(1)
障子窓を通り越して入り来る眩しさに目を覚ました。
日の出が早まり、日の高い時間が長くなる。人間は冬から春へ流れ行く季節を体感し、温暖で過ごしやすい、快適な気候を待ち望む。
暑いなら暑いと言い、寒いなら寒いと不平を漏らす。私もその一人だが――
この町に来てからは、吹きすさぶ冬も悪くない。
去り際はどんなものであれ恋しく感じられるものだし、
自転車を漕いで桜井家に通いつめた日々を思うならば。
私は再び、雪が降るのが珍しい地域へ還る。
ベッドから出すと裸足の足が、うすら寒い。
けど窓際を彩るあの花たちはもっとだろう。
そう思い、いつまでもくるまっていたい名残惜しいベッドを後にする。
「寒いだろうから、おひさま浴びないとね」
障子を開き、ガラス窓越しの直射日光であたためてあげようと思った。窓に近づけば近づくほど冷気が増す。戸建は特に隙間風が強く、三月とはいえ、朝晩は冷える。
窓から顔を出すなんてのは、元住んでいた家やこれから引っ越す先ではおそらく出来ない。周りの目が気になるから、けどもここは過疎地緑川だ。雀の鳴く、目覚めの時間。町が始動するまえの、日常的な光景が待ち構えている――
はずが。
「あれ」
まぶたをこすった。
差し向かいの民宿、車通りのない国道、それより手前の民家。ここまでは変わり映えしないのだが、
……
夢でも見ているのかもしれない。
休みじゅう人っ子ひとり通らないこの国道一本裏の道筋に。
だって、あのひとが、こんな辺鄙なところに来るなんて、起こり得ない。
深層心理において和貴のことが相当堪えているのかもしれない。
お向かいの民家の前に立つ彼はあろうことか――
微笑み返してくるではないか。
椅子に膝を乗せ、勉強机に身を乗り出してみた。凝視してもその幻覚は消えない。
頬を、つねった。
痛いだけだ。
夢でも痛覚は生じうる。しかしならばここで目を覚ますのが夢というもの。ならば、変だ。幻覚。……幽霊。でもなければ、なんなのだろう。
相当に私が挙動不審だったのか。
幻覚は、噴きだした。
お腹を押さえ、やや前かがみに、……不可思議と和貴の笑い方に似ている。
そもそもが、髪の色の明るさも。
その明るい髪が揺れる。笑う彼に合わせ。紫がかった淡い、品のあるグレーのスーツに、使い込んだ皮のかばんと、先の尖った革靴を合わせ、講演を行った場面と似たいでたちをしている。
「か……」
「柏木慎一郎っ!?」
窓を開くなり、入り来る風の冷たさを浴びた。
微笑みをそのままに柏木慎一郎がうちの玄関先に歩み寄ってくる。
「おはよう。……危ないから、あまり顔は出さないで。万一、きみが落ちでもしてしまったら僕は、きみのお母さんに申し訳が立たない」
「ど、どうして、ここに、いらっしゃるんですか」
声が裏返り、上手く出ない。
慌てて思考の働かないこちらに比べ、悠然と柏木慎一郎は、ジュリエットを見上げるロミオさながらにこちらを見上げ、
「きみに、会いに来た」
柔和な笑みとともに断言した。
私は、倒すかもしれない花瓶を横にずらしながら、信じられない気持ちに駆られた。
「きみの、お母さんにもね……」
流し目で一方を見やる。
「慎一郎さん!」
その階下の玄関から、図ったようなタイミングで母が飛び出した。
後ろ姿でも動揺のほどは見て取れる。そもそもが、声が驚いていた。
弾む胸を押さえ、私は二人を眺め見る。
こうして並ぶと、月日が二人をいかに隔てていたのかがよく分かる。
かたや、国立大学の助教授で、
かたや、一介の主婦だ。使い込んだ母のエプロンが、使い込んだ柏木慎一郎の持ち物に比べて、みずぼらしく感じられる。要するに、アンティークと古着の差異だ。
と感じる自分の精神がこの場でもっともみずぼらしいのだと思う。
自分を育てた母をみずぼらしい、とみなす発想自体が。
