(5)
「学校から電話あってんよ。真咲あんた、大丈夫ながっ?」
帰ってくるなり慌ただしくスリッパが響く。廊下は走らないものと幼い頃からしつけてきた母が。
肩を上下させて息を、乱している。
その瞳を覗く。
不安とか心配がないまぜに、
真実のいろに、
震えていて。
『いっつも考えとるよ』
目を合わす、
あの日以来の。
――気まずさと。
すぐ駆け寄ってくれた心強さと。
夢のなかで表象された母への思い。
私はそれらを現実世界で表現できず、最低限だけ述べて階段を選んだ。
「……別に。平気。かすっただけ」
「真咲。真咲起きとる?」
今度は祖母だ。部屋着のシャツワンピースを頭っからかぶりながら「はーい」と答える。
「お昼まだ食べとらんやろ? おかゆ持ってきてん。お弁当のおかず油っぽかったさけ取り替えたげるわ」
スカートの裾を下まで引っ張り、半日履いてた靴下に指をかける。「ううん。へーき」
「重いさけとにかく開けてくれんか。お祖母ちゃん持っとられん」
外開きのドアを気をつけてゆっくりと開く。一リットルのガラスボトルの麦茶。私こんなに飲まないよ。でも湯気が立つおかゆはちょっと、食欲をそそられる。
ちゃぶ台の上に並べてくれた。ちょっとした豪華な昼食。
白粥以外に白菜のお味噌汁。湯豆腐。かぼちゃのサラダ。それでも常備のお刺身。
珍しくデザートも一つ。
ガラスの丸い器に、シロップ漬けの白桃。
お母さん……。
「食べ終わったら下まで持ってこんでええさけ、廊下置いといて。ゆっくり休みぃ」こっそり目許を拭い、祖母に交換でお弁当を手渡す。「忙しいのに。悪いね」
表を通った感じでは盛況だった。忙しい合間を縫って祖母も母も私の様子を見に来ている。
「子どもがなーにをあんた気ぃつこうとる。うちの大事な一人娘やわいね」
「孫でしょう」と私は笑った。
去り際に祖母は言い残す。
「……おじいちゃんな。学校からあんた、熱あるボールぶつかった先生から聞いたら顔真っ青なって茶碗落っことしてもうて。ほんに、あんな慌てたおじいさん初めて見たわ。真咲に見せてあげたかったわいね」
薄味を好む祖父手製のおかゆは塩味が利いてしまった。
* * *
ちょっと注目を集めた。おはようって言う者もない。誰の声もかからない。いつものことだ。
静かに席に着く。……なかにプリント入ってる。覗き見る。泳いで、ひらり、落ちた。
拾う。
「おい」
ごん、とぶつけた。机の下に頭の後ろが直撃。
「痛ったあ」
誰よ。運動神経悪い人間に声かけるときは気をつけてよ。
涙目の怒り混じりで床に手をついた姿勢から立て直す。
あなおそろしや。
黒い城壁みたいな蒔田一臣が私の机の前に立っていた。
見下ろしてくる、その……迫力。
彼常に悪いものでも食べたような顔してる。
「お前がフけてた授業のノートだ。やる」
ぞんざいに投げ落とす。
机のうえに。
「フけてなんかないけど。人聞きの悪い」
ふいっと横向いて、去る。
言うだけ言って。
またお礼言いそびれた。
ノートを手に取ってみる、表紙も裏もなにも書いてない。……新品?
「頭と顔はそれ以上ぶつけるな。馬鹿になる」
聞こえよがしにでっかい声。
でかい図体の広い背中が。
窓際の彼の席に戻ってく。
……いったいなんなんだ。
聞いてた周りからさざめく笑いが起こる。
私ちょっと恥ずかしいやら。失礼な態度に腹が立つやら。
「あたしも貸すつもりあってんけど。要らんか。蒔田頭いいもんなあ」
げっ。
「……小澤茉莉奈」
「あんたその呼び方やめてくれん?」背後から前に回り込んで眉をひそめる。左の毛先がちょっとハネてる。のをいじって気にしてる。「小澤か茉莉奈でえーよ」
「それじゃ。小澤さん。貸りてもいい? 今日使わない分だけでいいんだけど」
「なして」私の机にどん、とかばん置くとがさごそ。痛む後頭部をさすってる私にちらと怪訝な目をよこす。
「見比べたいから。同じ授業でもノートの取り方って人によって違うし。それ見るいい機会かと思って」
「はん」鼻鳴らす。「あんた変わっとるね。あたしなんか頼まれたって借りたないわ」
怒ったようにコピーを突きつけて彼女、去り際に小声を残した。
「なんにせよ元気そーでよかったわ」
昨日の敵は今日の友?
