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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第八章 嫌いになろうと思ったけど決めたんだ
33/124

(5)

 温泉に――入るの四度目だ。いいんだろうかこんな入っちゃって。

 朝の四時半に起こしちゃ悪いので足音立てずに部屋を出た。

 結局一睡もしていない。

 贅沢にも露天風呂が貸切状態だった。健やかな朝の空気に、若竹の新鮮さが強く感じられるなかでそこはかとなく潮の、薫りが漂う。

 湯けむりが澄み切って感じられる。

 私のこころのなかも、

 整理されたからなのだろう。


「女将さん。あの。すいません、ありがとうございました」

 出たところで女将さんを見かけた。

「……真咲ちゃん」やや白眼が大きい。「あとでお部屋に持って行こうかと思っていたの。良かったら、使って?」

 袖口からなにかを取り出す。

 アイピロー。

 ラベンダー色の。

 ラベンダーの香り。

「い。いいんですか」頂いてしまって。

「ええ。眠れない夜にはいいわよ?」

 くんくん犬のように嗅ぐ私を大人びた笑みで見つめる。

 大人なんだ、この人は。

「……なんだか落ち着かない場所だったかもしれないわね。ごめんなさいね」

「と。とんでもないです。あのですね私、こんな素敵な旅館に泊めて頂くの初めてでその、この喜びをいったいどう、表現したらいいか……」

 なにこの変な私。

 旅番組の阿藤快並みにすべってる。

 女将さんちょっと笑った。

 あ眉が。

 眉歪めて笑う感じが、――マキと重なる。

 好きな人と重ねてどきどきしちゃってる。

 あれ。


 好きな人?


「そんな、気を遣わないでいいのよ。嬉しかったのよ私。大切な高校時代の思い出作りにお役に立てるなら。せっかく来て頂いたのに顔も出せなくってほんと、申し訳なかったわ」

