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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第三十章 親子水入らずで話したい事もあるやろから
110/124

(2)

「お母さん鍵開いてるよ」

「失礼をする」

 ドアを三度ノックするのが母だけでないと少しは学習すべきだった。

 振り返れば柏木慎一郎。

 この事態に、全身の毛穴が開くかと思った。

「本が、多いね」脱いでいた背広を片手に持って部屋に入る。入り口から見て真正面と、左手の本棚が目につくのだろう。「……全部自分で集めたのかい」

 と言う柏木慎一郎の視線が室内を一巡する。

「ええと、そうです、一応」

 あちらの本棚には手付かずだが、押し入れにこっそり仕舞い込んでいたぶんと勉強机の本だけは段ボールに詰め終え、部屋の隅に積み上げている。

 この午前中でプラス三箱うえに積んだ。トータルで六箱。

 以外に、引越しの準備に目立った進展が無い。

「……心理学に興味があったんだね」

「はい。小学生の頃から、小此木先生や河合先生の著書を読んでいました」彼が横目に通り過ぎる本棚には、赤本など大学入試の資料を詰め込んだままの状態なので気恥ずかしさを感じるものの、私は箱に向かう体勢から座り直した。「子どもにも分かるように、表現を噛み砕いた解説本が多く出されていますし……」

「恵まれているね僕らは」室内をL字に曲がる、柏木慎一郎の顔の位置が高い。スーツのパンツに縦に綺麗なプレスが利いている。「彼らの世代だったら、原著のハードカバーを読み込むものだったがいまや和訳やペーパーバック版などが手に入る。フロイトの著作なんか特にね」

「はい。……助かってます」

 専門書の類は、一冊二三千円どころか五六千円のものもザラだ。

 重さも極端だけれど値もかなり張る。こないだ買おうとしたのなんか七千円もした。諦めた。

「これからもっと助かるだろうね。大学の図書館も有用だよ」

 私の思い至ったところを推察し、柏木慎一郎が接近する。

 思い切って言ってみた。

「柏木さん。いきなり部屋に入って来ないでくださいよ」

「断りを入れたつもりだったが」

 頭に手をやり、あぐらを組んで座る。

 まさか、柏木慎一郎と軽口を叩く日が来るとは。

 胸の奥がつんと痛くなる。

「……話し合いは終わったんですか」

「うん。昼のお客さんが落ち着いたら、美雪さんが呼びに来る」

 壁掛け時計が十二時を示す。

 五時間近くも、祖父母と母との話し合いが続いていたのだ。私はその間、自室で荷物整理をしていた。無論、ちっとも捗らず。

 柏木慎一郎の表情を伺い見ても、その内容が読み取れない。

 私に関するものだったには違いないけど……。

 対面する柏木慎一郎が、こちらの興味関心に気づき、静かに見つめ返す。

 瞳に、濁りのないひとだと思う。

 年齢を重ね積み重ねる経験から来る自信、驕り……

 それらとは無縁の、清廉なひかりをたたえた瞳の美しさを持っている。

 よく見れば若干グレーがかった、異国の血を思わせるいろを交えている。

 ときを止めて欲しいと願う、一瞬だったのだが。

 私の腹の音がかき消した。

 よりによって、轟音に等しい。

「……聞こえ、ました?」

 柏木慎一郎がやわらかく笑む。

 アウトだ。完全、ダウトだ。

「お腹が空く時間だね。下に、声をかけてこようか」

「いえ」腰を浮かしかけた柏木慎一郎を私は手を横に振り制した。「空いてるってほどじゃないんです。いつも、学校だと十二時過ぎにはお昼を食べるからその、胃が生理的反応を示しただけで」