二階からだと二人の声が聞き取れず、でも二言三言母と会話をし、柏木慎一郎は、どうやら一階のお店のほうに通される。
私に気づいた母が、中に入ってなさい、と怒ったように伝える。柏木慎一郎は入る前にゆったり、微笑んで私を眺めた。
その笑みになにか、ユニークなものでも目にした感じがあったのだが、
――窓を閉めてみて、理解した。
ガラス窓越しでも分かる、寝癖のついた頭にピンクの、パジャマ姿だった。
顔も洗っておらず歯も磨いていない。
母をどうこう言う以前に、自分の身なりを整えなければならなかった。
これ以上不可能なスピードで身支度を整え、けたたましい足音で階段を降りる。十字に折れ、お店に、つまりは表玄関に通じる廊下を駆ける。うるさいと祖父母に諌められると思ったが、
「やあ。久しぶりだね」
この田舎の民家に、洗練された彼はなんと似合わないのだろう。
開かれた戸を背にした彼は、後光のためか尚更輝かしく見えた。
あるいは、ひかりをも味方につける存在なのか。
のんきな口調で手を挙げるのだが、どう見ても柏木慎一郎、そのひとだ。
「お久しぶり、です……」
久しぶりもなにも。
一度会ったのが最初で最後だと思い込んでいた。
嘘みたいだ。
柏木慎一郎が、ぎしぎし言ううちの廊下を、歩いている……。
便所スリッパで。
「どうぞ、こちらへ」私を背にする母はダイニングへ柏木慎一郎を促し、「真咲。あんたは部屋に入っておりなさい」ときつい目で見る。
「いや」
入りかけた彼が視線をよこし、それを遮った。
「良ければ、彼女にも居てもらいたいのだが」
母はなにも言わなかった。
入り口から遠い上座に柏木慎一郎をかけさせ、差し向かいに母が座る。私は、母の隣に。
柏木慎一郎を除けば私たちの座る位置が日頃と変わらない。
身を屈め、かばんを床に置き、柏木慎一郎はテーブルのうえに両指を組み合わせる。
それを見て、私は出しかけた手を引っ込めた。
「こちらには、出張かなにかでいらっしゃったのですか」
母の声に険が含まれている。表情はさほどでもないが。
「なに、所用でね」
プライベートなのだろうか。
スーツの上下だけれども眼鏡が学校とは違う。シルバーフレームだがよく見ればハーフリム。レンズの下部分がフレームに囲まれていないタイプの、洒落たデザインが少々意外で、おしゃれだった。袖口からさりげなく覗くカフスボタンも、遠目では薄い水色に見えた、白とブルーのピンストライプのワイシャツも。
「地元に戻っていたんだね。知らなかったよ」
「ええ。一年半前に。ですが、どうして。……柏木さんは、木島をご存知なのですか」
「邪魔するわ」
理知的なレンズ越しの眼差しが私の左側に走る。
彼が回答するのを、廊下からやってきた祖母が割って入ったかたちだ。
……使い古した、よりによって母と色違いの薄グリーンのエプロンなんかして。そういえば、母は、外している。
茶を振る舞われ柏木慎一郎は頭を下げた。「朝早くからお邪魔してすみません」
「なーんも」これは田舎のひとの口癖だ。「遠いところをよう来てくださいました」
柏木慎一郎の左の、窓とテーブルのあいだから回りこんで、祖母は、私と母にお茶を出す。母が目前に置かれると私のほうに回した。続いて置かれた湯のみを自分側に寄せる。……一刻も早く祖母に出ていって欲しい母の気持ちが見えた気がした。その母の意を汲んでか、
私の後ろを通り最初の位置に戻った祖母は、柏木慎一郎に向けて、秘書嬢のごとく、一礼する。
「狭いところですが、どうぞ、ゆっくりしてってくだされ」
「ありがとうございます」
「お、ばあちゃん」
「なんやの」
「ここに、居てくれないの……?」
心細さが声に出た。
私は母とは違い、
この場に祖母が居るものと思っていた。
それがふさわしいと思っていた。