「えっと申し訳ないのって私のほうです」タダ泊まりですし。

「うっふふ。お互いに申し訳ないって言ってても仕方ないわね。あ。お食事。早いほうがいいでしょう? 七時頃に取れるようお支度してくるわね」

 まだ空の暗い時間帯というのに女将さん、お忙しいのだろう。

 でも私。

 どうしても、気になることが。

「女将さん。あの。一つお伺いしたいのですが」

「おばさんでいいのよ。何かしら?」

 言い方が他人行儀だったかもしれない。

「マ……」それじゃフランクに過ぎる。「一臣さんにはお兄さんが一人、いらっしゃるのですか」

「ええ」ぱっと顔を輝かせる。「いつきというのよ。真咲ちゃん、うちの樹を知っているの?」

「あいえ、直接お会いしたことは……」やぶ蛇だ。「サッカー選手、なのですか」

「ええ。あの子はうちの誇りよ」

 輝かせた表情を収め、平常の笑みに戻る辺りは、職業柄かもしれないが、マキと同じだと思った。

 ――彼も。

 仏頂面という仮面を被っている。

 あの玄関は。

 誇りと呼ぶべき、まさにそれだった。

 でも。

「一臣さんのことは、どうなんですか」

 仮面を貼りつけたままわずかに眉尻を下げる。

「朝食の支度がありますので私はこれで」

「おか、……おばさんっ」

 一礼をして去る。別人のような物言いで。青緑の着物の、黄色い帯を締めた後ろ姿に呼びかけようとも、――


 答えが返ってくることはなかった。


『親がいればいいというものでもないがな』


 急速にマキの言葉が再生される。

 紗優がみずみずしい薔薇の花びら。和貴が咲きかけの芍薬だとすると、おばさんは百合の花。たおやかに凛と、完成された美しさ――そんなおばさんが明確に拒否した。


 マキのことを誇りだと認めることを。


 足を引きずるようにして二階にあがる。廊下の最奥へと。

 あの海が、見たくなる。

 どんなことがあっても、波音を響かせる海を。

 変わらず、常に。

 昨夜……ううん、正確には今日の夜中に自分が座っていた流木を見つけた。

 走る、白い影も。

 ――あれは。

 つい三時間前に別れたばかりの彼だった。

 黒じゃない、白の上下を着て砂の、地の感触を確かめ、ゆっくりとからだを慣らす。

 駆ける和貴の短距離の瞬発力ではなく。

 長い距離を。

 たゆまず努力し続けるひとの持久力だと思う。

 スポーツに疎い私の目にも分かる。

 慣れてる、足運びが。


『軽いジョグにしている。一度身についた習慣はなかなか抜けないもんだ』


 走ることに没頭して見えるけども彼は。

 方向を。

 行き先を持て余す若い翼だった。


『何故続けるのか俺にも分からねえ』


 おばさんの拒絶を思い返し。

 嘘でも。建前でも。

 ……認められなかった彼を。

 あれだけこころのうちを明かしてくれた彼を。

 想いながら、見つめているだけで。

 零れ落ちるものを止められやしなかった。


 * * *


 終わりがあるからこその楽しいひとときなのだと思う。

 上限が設定されねば同時に貴重さが損なわれてしまう。

 資源も。

 命も。

 感情も。

 ――それでも。

 泉のように湧く、知りたい、って気持ちこそ。

 向き合いたいと思えることがひとつの答えではある。

 ……マキは。

 海野駅まで私たちを見送った。めんどくせーなとかぼやいてた、でも冷たい振りしても無駄なんだよね。番頭さん泣いちゃってたもん。坊っちゃんをこれからも頼んますぅってこらもういいやめろって。


 ――動いたのは蒔田くんのほうです。


 思い出し笑いを止めにし、私は。

 ある決意をもって、移動する。

 座って、

 対面し、

 ささやきかける。

 なにも驚かすのは彼だけの特権ではないのだ。

「ねえ、……起きてるのは分かってるよ。いま眼球がぐるって動いた」

 猫のように愛らしく。

 頬杖をついて眠る演技をしている。

「……二人きりだと、話さないんじゃなかったっけ」

「自己犠牲。誰かを守るためなら自分がいくら傷つこうと、構わない」

 まぶたの下で眼球がぐるりと動く。

「人当たりがよくって優しい。子リスみたいに愛らしいくせしてときどき策略家でフレンドリーな笑い上戸さん。それが。私の知ってる桜井和貴なんだけど。悪いひと演じてるのは性に合わないんじゃない? 肩凝りするでしょう」


 ――僕は、キミより全然弱くて、挙げ句に悪人になる予定なんだ。


「なにか誤解してるね。僕はキミの思うような人間とは違う」

「あやだ、気づいてないの和貴? なんかね、焦ったときに右の耳だけ微妙に動くの。今後のためにも覚えといたほうがいいよ、その癖」

 頬の筋肉がやや、震える。

 固くドアを閉ざされたなら、叩く。

 正攻法は、通用しない。

「……最初のはマキの受け売りだったんだけどね。嫌いになろうと思ったけど決めたんだ。和貴のこと信じてみるって。ドッジボールのこと……初めて学校に来た日も、私によくしてくれたし。私がどんなひとだか知れないのに、和貴は、私を信用してくれた」

 今度は、私が信じる番だと思った。

 事情があると、好きな人は語った。

 嫌われようとする言動にも事情があるのかもしれない。

 私はそれに、賭けてみたい。

「そんなに簡単に人を嫌いになれるくらいなら誰も苦労しないよ。それにね、耳の癖が可愛すぎて私、全然怖くないんだよ、和貴のこと。いちゃけって言うのかなあこういうの?」

「ちょっと……違うね……」薄目を、開いた。

 その瞳は。

 私のよく知る。

 屈託の無い無邪気さがあらわれていて、私、こころの奥底からほっとした。

 どころか、ふ、と軽薄に、両の肩をすくめる。

「いちゃけってのは、ウブウブで可愛い真咲さんのことを言うんだ。女の子限定。男には適用しない」

 な。

 なんでこんなこと素で言えるの。

「ほーらキミ照れてる、いちゃけな顔してる」

「いわっ、言わないっ」

「耳の話は嘘だね。僕の口開かすためのテキトーな思いつき」指組んだそこに顎を乗せて値踏みする目線で、「……ところで真咲さんこそ、嘘つくとき。……つうか緊張するときね、右の髪だけいじる癖がある。こんな風に。目ぇつぶっててもいじる気配感じれたからあっ嘘だなーってまるきし分かった」

