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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第七章 選べません……全部嫌です
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(6)

 墨を吹きつけた夕闇が若緑を変質させ。蛍に似た照明灯が小路沿いの暗がりをぽつぽつ照らす。

 走り抜ける女子のシルエットを浮かびあがらす。揺れる、スカートのプリーツ。

 はしゃぐ声は二階のこちらまで届く。

 ガラス窓に透ける自分は亡霊のようだ。

 まぶたが腫れてるかもしれない。

 再び濡れタオルを当てるも、それが冷やしてくれてるのか、生成される涙を吸い取ってくれてるのかもはや、分からなかった。

 帰る、と嘘をついてきた。

 誰もいない、

 静かな領域に。

 天井に埋め込まれた小さな常夜灯が照らす程度の心もとなさ。真っ暗な閉鎖は苦手だ。

 一人になれる場所を選んできた。

 こんな顔して帰ったら母と祖父母が心配する。

 まだ、整理がつかない。

 立てていた膝をまっすぐに伸ばす。読んでいた本の内容を反芻する。――対人欲求とは。他者の反応・他者との関係性によって満たされる欲求であり、対人欲求に含まれる親和欲求とは、『興味のある相手と親しくなりたい』という感情のことを言う。マズローの欲求階層説から派生した学説だ。

 口に出してみて、笑えた。


 こんな話のいまどこが問題なのか。


 深く貫かれた痛みをどうにかするのが先決だろうに。


『なんだ。中学生か?』初対面でからかわれた。


『俺がか?』勘違いした、目を丸くして。


『そう言うなよサイコ野郎が』初めて見せた笑顔だった。


『……ういっす』長い沈黙溜めて顔逸らして言われた。


『お前は全部が嫌いなんだろうが、……俺もお前が嫌いだ』初めてぶつけられた感情だった。


『夏会った日、学校に退部届を出しに来ていた』短いけれど、自分の口で真実を語った。


『悪かった』


 保健室で私の手に触れた。


 夢なんかじゃない。


 だって。


 あんな繊細な男の人の手を私は彼にしか知らない。


 欲求階層説なんかどうだっていい。

 こんな感情を表すのは漢字一文字で足りてる。


『稜子のことやろ、あれ』


 なのに。

 認めるのが怖い。

 だって彼には。


 忘れられない人がいるのだから。


 情けなく。

 また止まらなくなる。

 ぼっちで閉じこもっちゃう。

 膝抱えるしか脳のない動物。


 どんなに人を弱くする情動なのだろう。


 濡れたスカートの裾に埋めてみても、逃れられやしない。

 考えないようにするってこと自体が考えるってことなんだった。

 それでも思考を閉ざし入り込もうとする。

 深い深い,

 未開の森の奥地へと。

 閉ざしたまぶたに力を込め、


「――おい。おい起きろ」

 そうだった。

 ……こんな香りだった。海を感じる爽やかな香り。周りの男の子みたくどばどばつけないの。

 肩を強く引かれ、


「んなとこでなに寝てんだおまえは」


 覚醒した。

 寝ぼけていたのだと理解する。


 ピンクのクマさんが喋りかけている。


 驚きに、声も出せない。

 信じられない気持ちで、窓際の私、膝を前に伸ばすと、くまさんは数歩後ずさる。

「な、んでまだその、格好……」

「着替えてる暇がなかった」

 被りもので声がこもってるけれど、紛れもなく彼だった。

 外が、随分と暗くなってる。袖口から覗く腕時計に、

「う、そ」自分の時間が止まった感覚を覚える。

「六時過ぎてるっ」五時過ぎだったろうか私が来たの。ほぼ一時間も眠っていた。

「……閉会式はとっくに終わった。フケたのは俺とおまえだけだ」

「なんで、マキまで」からだの節々が痛い。板の上で変に寝てたせいだ。

「誰かさんを探していた」

 そういう台詞を言わないで。

「……探さなくっていいのに」

「おっまえ。帰ると抜かしたくせにかばんは置きっぱ。保健室と思ったらいねえ。家電話してもいねえ。したら校内しか残んねえだろうが。この方向音痴が。ヘタにあいつらに言ったら騒ぎになると思った。だから。伏せておいて、探し当てるしかないだろがっ」

