではないかと、

 そんなどうしようもない予感に駆られていた。


「パソコン部、辞めるなんて言わないでよっ!」


 わななくと彼は、――なんてことないかのように。


 そのつもりですが? と。


 私の顔色をまともに見据えて口許だけで卑屈に笑う。「僕は、――あなたの想いを踏みにじろうとした人間です。嫌われてるのも分かっているでしょう。だったら――」


「逃げるの?」


 間髪入れずに問いかける。


「逃げる、と。……僕がですか?」


「そう。私に、マキに失望したとか言うわりに安田くんは自分から逃げてる。思ってたのと現実は違ってた、だからごみ箱にごみ捨てるみたく捨てる。そんな風にすぐ割り切れるの? ずっと……何年も……気になってたんでしょう」


 どうしてここで、


 どうしようもないあの彼の、

 花に似た笑みが、浮かぶのだろう。


 断ち切ろうとしても断ち切れなかったあの想い。


「いまの話聞いてマキがどう思ったのか。確かめなきゃそんなの分かんないじゃん。言うだけ言ってそれで終わり? 安田くんそれで満足? 私は、ぜ、」


 ――全然納得してない!


「……いえ。あなたが納得してるかどうかなんて僕には関係ないんですけども」


 戸惑ったような安田くん、じゃあ、


「マキは――辛かったことも全部、受け止めてる」


 じゃなきゃ自分の口で話せない。

 傷ついても走り続ける、

 私はそんな彼のことが、


「私も逃げてなんかない、この気持ちと毎日向き合ってる!」


 ――し。


 しまった。


 空気が凍りつく。

 なんてことを絶叫してしまった。

 つまりこれ、

 ほぼ告白じゃ……


「え。えっと……」気まずい空気を自ら破った。「タスクは……パソコンに詳しい人が入部して喜んでる。そういうつもりで……自分の後を引き取る人目的で安田くんに入部して欲しかったんだと思う。だから、


 ――辞めるんなら私が辞める」


 白眼を大きくしてマキが私を見た。


「部活にいてプラスになるのって安田くんのほうだし。あの。嫌いな人が隣にいて苛々するのってきっとからだに良くないよ。安田くん、まだ一年だもん。始まったばかりの高校生活を楽しまなきゃ損だよ。みんなね、すごく親切で優しいからきっと楽しいとおも……」


「結構です」


 私が作った笑顔を無視し、彼は扉に手をかける。


「そこまで言われてしまっては、……すぐには辞められません」


 ――彼の開いた扉が閉まった。

 日の陰る屋上に、マキと二人取り残しつつ。


 ――どうしよう。


 夕陽よりも強烈な感じを背に浴びてる。

 鋭い彼の眼差しが――


「か。帰ろうか。まだ明るいし、私一人で平気だよ」

「暗くなってるぞ」

「あ」すっかりとっぷり。「よ、……かったよね。安田くん、考えなおしてくれたみたいで。ふへへ」


 ――見れるわけがない。

 まともに見れるはずがない。


「タスクきっと喜ぶよ。私も嬉しい。しょ、正直、パソコン部って私の生活の一部になってたから、辞めるはめにならなくて、よかったなあって。口は災いの元って言うけど本当……その通りだよね」


 ――喋れば喋るほどに墓穴を掘る一方だ。

 素早くドアノブを引きにかかった。


 のだが――


「待て」


 手が、添えられていた。

 私の手よりも大きな手が、包み込むように。

 ――彼の感触はいつも繊細で、冷たい。


 前方のドアと背後の彼に挟まれ、身動きが取れなかった。

 ――確かめることへの恐れを感じながらすこしずつ、

 首を捻り、高い、彼のことを、見上げようと、すると――


 呼び止めていたのに。

 なにか考えこむような、見たこともない怖い顔をしている。


 ――すまない。


 と私の視線を受けて、彼が詫びた。


「――え?」

 彼から初めて耳にする四文字だった。


 苦悩か苦痛かでひどく傷んでいるようで、そんなマキを見ると胸が苦しかった。彼が、苦しげに息を止め。喉の奥から絞りだし、紡ぐ言葉は――


「おまえの気持ちに薄々気づいていたのに、気づかない振りをしていたのかもしれない」


 ――衝撃が胸のうちを走る。

 これが現実なのか。

 けどこんなのよりも、


「都倉。俺は、――」


 もっと、ずっと、苦しませている。


 ――目の前の人間を救いたかった。


「言わなくていいよ」


 ――作れているだろうか。


「全部、言わなくても分かってる。だから、大丈夫だよ。どんなかたちでも傍にいられれば、それだけで――」


 ――安堵させられる笑みを、

 彼を安心させられる声色を。


 ひとりで大丈夫だと。


「……おまえは、」


 あなたを苦しませるくらいなら、


 私が、笑顔の仮面をかぶろう。


「友達で十分。マキが幸せでいてくれれば」


 からだを衝撃が走る。

 さっきとは違う、強い、重い、物理的な痛覚だった。

 ――触れている、

 近くに香る。

 恋焦がれるブルーノートの香り。

 広くていかつい肩と、力強い二の腕の感じと、

 ……見た目よりずっと柔らかな、漆黒の色をした髪の毛を。


「……かじゃねえのか、おま……」


 ――ごめんね、マキ。

 いまだけは、

 こんなわがままを許して欲しい。


 肩口に熱い息がかかる。

 つま先立ちで手を伸ばす。


 自分から触れる最初で最後だとこころに決めた。


 腕のなかでこんなにも震えている。

 私よりもずっと大きくてたくましい彼は、弱々しかった。

 弱々しくさせているのは私のせいなのだった。


 精一杯で、

 散らばる集合体を、

 かき集めて胸に抱いた。


 静かに陽を落とす屋上には、

 風に混ざり時折からすの鳴く声と、

 すすり泣く彼の声だけが響いていた。

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