(1)
――彼はおそらく、なんの警戒心も持たずに扉を開いた。
「どしたの? 一人?」
――目を見開くのは、魚眼レンズを覗かなかった証拠。
インターホンを鳴らさずに訪ねた来訪者を不思議がるのも無理はない。――私と彼とは、親しく家を行き来する間柄にない。ましてや、さきほど別れを告げたばかりだった。
和貴はもろもろの疑問を表情に滲ませつつも、目を丸くしたまま、ひょい、と私の後ろを覗きこむ。「みんなは?」
「……帰ったよ」
玄関扉を支える和貴の腕が、近かった。
私はまだ、彼を見据える力を持たない。
「泣いたの? ひっどい顔してるなあ」
率直な彼の発言に、私も率直に返した。「和貴もだよ」
和貴も泣いたのは瞭然だ。みんなとの別れが堪えたのだろうか。
「そ。そお?」と頬に手を滑らせる。――ゆっくりと、扉が閉まる動きに沿い、和貴は、私を招き入れた。「……冷やしたほうがいいね。タオルでも取ってこようか。忘れもんがあんだったら、それも取ってくるけど……」
言いながら靴箱のうえに常備されているティッシュ箱を差し出す。
それに応じ、ひどいことになっているだろう鼻をかむ。
続いて差し出されるこれまた常備のごみ箱に使用済みティッシュを入れ、私は、一歩を、踏み出した。
こんなぐちゃぐちゃの状態で言うなんて、みっともない、けど。
いましないほうが、ずっと、後悔をする。
「わ、すれものは、和貴。言ってないことが、……あったの」
落ち着いた彼の瞳が次を促す。
「わ、たし。私……!」
――ただの一言を告げるだけがどうしてこんな、苦しいんだろう。
呼吸の仕方を忘れてしまう。
息の詰まる喉を押さえた。
怪訝な顔をし、和貴がこちらに近づく。
きっと彼は、誰に対してもこんなふうに接するのだろう。
すごく、――優しいひとだから。
「真咲さん、大丈夫だから、落ち着いて、息吸って。すーはー」
「好き、なの」
一瞬、絶句した。
次に、「ふえっ?」と頓狂な声を出した。
「和貴のことが好きなの……!」
「ええっ? だって真咲さん……」
――なにがそんなに意外なのだろうか。
挫けそうになるけれど、拳をぐっと握り締めた。「教えて。……和貴は私のことをどう、思っているの」
「……真咲さん?」
「私、……言わないでおこうか迷ってた。でも、タスクに、紗優に、マキに、勇気を貰って。……これ」
瞳孔を開かせた和貴は、手に握っていた、私の差し出す紙を開くなり、うわあ! と絶叫した。
とんでもないものでも見たみたいに。
実際、私にとんでもなく――勇気を与えてくれた物質だった。
「……にしても、よっくもまあ、こんなもん取ってあったよね」――すこし落ち着いたように見える和貴は、ぺちんと叩くように額に手を当てた。「ふつー捨てるでしょこんなもん」
「タスク、……安田くんたちと部室の片付けをしていたでしょう。捨てる直前の箱を整理して、……ううん。探してくれていたの。今日も、ぎりぎりまで……」
それは、借り物の書かれた用紙だった。
――厳密には、借り『人』の。
二年のときの体育祭。この用紙を引いた和貴は、何度も叫んで、私を探しだした。――あのときの光景を思い浮かべつつ、私は言葉を紡ぐ。
「――物は物でしかないと思えばただの物でしかないけど、時として人と人の心を繋ぐ存在となる。
ある人が言っていたの。これを見て、私もそう思った」
「真咲さん……」
好きなひと、と書かれたたった一枚の紙切れ。
更にはタスクの達筆な字で和貴と私の相合い傘まで書き足されている。
キングファイルに隠し何食わぬ顔をしつつ、タスクはそんないたずらをしていたのだ。タスクがお題をバラしそうになったのを和貴が制止したのも、いまとなっては理解できる。
でもいまがどうなのか。
ひとの気持ちは変わりうる。……かつて私がマキを好きだったみたいに。