「あそ、そ、そう、でしたか」

 意外な剣幕に押される。

「とにかく。無事で、何よりだ」

「別にね、子どもじゃないんだから」

「泣いてただろ」

 どきりと刺す。

 いまを。

 さっきを。

 指してるのか。

「……あ。歌ね。歌にすごく感動しちゃって」引きつってうまく笑えない。被りもの越しにも直視を避けてしまう。「にしても。見つかるとは思わなかった」

「読書好きなんだろ。屋上いないならここだと思った。この格好、俺だと悟られずに動くには最適なんだが、歩きづれえし遅くなった」

 どうして彼は。

 優しいんだろう。

 残酷だこのひと。


 なんで私を見つけてくれたのかって。

 なんで私を連れ出してくれたのって。


 ……訊けないよ。紗優。


「紗優も、みんなまだ、残ってるんでしょう」

 眼下に小路を走る影が複数あった。

「ああ。後夜祭があるからな」

「戻りなよ。そっち。私まだここにいるから。もうすこし休んでる」

「駄目だ」

「いいから。放っておいてっ!」

 駄目だこんなの。

 膝抱えて俯くって。

 典型的な迷惑な言動。

 でも私。

 これ以上、

 ……考えたくないよ。

「……おまえが来ねえと寂しがるやつがいる。いいから来い」

「誰が。和貴、タスク、それとも紗優が?」

「俺だ」

 顔を起こす。

 くまさんがまっすぐ見ていた。

 その隙に腕を引かれ、すとんと、下ろされる。

 両足着地。

 そのまま引っ張られるも。


 なにいまの。


 違う。

 駄々こねてる子どもを動かすための方便だ。

 やだもう、


「だ。誰も行くなんて言ってない! か、帰るって私っ」

 振り向かずくまさん。

「A.このまま歩く。B.荷物のように運ばれる。C.担架で運ばれる。どれがいい。選べ」

「選べません……全部嫌です」

 半べそで答えたところ。

 いきなし。

 がばっと覆われたと思ったら、

 背中と膝の裏に手を添えられ、

 荷物運ぶみたく持ちあげられてた。

「……ぎっ」

 これいわゆる。

「ぎゃあっ下ろして下ろしてっ」

 お姫様抱っこ。

 両足が地につかない非人間的体勢が恥ずかしくって腕のなかでもがいてみてもくまさん、びくともしない。

「無駄だ。俺を誰だと思っている」

「蒔田、……一臣」

「毎日十キロ走る俺をおまえ程度が吹っ飛ばせるとでも思うか」

「十キロ!?」

「平均でだが」

「すご……」

 くまさんあの、か、か、顔はどこ向ければいいの。手は、どうしたら。「軽いジョグにしている。一度身についた習慣はなかなか抜けないもんだ。何故続けるのか俺にも分からねえ」

「こ。こういうときのためにとか」

「滅多にねえ。着ぐるみ着て女抱えるとはな」

 くまさん、笑った。

 ぶ厚い着ぐるみのお腹越しでも伝わる、震え。

 それだけで。

 胸の奥が焼き切れる。

 こんなの。

「抱えるなら、……相手が違うよ」

 小さく呟いたつもりだった。

 しかし。

 くまさん、停止した。

 重たそうな被りものが徐々に角度を、落とす。


「盗み聞きしてたな?」


 うわあっ!

 あのこここ故意じゃないんです偶然ですっ。

 泡食った顔って被りもの越しに見えてるのかまた、息をつく。「坂田は……あの赤髪のやつとは中学が同じでな。前々からああいう曲に夢中だった。……俺もあの頃はよく聴いた」歩くペース、先ほどの速度を戻す。「好むのが洋楽のくせして英語が壊滅的に弱い。発音がマシなのは聴覚の良さにある。理解が足らんから俺に翻訳しろだの歌詞訳せだの頼みに来やがる。……後は聞いていた通りだ。ライティングのノート貸したときに、詩を書けと宿題出たの以外に色々書いておいたのをパクられただけの話だ」

「ふぅん」

「どうした」

 階段を降り切って辿り着いた保健室前。中庭が近いのは、土と葉のにおいが増したので分かった。

「寡黙なひとが急に喋りだすのは、やましいことがあるか、嘘をついているかのどちらかなんだよね。心当たり、ある?」

「てめ。しばくぞ」

 きっと睨まれている。

 反動でくまさんは黙ってしまった。


 本当はこんな憎まれ口を叩きたくなかった。


『他に聞きたいことがあれば、和貴に聞け』


 嬉しかったのに。

 話してくれて。

 彼が彼のことを。


 でも同時に。

 聞けば聞くほどに。

 本当のことを覆うための大切さが伝わる気がして。

 支えられてる着ぐるみ越しに。

 