「やっだ」

 攻めるどころか。

 強烈な反撃見舞われてもう私。

 顔向けできません。

「あ、もーねそんなへこまない。僕をからかいにかかるなんて百年早い。でもねナイストライ。そーゆーのが真咲さんのいちゃけなとこだと僕は思うな」

「も、それ言わないでぇ」

「どーゆー風の吹き回しかな。僕みたいなやつは遠巻きにしとくのが安全策なのにさ。警告はした。水野くんの言うことは正しいよ? 女の子とばっかいるのはホント」

「そんなことないでしょ。まあ確かに……紗優とは仲がいいなって思うけど」

「紗優のことは幼馴染みとしか見てないっ!」

 怒った。でも和貴、

 ……紗優とまったく同じこと言ってる。

「その、ね。和貴って男女問わず誰とでも喋れるじゃない。特定の子に決める感じじゃなくて。だから気にするほどでも……」

「一線は引いてる。踏み込まれたら避けれる自信なんかないよ。……真咲さん」

 急に真面目な顔に変わり、ずいずい、と顔を寄せる。

「後悔したって知らないよ?」

 満開の笑みを存分に魅せつけてくれた。

 久方ぶりの。

 春を思わせる。

 ノーガードでそんなの食らっちゃって、私、鼻が、息が、詰まった、脳髄痺れるくらいの衝撃度。も、お……

「ふんがっ」

 ぶくっ、と和貴が吹いた。

「ちょ、ブタ鼻」

「言わな」顔を覆う。「見ないで見ないでもう」

「あっは。真咲さんさいこーなんでさーいつも期待以上の反応しちゃうわけえ」

「それ以上触れないでお願い」

「僕ね、変な顔選手権やったら優勝できる自信あるよ? ね、ほら試してみる?」

「見せてよ」

「いくよ」

 ……

「……軽く。笑い過ぎだよ。真咲さん」

「だ。だってひ、ひまの、どーやったら。ふがっ」

「あっは。また鳴った」

 和貴、

 ……笑ってるよ。

 お腹押さえるくらいに大きく。

 私、

 その笑顔を取り戻せてよかったと思う。

 裏切られるなら、裏切られるまで信じてみる。

 なにかが起こるリスクに怯え。

 自分を信じたものを疑う人生を、送りたくは、ない。


『見てて思ったんだけどさー思ったまんまどーんとぶつかってくのがいいよ?』


 笑いの二重奏が相当やかましかったのか。「あんたらうっさいもう寝れんがいね!」紗優からクレームが。「僕も丁度眠りかけた所でした……」「タスクのいびきチョーうるさいもんみんなの平和と健康のために起きてて」「そんなに酷いの?」「ま移動中はそんなでもない。でも昨日の夜僕全然眠れてない」「目の下クマできとるもんなあ」「いびきって喉の気管が狭まるからなんだよね。首の後ろを浮かすといいみたいよ」「……色々試しました。どうにも上気道が生来狭まっているので駄目なのです僕の場合は」「あそっかうえ向くとこう気道確保できるもんなあ。こーゆー椅子のヘッドレストって首んとこ高ない?」「議長! 以後パソ部で泊まり行くときは長谷川氏に一人部屋を確保することを桜井は嘆願します!」「……ねもうこの話題よそうよ。タスクに悪いよ」「あのねー真咲さんそういうときはまるきしカンケーない話題を自分から振んの。その直截的な言い回しは返ってタスクを傷つけると、」「桜井くん。都倉さんと無事に仲直りされたようで。おめでとうございます。これで僕も枕を高くして眠れます」

「……がっ」

 胸を撃たれた振りして、がくん。

 頭垂れる和貴にタスクも、紗優も、私も、笑った。

 笑えてる。

 初めて来た夏とは比べものにならない気持ちで。

 電車は晩秋へと戻っていく。

 私たちのホームヘ。

 願わくば。

 この輪に、いま。


 あと一人いてくれたら――


 贅沢なことを胸に秘め、寝たふり続ける和貴を起こしにかかる紗優を私は、頬杖ついて見上げてみた。

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