「朝ごはんちゃんと食べてる?」

「苦手なんですが、一応は……」

「引越しの準備をしているところを邪魔してすまないね。手伝おうか」

「いいえ、大丈夫です。……この部屋、六畳なんです。住んでいたのがほんの一年半なんですが、段ボール十箱じゃ足らないんです。まだまだ、入りきらない荷物があって……」

「箱詰めをしてみれば一人暮らしでも二十箱くらいゆうに超えるものだよ。特に、読書家のひとならね」

「どうしてだか、東京を離れたときよりも増えてしまいました」

「いい日々を過ごしたんだね、きみは」

「……そのとおりです」

 重たい荷物を背負ってしまった。

 こころなしか、柏木慎一郎の眼差しが感慨深げに見える。私は彼の視線を追い、部屋を見回した。生活感を残しつつも旅立ちの気配を漂わせる、出会いと別れの狭間の雑然を。

 来たときは廃屋同然だった。自分なりにやりくりし、家族の手を借りベッドなどを買い入れたりして、……住めば都。住みやすいように築いた、自分なりの城だった。

「捨てよう、と思い切れないものがあるなら、残しておくのも手だよ」

 突然に言う柏木慎一郎の口許に皺が寄る。私はそれを見ながら答えた。「祖父との交渉次第ですね。この家のスペースに限りがありますので」

 含み笑いをそのままに、立てた指二本でそっと、顎の下をなぞる。「このまま部屋を放置して引っ越してしまえば、二倍のスペースが手に入る」

「悪いことを言いますね、柏木さん。悪い道に誘っているんですか」

「要らないものは買わないようにしましょう、使わないものなら捨てるかリサイクルに出しましょう、……」その片手を持ち上げ、おどけて耳のほうを指す。「この手のことなら街頭でも叫ばれているし耳に栓をしていても聞こえてくる。超自我が鍛えられた方だと見込んでね」

「私の自我を懐柔されるおつもりでしたね」

「ああ……」柏木慎一郎が膝を叩いた。「小学生の頃のきみにも、会いたかった……」

 笑い混じりの言葉とは裏腹に、本音が。

 巻き戻せない時間を嘆く人間の性が、あまりにも悲しく響いたものだから、

 私は、押し入れの下段に入れていた段ボールを引っ張り出し、彼と私との間に置いた。


「これなら会えますよ」


「テニス部に所属していたんだね」

「はい。……万年補欠でした。運動が苦手ですし、日焼けすると肌が悲惨で。色黒にならないで頬の、この辺が赤くなっちゃうんです。かといって、日焼け止めもあまり強いものを使うと、かぶれちゃいますし……」

「敏感肌か、お互い苦労するね」

 同調を示し、またアルバムに目を戻す。

 例えば友だちのお家で小さな頃の写真を眺めてる好奇だとか、自分が映ってるのを探す興味とも違う。

 講義をしていたあの夏と共通する、真摯な紳士を目の当たりにしている。

 他人の子どもに向ける気軽な話し方をしているけれども。

 思考の速い人は当然動作も速く。比較的新しい高校のアルバムにまでたどり着いていた。「きみを初めて見たのは、この夏服だったね」

「はい」ポロシャツに、紺と濃緑のチェックのスカートを合わせた地味なものだ。「引っ越してきた頃は、前の学校の制服がすごく気に入っていて、抵抗あったんですけど、着てると段々、愛着が湧いてきて」

 この場から離れる実感が沸かない。

 だからといって、片付けの進まない理由にはならないのだが。

 大人になるとこんな言い訳が増えてしまいそうな、そんな予感がある。

「昨日が卒業式だったんだね。おめでとう」

「ありがとうございます」

 目を合わせ、微笑み、再びめくる彼の手が――

 止まった。

 やや目を見開いている。

「どうか、なさいましたか」

「いや。彼氏がいるのかと思ってね」

「いませんよそんなの」

 一笑し彼が見ていたものを覗き見る。それは、

 安田くんが卒業式の日にプレゼントしてくれたうちの一葉だった。

 去年の四月に――三年生に進級したての頃に、卒業アルバムに載せる部活紹介のページ用に写真を撮って貰った。撮影場所はどこでも選べるのだが、全員、

「パソコンルームで」

 同じ場所を選んだのが私には嬉しかった。気持ちが通じあってるみたいで。実際、日々を過ごした思い出の空間だった。

 学校に雇われたカメラマンが撮る横で、安田くんも撮ってくれた、のだが、


 端っこに居る私の肩に和貴が腕を回している。

 私に触れておらず、いわばエアー抱き寄せみたいなもんだけど、

 写真で改めて見ると目を引くし、それにそんなことされてるの、「全然、……気づきませんでした」

「彼、よくきみと映っているよね。いつも左側に立っているから目を引くんだ。うん……左利きだ」柏木慎一郎は指紋をつけないよう手早く捲る。ひと通り見てから、彼は私の目を見、断言した。