それは、本人に確かめなくては分からない。
タスクはこのことを言っていたのだ。
「これがもし、本当なら……和貴は私のこと。いまは、……いまはどう思っているの。教えて」
「ま。真咲さん。マキは真咲さんのことを……」
「マキは関係ない!」
――彼がなにか言いかけたのを遮った。
叫んだ直後、自分の気持ちを確かめるように、私は彼に語りかけた。「マキの気持ちは知ってる。でもいまは、私と和貴の話をしているの。和貴、……本当の気持ちを教えて? 嫌いならそう、突き放してくれて、構わないから」
――優しくするほうが酷だとかつて彼は語った。
体育館裏。中庭。彼の元を走り去った女の子たちの残像がくっきりと蘇る。自分もああなるに違いない。
それでも、後悔なんか、しないと決めた。
――行動に移すか否かが問題だ、或いは、訪れた幸運をものに出来るかがね。
父がそう、語ったではないか。
靴箱のうえに紙を置き、肩を上下させ、大きく息を吐く。――その言動に、私は、希望がないのを悟った。段を一段降りて、和貴が、私の前に、立つ。
「決まってるじゃないか。真咲さんはホントにぶすぎる」
――審判がくだされる。
覚悟をした。実際には固めるよう努力し、……あんまり、こわばった表情にならないよう努め、彼の告げる死刑宣告を待った。
だが、
「大好きだ」
言葉とともに、あたたかな両腕に包まれていた。
彼の、におい。ほのかなフローラル。筋肉の感じ。骨っぽい指の感じ。……一連がからだに伝わっても、いまだ信じられない。
夢でも見てるんだろうか。
「……和貴。ほ、ほんとうに?」
「好きで好きでたまらない。何度言おうとしたかわっかんないよ……」
私の首筋に顔を埋める彼の動きにぞくりとする。
かさなる彼のからだから、……彼の鼓動の速さが分かる。
私はほっと息を吐いた。
「全然、……気づかなかった」
「だーからにぶすぎるって言ったじゃん」
強く抱きしめられ、あっと声が出た。「その、いまのちょっと、強すぎる、かも……」
「うわ、ごめん」
「やだ」飛び退いて離れそうになる彼を、引き留めた。「離さないで。……駄目かな」
一瞬、目を剥いた彼が首を振り、再び私を包んでくれる。
その優しさに、
宝物になった心地がした。
「好きだ」
「私も……」
「真咲さん、折れちゃいそうだよ。ちゃんと食べてる?」
「折れません。そんなやわにできてないから大丈夫」
「真咲さん……」
さっきよりもちょっと力を込める。
恐る恐る、手を挙げ、片手で、彼の背中に触れた。
彼がするように。
耳と耳をぴったりくっつけられていても、彼が微笑んだのが、伝わった。
どうしても加速する、この甘い鼓動にいつまでも溺れていたい。
「――泣いたのって、僕のせい?」
――しばらくの間ののち。
和貴が、沈黙を破る。
すごく近くにて私の目を覗き見る。
挙げた手を――手の甲を返し、私の頬にすべらせる。女の子っぽい顔に似合わず力強い、彼の関節の感じが、愛おしかった。「違うよ」
「嘘つくのが下手だよね、真咲さんは」ふっと和らぎ、ブレスが私にかかる。
いまさらながらこの近距離。
素肌も感情も丸裸にされてる。
しかも、相手は桜井和貴だ。
私の感情のなにもかもをも、お見通しだ。
「泣いてもいいよ?」
「泣きません」
「そっ?」笑う和貴の腹筋の震えが、私にも伝わる。「じゃあ、キスしていい?」
「やっ……」
顔を背けたが、
「だから、――下手だって言ったんだよ」
艶っぽく微笑む残像。
――直後、呼吸を奪われていた。
それはかつて、荒々しくされたかたちではなく。
生理的に理性的に、自分が委ねていた。
薔薇のように香り立つ存在。ほのかに赤い彼の唇が私をとらえ、――離さない。
ブラックアウトした視界のなかで彼の存在を知る。
次第に私は動かされ、繋ぎあわせた手を使い、和貴が、がちゃりと、家の鍵を締めた。