急に優しくなって。そっちこそ。
きもちわる。
でも、嬉しかった。
くすぐったいな。
いまなら、靴紐がほどけて転んでも、笑ってる。
「ぅおーいみんな席つけー」
くすぐったい気持ちをこころのなかで転がしてるうちにホームルーム。起立礼着席。四十人の立てる椅子の摩擦が消え切らないうちに宮本先生は教卓に手をかけて、
「お。都倉。顔は平気そうやな」
どっとクラスが沸く。宮本先生やめてくださいのか弱い声なんぞかき消される。
あの先生、ちょっと黒髪の彼に似てる。
* * *
吸血鬼の如く直射日光は避け、左手の日陰を。
屋上ワンフロア貸し切り。
壁に背を預け、足を投げ出して座る。右にお弁当。左に、……小澤さんがくれたコピーの上に黒髪の彼からのノート。飛ばないよう重ねてる。お行儀悪いけど誰もこないから、いいや。
孤独ではない冒険の旅。
お弁当のフタ開く。唐揚げと春巻き……油っこいなあ。でも食べるけど。
がん、とどこかからなにか響いた。
なに。
ぱたぱたと走りまわる、靴底が弾んでる。
「真咲ぃーっ!」
紗優だ。
驚きのあまりタコさんウィンナーを箸から落っことした。
一直線。すごいスピード。スカート手をやって素早く屈む、座る。「聞いたよー。小澤にいびられとったんやって? 大丈夫やった? あいつ四組の裏ボスやからな。表ボスやよ実際。真咲お昼どこおるかあたし知らんかってん、まっさかここやと思わんかった。あたしもおべんと持ってきたから一緒食べよ? あ。そーれかわいー。真咲ピンク好きやよなあ。プライベートレーベルのやつー?」
「ちょ。紗優、落ち着いて」お気に入りの腕時計を見せつつお弁当を一旦膝からどかす。風呂敷もちょっとずらす。すると紗優、私との間にお弁当を置いて広げる。赤。巾着袋もお弁当箱もキッチュな赤。
「どうしてここが分かったの」
「尾けてきた」
タコさんを挟む箸が止まる。
ストーカーですか。
「だーって。気になったんやもん真咲のこと」
プチトマトから食べ始める。私のまなざし、ちょっと冷ややかなものとなる。「……学校で顔合わせなかったよね。関わりたくないのかと思ってた」
「ごめん。ごめんなあ」箸置くとぱちん! と手を合わす。「落ち着いたら行こ思っとって。真咲にあたしが失敗したことさしたないと思っとってん」
「……失敗って」どんな顔しても美人は美人だと思いながら私はブロッコリーを。
「あたしな。違うクラスなっても和貴んとこばっか遊びに行っとって。やしいぃつも女の友達、同じクラスに作れんの。友達、そばにおらんと大変やろ?」
「確かに」
町田で顔色ばかり覗ってた頃を思い返す。移動や行事のとき、面倒はあったけれど直近の孤独よりはよかった。
「あたし小澤に嫌われとるの。やし下手にあたしうろついたら真咲まで印象わろなってしまうと思って。真咲、小澤のグループとずぅっとおったやろ? ほんで」人参のグラッセを口に放り、「和貴からも止められとってなあ。最初の二週間はね、友達作る大切な期間だから、邪魔しちゃ駄目だよ? て」
「はは」その期間に思いきし浮いてましたよ。
「マキもな。ホントは心配だったみたい」
片っぽの頬をグラッセに膨らませた紗優に、嘘でしょ、と言いかけたのが。
背後で紙の音、吹いた風にはためている。
重しのっけなかったからだ。横着しちゃうとこうなる。
めくれるノートの中身に、
押さえかけた手が、――止まる。
「真咲のことずっと気にしとってんよ。ちらちら見とるし。気づかんかった? 放っといていいのかって訊かれて和貴もちゃーんと考えとるってゆうとるんに。……困っとったみたいやな。どっちも」
新品だった。
表に裏に名前すら書かれてない。
お弁当を膝からどかし、広げてみる。
これ……。
「あんな? 金曜のガッコ終わってからな、和貴がうちに来てん。『なーんかみんなで楽しめて安全で一体感があって結束力が持てる遊びってないかなあ』てよー意味の分からんこと言うとった。んでな、ちょーどそんとき怜生が帰ってきてな。体育部でドッジやってきたとこやってん。怜生、クラスのなか悪い子と一緒にダブルドッジやったら仲良くなってしもて。遊んだって遅なってん。それ聞いたら和貴の目の色変わって。いっぱいルールとか聞いとったよ」
一時間目の体育を除く、二時間目から六時間目まで順番に。
授業の切り替わりには付箋。
急いで書いたような、されど読みやすい、大人の男の人みたいな字体。
ペンは三色使用。蛍光ペンは一色。
一行間隔空けて書き写す主義。
自分のコメントはインデント。
重要なとこは左矢印を。
ページの切り替わりに教科書の何ページに対応するか必ず走り書きされ。
インデントのなかにあるのは。説明しなかった授業もあるのだろう。
次回の習う範囲。予定。
今回の授業のポイント。覚えとくべきこと。
課された宿題。次、誰の列から当たるのか。
「和貴なーあいつ、顔出さんよう頑張っとったけどバレバレやったわ。小澤見る度に目がキレとった。マキはムカついたから当てにいってんよ。まっさか、真咲がかぼうて顔面キャッチするなんて思わんかったやろな、あはは」
担当教師の名前と。
移動教室の場所まで書いてあるのは。
明らかに――
『苛々すんだよ』
なにげなく流してたけど。これ。
わざわざカラーコピーしたのを新品のノートに貼りつけてる。
素朴に。
こんな几帳面なノートとれてるひとが、なんでノートに貼り直すなんてことをしているのか。
無意味で、
不器用で、
意味不明。
だけれど、
「真咲。あんたさっきからあたしのはなし聞いとる?」
「ぜんぜん……」
コピー。ノート。コピーを胸に抱いてみる。んもーっ、と紗優がふくれっ面してる。
私のこころはなにか独り占めしたいものに満ちていた。
こんな私たちの間をすこし強い風が駆け抜ける。
いい気持ち。
「和貴にずぅっと任せっぱで黙っておったけどもういい。こっからあたし、遠慮なんかせんよ」
既におべんと食べ終えた紗優に。
『僕とばっかつるんどるから女の子の友達まるっきしおらんの。嫌じゃなかったら仲良くしたげて?』
あの笑みを思い起こし、
左の手であたたかな紙を抱いたまま、
私は自然とこぼれおちる笑みと共に、
今度は自分から握手を求めてみた。
「こちらこそ。よろしくね、紗優」