「僕の見立てでは、彼は、きみに好意を持っている」

「冗談やめてください」

「これなんかどうだい。他の三人がピースしてるのにきみたち二人だけパーを出す。……負けることに抵抗が無いのかな。同じポーズを取ってばかりだよね。真似る言動に、きみに対する親和的欲求のほどがうかがえる」

「それってあれですか。好意を持つ相手の仕草を無意識に真似る……」

「試すこともできるのだよ。もし、彼と差し向かいで座る機会などがあったら、飲み物に口をつけてごらん。喉が乾いていなかったとしても、彼も飲み物に手を伸ばすはずだ」

「柏木先生。プロファイリングかなにかみたいですね」

「僕は、きみの先生では無いよ」

 う。

 言葉に詰まる私に、微笑みかけている。

 これぞ大人の余裕。

 されど首元がきついのか、第一ボタンを留めた襟ぐりに触れる仕草をした。

 真似したくなったが、押しとどめる。

「……あの」

 代わりに、

「迷惑じゃないんですか。自分の知らないうちに、こんな子が育っていて、しかも突然、あなたの子です、なんて言われて」

 疑問を口にする。

 柏木慎一郎は無言で封筒を段ボールに戻した。

 言いなさい、と目で促されている気がした。

「母が、私に打ち明けたのは去年の夏でした。……偶然、私が、柏木さんの名前を出したからであって、私が家を出る直前まで、黙秘を貫くつもりでした」

 去年の、七月二十四日だった。

 和貴の家に案内され、混乱した気持ちがほぐれ、あたためてもらった――

 そんな機会など今度二度と訪れない。

「木島の父は、事情を知っていながら母を選びました。お話を伺う限りでは、祖父母もあなたのことを知っていたのかもしれません」門前払いをされたとさっき彼が語っていた。「木島の親族は、私が木島と血の繋がりのない以外になにも知らなかったようです。私は親戚のなかで不自然に浮いている感じがありましたが、貰われっ子だとか連れ子だとかちっとも言われませんでした。……子どもであれば先ず育ちの問題をからかうものなのに。田舎の出身だから言われる節はありましたが。私の出生を母がひた隠しにしたのは、意志があってのことだと思います。

 もし、私が東京に居る頃に知っていたら、……あなたを訪ねていた」

 突発的に動いた夏の日のように。

「柏木さんの家庭に要らないさざ波を立てる要因になったかもしれない。特に、……母は自分が離婚を経験したからこそ、同じ想いをあなたにして欲しくなかった。

 なんとなく、母の気持ちが見えてきたんです。……ですから」

 決意を告げるとき、

 柏木慎一郎が滲んで見えた。


「明日から、私のことを忘れてください」


 それまで落ち着いて聞いていた柏木慎一郎の目の色が変わった。

 音を立てて崩れるプリズムのように。


「私は、存在を知って頂けただけで十分です。下でうちの家族がなんて言ったか分かりませんが、柏木さんが巻き込まれる必要は……不幸になって貰う必要なんかありません。母の独断です。育ったのは私の勝手です。ですから、東京に戻ったら忘れて頂きたいのです。今後一切、関わらないほうが、柏木さんのためだと、思うんです」

 膝のうえの拳が震えている。

 言うだけ、言った。

 ため息までも震える。


「――ふ」


 ふ?


「はははは」

 面食らった。

 涙する場面はあれど、大学教授らしい言動を貫いていた、柏木慎一郎が、高い声で笑っている。

「ど、どうしたんですか。私、なにか、変なことでも……」

「ああ、すまない」

 目尻に溜まる涙を拭うけれど、どこがツボに入ったのだろう。

「驚いてしまってね。どんなことを言われるのか想像していたが、予想外だったよ」

 お腹を押さえていた柏木慎一郎は、姿勢を正す。

「……恨まれることがあれど心配されるとは、まったく……そういうところは美雪さんにそっくりだ」

「恨む。私が柏木さんをですか」

 全く理解できない。

「十八年間放ったらかしにしていた男がのこのこ父親面をして現われた。きみは、憤りや腹立ちを感じないのかね。……美雪さんは言及を避けたが、美雪さんが木島家を離れたのは、僕が関係しているのだろう。木島義男さんが僕を知っていた時点で、その可能性は、高い。ならば、僕はきみたちの東京にあるはずの生活を奪った、そういう存在だ。僕はこれまできみたちの存在も苦悩も知らず生きてきた。きみは、僕が、憎く思えないのかね」