冷たい感触。閉ざされるドアとは真逆に自分が開放されていくのが分かった。
そのときに、私は彼にすがりついていた。
意識が恍惚とし、鮮烈な画像が――淡く散る花弁がまぶたの裏に再生する。
涙が滲むほどに、求められていた。
――酸素不足のあまり、息があがった。
「し、らなかった……キスって、心肺機能が高くないとできないんだね」
なにいってんの、と早口で彼は言い、
「こうすればできるよ」
反応の追いつかない、フレンチキスを落とす。
ぼわっと顔の温度が急上昇する。――いたずらに彼に笑われれば尚のこと。
「なんっか、目ぇあけたままされて、は、恥ずかしいよ……」
「全然いいと思うよ。僕は、されるときの真咲さんの顔を、ずっと見ていたい。クセでつい、閉じちゃうんだけどね……」
――なんてことを言うんだ。
「ここじゃなんだから、上がって?」
私が余韻から抜けられない一方で、彼は毅然と友達の顔に戻して、言う。
――さっきの彼が、嘘だったみたいだ。形容はなんだが、獣――だった。激しく、荒ぶり、昂ぶる。好きなひとを求めるときは誰しもそういった表情に変わるのか。
「正確には、真咲さんの。見たことがあるんだけど」
私のためのスリッパを出し、ぽつり、和貴が言った。
「え、見たって……あ、前に言ってたよね。額に、……坂田くんにされたの」
「いいや、それだけじゃない」
「じゃあ――」
まだ和貴の感触が残る唇を押さえ、息を呑んだ。
振り返る彼は思いの外冷静に、「そ。屋上で」私に向けた方の肩をすくめた。平手打ちしたのは見たけど、その後も仲良くしてるから、てっきり僕は……」
――まさか、そんなことが。
マキにキスされたのを和貴が目撃したなんて、……思いもしなかった。
一旦奥に消えた和貴は、戻ってくると、濡れたタオルとペットボトルとを手にしていた。
「あがって」
さっきみんなで片づけたテーブルは当然片づいている。――みんなの居たぬくもりがまだ空気中に残っている。
「……泣くと塩分と水分がからだから逃げていくから、補給したほうがいい。麦茶よりか浸透しやすい、スポーツドリンクのがいいんだ」
「和貴……」
「それ飲んだら、家まで送る」
躊躇いつつも、彼の差し出すペットボトルに口をつけた。
「ねえ。和貴。……」
受け取れば、躊躇なく口に含む。
その和貴に、訊けなかったことを、……踏み込めなかった一歩を、更に踏み込む。
「どうして……言ってくれないの。明日は、和貴の、誕生日なんでしょう」
飲み物を飲みつつ瞳だけで驚きを示した彼は、口許を拭うと、「紗優か」と諦めたように呟いた。
「十四日に緑川を離れるって、紗優には早くに伝えていたんだけど、何回か、『ずらせない?』って訊かれて、
――今朝、教えてくれたの」
黙って視線を伏せて聞いている和貴に、私は、畳み掛けた。
「和貴の方こそ、自分の誕生日が好きじゃないんだよね。だから人に言わないし、騒がれるのも苦手で、プレゼントもあんまり受け付けないって聞いたよ。……一年前、演奏会の日に女の子たちにクッキーを配ってたのは、バレンタイン以外にも、誕生日のお返しをしてたんでしょう?」
笑って次々に女の子にばらまく。
軽薄な感じがして正直幻滅したけど、そんな事情があったらしい。
「ま、……ね」指で頬を掻き和貴は肯定する。「せっかくくれたからさあ、返さないのも悪いなーって思った。ホント、……誕生日自体も、おめでとうって言われるのも苦手なんだけど」
「誕生日が嫌いだなんて悲しすぎるよ。ね、和貴が誕生日を迎える瞬間、一緒にいちゃ、駄目?」
「真咲さんっ」
急に席を立った。何故か焦ったように空のペットボトルを掴み、
「みょ、明朝にはここを出るんだから。家に帰るとか、することいっぱいあるでしょ」
「いま私がしたいことは、和貴と一緒にいることなのっ」