 目を閉じて、胸のなかに迫り来る。

 津波のような感情と一人戦っていた。


「真咲ぃーっあんた大丈夫やったが? 具合はっ」

 あれ。

 性懲りもなく私また寝てた。なんか家以外だと眠くなる体質なのか。

「あの、へーき、ね、てただけ」

 ゆっくりと下ろされる。荷物ならもっと乱暴に扱われるべきだ。……結局ABCのどれにも該当しなかった。

 連れてこられたのはグラウンドだった。

 周りに黒い人影がいっぱい。パチパチと燃えさかる、キャンプファイヤーの炎が立ってる。みんなの輪の真ん中に、神輿よりもでっかそうな。

「マキ。お疲れさん」背伸びして紗優がくまさんに小声で言うと、くまさん、ぶんぶん否定してから走り去った。途中で女の子たちにきゃーかわいーあたしも抱っこしてーって追いすがられながら。いやくまさんがね。あの子たちは中身を知らない。

「見てあれ。まだ追いかけられてる」

「そんなんいいから前のほう、前行くよ。ついてきて」

「……なんか始まるの」

「緑高名物フォークダンス。体育んとき踊り方習ったやろ?」

「それをいま、踊るの?」

 手を繋いで掲げる、

 向けてくる笑顔こそが、

 私への紗優の答えだった。


 壊滅的な音質のスピーカーが今宵は『オブラディ・オブラダ』を奏でる。

 細い下限の月がひかる。

 星のまたたきがいっぱい。

 刺激に空のいろが朱く染まり。

 人間たちの肌を炎のいろで返す。

 来るのが遅れた私、そとっかわにいたはずがどんどん輪の中心へと誘われる。隣にいたはずの紗優をとっくに見失った。

『青い山脈』を終えて三曲目、『おおシャンゼリゼ』のときにタスクに再会した。

「都倉さん。どうですか、楽しんでますか」

「うんうん」

 と答えてるまにまにさようなら。

『ジェンガ』でジャンプするとき。後ろのひとの肩を掴む握力が強い痛い。振り返ったら小澤さんだった。あんたなにをわろうとるん気色わるって言われたからまた笑った。

 大体は知ってる曲だったんだけど、一個分かんない洋楽がかかって焦った。伴奏の間みんなかかと上げ下げしてる。足、どう動かせば、

「『オクラホマ・ミキサー』と同じ。適当に合わせてろ」

 手を引かれたとき。

 他の人よりやけに濡れた黒髪を認めたとき。

 額から落ちる汗の筋の流れを目にしたとき。

 すごく。

 泣きたい気持ちに駆られた。


「oasisの『She's Electric』。聴いたことねえのか」

「ある、……かも」


 彼、だった。

 やっぱり。

 声の感じ、雰囲気、感触を。

 一度記憶した神経が叫ぶ。

 汗のなかに眠るときにほのかに漂った、海の香りが強くなる。

 さっき抱えられてたときより、ずっと近いそばにいる。

 背中に回された腕、その先が手首を掴んでる。

 声が頭のてっぺんに落ちる、息がかかる感じに、

 病気みたくなる。


『俺だ』


 くまさんを剥いだマキは。

 いつもより百倍増しで格好よかった。


 お辞儀して他の男子に移るときには体育祭よりもよっぽど生存ぎりぎりのところにいた。

『マイムマイム』のクレッシェンドのところで、全員手をつなぎながら前へぎゅうぎゅう。足だって踏みつけちゃう。くっついて汗べたべた。近づける限界まで近寄ると今度は手がちぎれるくらい離れる。あ離れた。でも繋ぎ直す。

 歓声にキャンプファイヤーの炎すらも勢いをくべられ加熱し。

 うわぁーってみんながみんな叫んでる。

 男子も女子も。働きまくった学祭委員も。生徒会の先輩男子女子もお仕事そっちのけで。

 中田先生も宮本先生も田中先生も本日もパンタロンの学年主任もほかの先生みんなも。

 果てには頭つるっつるの校長先生まで一緒くたになって。


 いっしょになって。

 手をつないで。


 炎の尽きる最後のひとときまでをも楽しんでいた。

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