「憎いだなんて、とんでもない……」

「僕がきみの立場ならば、怒り狂う」

「私、まだ、……信じられないんです。著書でしか知らなかった柏木慎一郎と、血の繋がりがあるだなんて。父には申し訳ないんですが、嬉しかったんです」

 日本では稀有な、フロイト派の臨床心理士。

 憧れていた存在と話せているのに、ふわふわとした夢見心地だった。

「ひとつ、誤解があるようだから、言っておこう」

 彼の指を見るたびに似ていると私は認識する。

「僕の家庭のことは僕の問題であって、幸か不幸かを決めるのは、僕自身だ」

 すとん、と突き放された気がした。

 語調は穏やかであれど、

 僕ときみとは違う人間なのだと。

「――家庭というのは、美雪さんの家庭も含めてだ」

 私は柏木慎一郎の顔色を窺った。

 彼は、瞳で誠実を語れるひとだった。

「きみのこともこれから見届けて行きたい。きみにとって迷惑であったとしても、僕は、そうしたい。それが、きみという存在に『責任』を持つことだと僕は考えている」

「柏木さん……」

 クレパスへと落ちかけたこころを、柏木慎一郎は丁寧に拾い上げた。

「私からも一つ、訊いても構いませんか」

 手短に頷く。

「柏木さんは、母のことを愛していたのですか」

「きみにはそれを聞く権利があるな」

 あぐらを崩し正座に座り直す。柏木慎一郎がそうするから私も習った。

「答えるまえに、昔話をしても構わないかい」

 アイコンタクトで返す。

 真似したくなる欲求を私は体現している。

「幻滅するかもしれないよ」

「構いません」

「僕は、以前に言った通り親も親戚もみな医者でね、比較的裕福な家庭に育った。買い与えられるものも不自由せず。そこそこの勉強で成績が取れるから、あんまり努力というものをしたことが無かった。……困ったひとがいれば助けに入る。学校でも家のなかでも優等生を演じている節があったな。貸したものやお金が返ってこなくてもあんまり、気にしなかった。また親から貰えばいいのだからね。ただし、同じ相手には二度と貸さないようにした、その程度のプライドを持っていた。一言で纏めれば、世間知らずのぼんぼん、だった」

 私は正座をこっそり女の子座りに崩した。

「医学部を目指すにあたっては流石に家庭教師をつけて準備した。けども、入ってみれば、その程度のものかな、と思えるくらいで。両親が僕に外科医になって欲しい望みを持っていた。望みを叶えるのが息子である僕の勤めだと思っていた。……けども。こころの問題を探求したい、という欲求が湧いた。なぜなら、僕自身が、敷かれたレールをそのまま進むことに抵抗を感じ始めたからだ。兄も叔父も従兄弟も医者になった。……恩を仇で返す言い方になるけれど、工場で生産される部品に自分が思えてきたんだ。これは自分の人生なのだろう? とね。……読み始めたフロイトの書籍に僕はのめりこんだ。時代のはるか先をゆく、先駆者である彼に自分を重ねた。孤独を、重ねた。こんな自分を理解する人間がいなかろうとも、決めた道を進む強い意志に、勇気を、貰った。……ただね」

 柏木慎一郎は指先を見た。

 かつてメスを握ったであろう指を。

「すぐには変われなかった。みんながそうしているから。と、自分と似た人間に囲まれ、安心していたんだ。臨床心理が僕の望む道だというのが明白だったが、……他方、なにもせずとも僕の人生が決まっていると諦めてもいた。付属のマスターに進むことも、卒業後の勤務先に結婚相手までも。一変するのは、ある日、突然だった」

