(4)
何度となく往復したこの道を、過ごしてきた日々を噛み締めつつたどる。
駅へ学校へ何度となく通った国道には、人っ子一人歩いていやしない。
車が時折走り、春風を運んでくる。今日も気温が高くなりそうだ。昨日は二十度超えだった。桜の開花が間もなくして訪れる。
東京で見る桜は、どんなだろう。
町田だと駅からさほど離れぬ距離に広大で豊かな公園があるけれど、埼玉ならどこに行こう。上野や川越に行ったりするのかな。それか川口か。
国道沿いに住まうひとびとの日々も変わらない。暇そうなミシン屋さんに呉服屋さん。おせんべい屋さんに立ち寄る小学生。お腹の大きいお母さんにまとわりつく幼子に飼い猫が――
いろいろなひとびとがそれぞれの人生を生きている。
変わらずあくせく働くひとびとが輝いて見え、私に勇気を与えた。
美空ひばりなんて聴きながら行こうかな。
ボストンバッグのなかのCDプレーヤーの感触を確かめる。
空港行きのバスなんて、時期が早いからきっと無人。
――と、思いきや、
赤いベンチに、人影が一つ。
「なんで、……どうしてここに」
彼は私に気づき、膝の間に組ませていた指を解く。「見送りに来た」
「バスの時間なんて、言ってない、……けど」
「昼過ぎの便と聞きゃあ十分だ。待つのも案外、悪くない」
長身の彼は、私の前に立つと首を傾げ、こき、と鳴らした。
「あれから海野に戻ってから、またこっちに来たんだね。疲れてない?」
乗車券を買い、ベンチの傍に立つ彼に近寄る。
本日の彼は昨日の色違いバージョンかのようだった。全身黒で、靴だけが赤いスニーカー。
ガラス戸の向こうでも視線を外さず凝視してくるものだから、……自分が変な歩き方をしていないか、密かに不安になる。
「俺は、おまえのことで疲れたことなんざ一度もないぞ」
「だから、……なんでそういうことを言うかな」
「仕方ないだろ。TPOはわきまえてるつもりだ」
彼は、バスを見た。
この町から離れ空港へと連れていく。やがては未知の未来へとひとびとを誘う、長距離バスを。
運転席にバスの運転手さんが乗り、エンジンをかける。旅立つのは間もなくだ。
「私、行くね」
「ああ」
彼の前を通り、乗車口に向かう。
一歩、二歩。
カウントで五歩を進んだときだった。
「――都倉」
「うん?」
「こっちじゃねえ。真後ろだ」
私は彼を振り返る。
素早くこちらに迫り、その手が、私の頭をいつもするようにぐしゃっと押さえつけた。「髪が、」
ぐちゃぐちゃになっちゃう、と言いかけたのを彼は遮った。「わきまえてるっつたろ。直ぐに東京行くから、先行って待っとけ」
言うだけ言い彼はバスの前方へと回る。
――真後ろ。
バスの後方をなにげなく見た。
そこには、――……
「だまって行くなんて、ひどいよ」
息も、髪も乱していた。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」
顎先を伝う汗を手の甲で拭う。
この小春日和に。
どんなに急いで来たのかを証明している。
「ま、さきさんのこと、だから、緑川に居られないことに罪悪感感じたっていう思考回路でしょう。分かるよ、そのくらい……」
たまらず、首を振る。
その動きを、制止される。
「そんな簡単なもんじゃ、ないんだ」
幾度と無く触れ、何度となく求めた。あたたかい彼の――
「僕はねえ、真咲さん。そういうところも含めてきみが好きなんだ。勝手に突っ走っちゃって悩んじゃうとことか――」
濡れた頬を包まれていた。
愛しい彼が、笑いかけている。
「よければ、僕にもその荷を分けてほしいな。どんなに離れていても――」
「か、ずきっ」
なにも、見えない。
和貴の愛しくて柔らかな茶色い髪。そのくせっ毛。ガラス玉の透き通った瞳の色合い。ほんのり焼けた素肌、薔薇の色をした唇。いつもおどけたように唇を尖らせる。アンバランスに大きな喉仏。
どれを、とっても、
「なんど諦めようとしたか分からない。それでも、諦められなかったんだ。……やっと、手に入れたんだ。僕だけの真咲さんを。
――愛してる」
止まらない私の涙腺に、「あーあ」と肩をすくめ、
「これで泣き止んでくれないかな、真咲」
触れるだけのキスを鼻の頭に落とした。
乾いたこころを満たし、
閉ざそうとした扉をいつも、開くのが、和貴だった。
鍵を握っている。
委ねている、それで楽になれることも、嬉しくてどうしようもなくなることを、私は、知った。
ずっとこうしていたい。離れてなんかいたくない。なのに、
「……時間だね」
和貴が私の後方を見あげた。おそらく、運転手さんのほうを気にしているのだろう。既にエンジンがかかり、排気される空気が自然の空気に混ざる。
「か、ずき、ばなれだぐないっ」
「僕が、入り口まで見送ったげるから。ほぅら、言ってごらん? イカリング、って十回」
「い、がりんぐ、いがりんぐ……」
発音が山瀬まみの私の手を支え、和貴が乗車口のほうへと誘導する。
開かれているドア。数段のタラップ。
和貴の手がするりと離れる。
のぼりたくない、けど、登りきり、運転手さんにすみませんと断り、乗車券を、渡した。
頭のなかでイカリングのカウントは続けていた。
「首から下げるのは?」
努めて明るい和貴の声。
私は振り向きざま、自分の首を指し、
「ネックレス」
あ、っちゃあー、と項垂れる和貴を私は笑った。
「そこさ、分かってても、イヤリング。って言うとこでしょ普通。……ね、僕ね、イカリングでもイヤリングでもないけどきみに」
「出すよぉー、危ないからどいてな」
空気音とともにドアが閉まる。
その向こうに、和貴。
なにかを言ってるけど、「なに。聞こえない」
ドアを叩きかねないが躊躇し、顔を寄せ、
口を二回開けて最後は「ん」。
「わー、わー、……ん?」
真顔で大きく二度頷くが違う。絶対違う。
その彼の全身が、顔しか、やがては手しか。ついにはすべてが見えなくなる。
「和貴ぃっ」
ロータリーをバスが右折する。私は後方にダッシュした。
側面に沿って和貴が走る。
でも車の速度に人間は勝てないものだから、後方へ回ってしまう。
「和貴! ねえ、和貴ってばっ」
私は、後部座席にバンと突っ込んだ。
ガラス窓に手を付けて見るのは、バスが通る車道を走り、追いかける和貴の姿。
ぶんぶん手を振る愛しい人の姿。
「和貴、和貴っ! 私もっ」
背もたれを掴んで彼に叫んだ。
『真咲、愛してるっ』
和貴の声が本当に、聞こえた。
泣き濡れる私に比べて、最後まで和貴は笑顔だった。
明るい髪の栗色、それに全身白のシルエットが消えてなくなるまで、私は必死に見続けていた。