勢い込んで私も立ち上がった。
絶叫した私に呆れたのか嘆かわしくなったのか、
和貴が項垂れ、台所のシンクに手をついた。
ため息を聞く。
「……ごめん。私は、明日緑川を去ることもなにも変えられない。けど、……和貴と居たいの。すこしでも長く」
自分勝手な言い分に恥ずかしくなる。けど止められない。
「なにするかわっかんないよ」和貴の低い声が響く。「これでも多少、……理性が吹っ飛びそうなのを抑えてんだ」
「構わないっ」
なぜだか、和貴の背中が揺れ動いた。
曲げていた背中を伸ばし、ゆっくりとこちらを確かめる。
私は、彼の動きを見ながら、自分の真実を、明かした。
「和貴にキスされたの、私、……全然、……嫌じゃなくって」
正直な告白、
――それとも欲望。
「なんていうか、……頭の奥が痺れたの。触れられたところがまだ痺れててもっと……和貴のことが、欲しくなる」
「真咲さん!」唐突に和貴がわめいて頭を抱える。「僕の最後の砦を崩すのは止めてくれ!」
その反応に、自分がとんでもない発言をしたのだと、認識した。
「変なこと言っちゃって、恥ずかしい……ごめん」
忘れて、と背を向けたはずが。
――後ろから彼に抱きしめられていた。
「手遅れだよ」
頭上から声が振る。
つむじに吹きかかる息に、からだの芯がしびれる。
「あ、んなこと言っておいて……僕も、真咲さんが欲しくて欲しくてたまらない……」
和貴も、震えていた。声がかすれていた。
緊張する同じ想いを抱えているのだと知り、彼のことがより近く感じられた。
和貴は、私のからだを反転させ、腰を屈めて瞳を覗き見る。
「もうひとつ言ってなかったね、真咲さん」
なんのことだろう?
素朴に疑問だった。
可笑しげに唇を歪める。そして、いたずらっぽく笑い――
「うちのじーちゃんの世話をしてくれてありがとう」
「な、んで、それを……!」
艶めいた唇が私の驚きを封じる。
「仮に、じーちゃんの友達にしても、紗優やおばさんにしても、世話を焼きすぎだし。どー考えても」
寸時のブレス。息継ぎをする間もなく、
「ご飯にしてもね、真咲さんの親御さんが運んでるにしても、なんだか腑に落ちなかった」
ましてや、言い分を述べる暇など。
上唇を彼の唇で挟み込まれ、ふるっ、と離される。――なんてことを。
「だから、――真咲さんが台所熟知してるのを見て、ぴんと来た」
ちゅっと音を立ててまぶたに口づけられる。「もしかしたらねーって期待してた。でも期待する自分が恥ずかしーなーって思ってた。だから見ない振りしてた」
今度は逆のまぶた。
なんだか自分が手玉に取られてる感覚。
耳をぎゅうと包まれ、強く口づけられ、――
最後は鼻を唇で挟みこみ、彼は、笑った。
「灰かぶりシンデレラさん。嘘を突き通すおつもりですか」
「和貴っ、もおっ」
こうやって和貴はからかう。
いつも私のことを。
ところが、からかいを消した真顔で彼は述べる。
「瞳、閉じないで――僕のことを、見ていて」
鼻がくっつき、互いを見れる限界まで迫る。瞳と瞳を認識できない接近値。まぶたのふれる距離で、
近くに見ても、西洋的な顔立ちをしている。でも彼は、私の知る桜井和貴そのものであって。深く、入ってくる。自分を主張するように。私を、求めている。
甘く切なく胸を焦がされ、――彼のまぶたが降ろされていても、その想いが、伝わった。潜む舌を柔らかく噛まれ、彼にすがる手が滑った。歯列をなぞられ、溶けてしまうかと思った。
次に彼が瞳を開いたときには、私は、彼に支えられないと自分が存在することすら、ままならなかった。
「もう、……立てない。和貴……」
「じゃあ、こうしよう」
和貴の顔が首筋に迫り、なにをされるのかとおもいきや、抱えられていた。
履いていたスリッパが順に落ちる。
それでも和貴の歩みは止まらない。