 私は生唾を飲み込んだ。

 いよいよ、彼の道と母の道が交錯する。

「大学で行われたシンポジウムに出席した。一般向けに開放されているとはいえ、僕を含めた出席者のかなりがその大学の学部生だった。彼女とは隣の席だった縁で会話をしたのだが、……驚いたよ。きみのお母さんは、高校を卒業してすぐに上京して働き、親に仕送りをし、仕事の合間を塗って心理学を勉強していた。

 ……頭を鈍器で殴られた気分だった。自分がいかに、なにも考えてこないで、与えられる人生を過ごしていたかを痛感した」

 母もかつて、心理学を志していたのだろうか。

「僕の方向転換に家中が大騒ぎだった」柏木慎一郎は結論を先に言う。「僕は、……籠のなかの鳥よりも世間を知らなかった。……彼女が登場したことで僕が変わったのだと、それは事実だったが、どうやって自分たちのことと自分の夢を周囲の人間に認めてもらうかに、頭が働かなかった。……外科医以外は医者でないと見なす家系だからね。反対される程に僕は頑なに貫こうとした。それは同時に、説得する手段に思い至らない、愚かさだった。だからね、一度は医者になろうと思った。……一旦向こうの要求を叶えてから自分の夢を叶えればいい、と。つまり。

 外科医になる代わりに、結婚相手は好きな女性を選ばせること。

 夢は回り道できても、好きな相手を選ぶことに回り道などできない」

 柏木慎一郎の育った環境がどんなものだったか、私には想像もつかない。

 交換条件を突きつけねば、自分の望みが叶えられないだなんて。

「僕の決断を気に病んだのは、美雪さんだった」右の障子窓のほうから照らす日光が、背後から柏木慎一郎の苦渋を暴く。「僕が米国に渡航する前日に、彼女は僕に別れを告げた。……東京を離れることを明かし、自分のぶんも夢を追って欲しいと告げ、僕の前から姿を消した」

 薬指に触れるのは無意識にだろうか。

「皮肉にもその日に、僕は、指輪を渡すつもりだった。

 待っていて欲しい、と。

 ……質問に答えると、ああ、愛していた。

 彼女の本心を見抜けず、悲劇の男とばかりに酔いしれていた、過去の自分を殴り倒してやりたいね」

「……柏木さんが結婚された相手というのは」

「親が決めた相手だ。……僕には勿体無いくらいのひとだ」

 憤りから対極の情感に満ちる。

 その瞳を見て悟る。

 柏木慎一郎と母が復縁する可能性が無いことを。

「東京に帰ったら、家内に話すつもりだ」柏木慎一郎は手首のほうを見る。袖から覗く、黒い文字盤のロレックスに。

「いつ、戻られるんですか」

「今夜だ」

「今夜!」

 大声を出したせいか、曖昧に柏木慎一郎が笑う。「すまないね。……急に邪魔したうえに、こんな短時間しかいられなくて」

「いえ……」

 子どものように拗ねたり甘えたりしてみたかった。

 けども、そんな顔をされては、なにも言えなくなる。

「真咲。柏木さん。……昼食の準備ができましたから」

 入り口から母が顔を覗かせた。ノックをしていないが「はい」と私は答えた。

「いえ。僕はこれで失礼を」

 腰を浮かし、この場を辞しかけた柏木慎一郎の腕を、掴んで引き留めた。「柏木さん。こちらにいらしたのは初めてですか」

「そうだよ」

「緑川で食べるお魚は絶品ですよ。向こうで取れるものとは鮮度が違うんですから」

 私たちを先導する母の目が真っ赤だった。

 どこからか分からないが、聞いていたのだろう。

 午後の一時半。

 大きいけれども五人ではやや手狭なダイニングテーブルを囲んで頂く遅めの昼食は、少なめの海鮮丼に、私のちょっと苦手なウニが豪勢に乗っていて、罪滅ぼしのつもりかハンバーグまで出されて。

 寡黙な祖父が柏木慎一郎にしきりに話しかけていて、

 答える柏木慎一郎の関節の太い指が優雅に動き、指輪が鈍くひかり、袖から突き出た手首の骨が覗いて。

 どれもが胸をいっぱいにさせ、お腹を鳴らしたはずの私は食事がほとんど喉を通らなかった。

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