(3)
この、小さなガラスのコップが私の器だとして。
周りから被せられる言葉。
好奇に満ちた視線。
こんな人間だろうなという目測。
それらを受けて縮こまる私自身。
環境の違いに落胆する、気持ち。
色んなことが水となって、私のなかを埋めていく。
片親はまともに育たない。
誰が、そんなことを言いだしたのだろう。離婚した子どもの犯罪率の高さ?
私は、犯罪なんてものに興味は惹かれない。心理学という観点では別として。
けど、大人からは色眼鏡で見られる。
あのうちの子ども。
親が離婚したとこの可哀想な子ども。
気の毒だって、同情目線。
水は都会の味に比べて美味しいとは言われる。でも味の違いは私の舌では分からない。思えば私が家で飲むのは水か麦茶ばっかりだ。選択肢が少ない。
一人、居間で喉をうるおす。お客さんがいない日だからたまには。
空となったグラスを爪で、はじく。
きぃん、と響いた。
風鈴に似た透明な響き。
からっぽに、なってみたい。
半分だけ、注いでみる。こぽこぽと音を立てて、注がれる。照明、陽の反射を受けてきらきら。傾けてかがやきを確かめる。ビー玉みたい。透明感。
現実的には、きれい。
ビジネス本ではよく、水とコップの組み合わせが、ポジティブな例えに用いられる。
半分だけ入った水を、
まだこれだけ残ってる、とみなすか。
これだけしか残ってない、と嘆くか。
当然前者が推奨される。
私は、どちらとも思わない。
満たされて苦しいと思う。
喉をうるおす。一息に飲んでしまった。なんだかこっちに来てからやたら喉が渇く。どうしてだろう?
自分のなかの汚濁めいたものをすべて空にして、綺麗なものでいっぱいにしたい。
透き通ったこころを保ちたい、と願うのに。
時折、どうしようもない苛立ちに見舞われる。
真夏の夕立に似た激しさ。
長く降り続く雨に似た虚しさ。
行き場がない、この感じ。
息が詰まる。
人生で私がどうにかできることは少ない。できないことを見つけてしまった。
もし、私の許容量がコップだったとすれば。
超えたらいったい、どうなるのだろう。
もろもろの気持ちは、どこに消えていくのだろうか。
新しいなにかで埋まる?
違うなにかが見えたり、するのだろうか。
いつか来るだろうと私が想定するよりも早く。
オーバーフローする瞬間は間もなくしてやってきた。
* * *
囲む人数は次第に減ってきている。歓迎だ。動物園のチンパンジーみたいな扱いは勘弁して欲しかったし。
私、という人間への関心ではなく。
遠くから来た、ちょっと特殊な家庭の、転校生。違う人種だということが単に、面白いのだ。
みんなは。
大人は。
……茶髪くんと、黒髪の彼と話すことはなかった。彼らと目が合う機会もなく。人とひとの隙間の向こうにああいる、そんな感じ。
紗優もいまだ学校で見かけてない。来ているんだろうとは、思う。
そういえば。
いろいろとよくしてもらったのに。
ありがとうの一言も私、言ってない。
でも。
お礼言うために近づくのってなんだか、……やましい感じがする。
楽しい思い出へのおこぼれ、それをまた求めてるみたいで。
仮に近づくんだったらもっと純粋な思いで接したい。
興味本位ではなく、純粋な彼らへの好奇心で。
「でねえ、……都倉さん。とくらさぁーん?」
肩を叩かれた。
「んもう、ちゃんと聞いとるん?」
聞いてなかった。この子たち含む五人組がいつも輪の中心にいる。私はこちらの彼女の苗字を聞き逃したままだ。
「あのさーずっと聞きたかったんやけど」
と、小澤さんが顔を寄せる。
なに? と何気なく返す。
すると耳のなかに、
「お父さんおらんくなるってどんな感じ」
頬に、火が走る。
これは、怒りの種だ。
自分でも分かった。
気の毒そうな目線をこちらに向けてくる。
彼女の親切心とやらが私の導火線にちりりと火を点けた。
「都倉さんて、前の苗字はなんやったん」
「木島、だけど」
机に手を置いていた彼女は、なにごともなかったように姿勢を戻す。
私の脈は乱れた。
聞き違い、などではない。
「ふつーの名前やね」
「小澤やてふっつーやんか。どこにでもおる名前やがいね」
「別れる、てどんな感じなんやろ? あたしにはよう分からん」
「彼氏もおらんがにあんたなーにをゆうとるが」
「理解できんよ」と首を振る。思い詰めた表情で、「一度は好きになった相手なんやろ? なして嫌いになるが。そいで離れて暮らすたって」
一拍置く。と、
「都倉さんがかわいそうや」
「……もしかして、私の家のことを言ってる?」
自説を繰り広げる彼女を見返す。
周りの子が戸惑いに目を見合わせる。
でも彼女は、譲らない。
私の胃のなかがなにか、膨れ上がる。
「だってな。親が別れた子っちゅうんは大概ぐれるんよ? 寂しゅうなって」
――また、それか。
いつもそうだ。いつも大人はそう言う。
「あたしらの知らん都会から遠くこんな辺鄙な田舎来てんし。寂しい思いしとるやろから仲良くしたれって、」
お父さん、が。
この一言が決定打だった。
机を叩き席を立つ。
あまりの音の大きさに周囲の目が集まる。
だが構ってなどいられない。
「あなたの独善的な話にもお父さんの話にもキョーミない。放っておいてくれる?」
瞬時に、彼女の顔が朱に染まる。
それがどういう種の感情だか分かっている。
が、興味が湧かない。
静まり返った教室のなかで、私の出ていく音だけが残された。