だが祖母は長い袖を気にしそれを捲り、「昼からお客さん入っとるからねえ」平然と言う。「……美雪はゆっくりしとって構わんよ。あのくらいやったら二人で回せるさけ。ほぅら、親子水入らずで話したいこともあるやろから」
この土地のひとに一を訊くと五は返ってくる。
珍しく言葉少ない祖母だったが、いまのは十以上だ。
私は柏木慎一郎の顔色を見た。
青ざめて見えた。動揺を抑えるように、口元を押さえていた。
やっぱり、とその顔に書いてある。
「時間あったらおじいちゃん連れてくるわ。三人で朝市でも見てきたらどうかねえ。美雪。柏木さんに緑川を案内して差し上げなさい」
言うだけ言い祖母は舞台を去る。
失言をしたことには気づかずに。
私は、再び柏木慎一郎を見た。
熱い茶など手をつけられるはずもない。
理解はしたのだが解釈に時間がかかるのか、情動に思考が追いつかないのか。
教授のときとは違った、動揺を私に晒していた。
どうしてだか、それが、初めて私に晒した、
父親らしい、姿だった。
天を仰ぎ、指輪をはめた手で一旦顔を覆う。すこしの間ののち柏木慎一郎は意を決し、うちの母に向き直った。
「美雪さん」
母は、柏木慎一郎の変化に気づいていたが、理由まで読解していない。
その母に、
「彼女は、僕の子、なんだね」
理解した真実を突きつけた。
動揺が、母に、乗り移る。
十八年強隠し続けてきた事実が、その年数分隠し続けてきた相手に、暴露されるのだから。
絶句する母に、柏木慎一郎が畳み掛ける。
「親子水入らずと仰ったのはきみのお母さんだよ。僕が居るのにも関わらず」
あっ、と小さく母が呻いた。
首を振り、まだ熱い湯のみに手をやる。「母は、……年だから、言い違えたのよ」窓の外を見る不自然な挙動。愚鈍な私にも明らかなのだから、柏木慎一郎の眼ならば、絶対だ。
彼は、その方面のプロフェッショナルなのだから。
ちょっとした言い違いやどもり、挙動、……目配せ。閉じた口内に潜む舌の微細な動き。まつげの揺れからも思考を読み取れる。閉会を宣言します、と開会に先立ち高らかに宣言した議長の話は有名だが、フロイトの挙げたその分かりやすい例でなくとも、潜伏する欲動の現れる瞬間を、私たちはしばし目撃する。
「彼女に出会ったのは、去年の夏だ」
柏木慎一郎の声からは、すでに、動揺が消え去っている。
「オープンキャンパスに参加した学生のうちのひとりだ。それだけならば、もしかしたら、僕の記憶に留まらなかったやもしれない」
テーブルのうえに指を組み合わせ、私と母を順に見据えるの挙動は、カウンセリングを受けている錯覚を私に与えた。落ち着いた声といい。
「しかしね、質疑の時間に真っ先に挙手をした。そして、その後学内の公園で見かけた。……思い出さないわけがないだろう?」
柏木慎一郎は、過去の恋人に語りかけている。
「二十年の時を経て、きみがタイムスリップしてきたかのようだったよ」微笑みを維持したまま、やや近すぎた湯のみを置き直す。「……とはいえ、それだけできみと彼女が繋がるとは到底考えない」
「ならどうして」
「見たんだ。駅前できみが彼女と居るのを」
結論を急かす母に対し、あくまで柏木慎一郎は冷静だ。
一方、私は心臓が早鐘を打つのを止められない。熱茶など喉を通るはずもない。
「改札から離れ、向き合うきみたちを見た。親子だと直感した。深刻に話していたから気づかなかっただろうけれど、僕は、きみの傍を通ったんだんだよ」
いまは私に語りかけている。
「柏木慎一郎が責任がある――きみの声が聞こえた。確かめようとしたが、改札のなかへ消えた。追いかければ良かったのだが、……すまない。生憎、カウンセリングの予約が入っていてね」
クライエントとの約束は絶対だ。
なにを置いても優先される。
「美雪さんがもし、東京で暮らしているのならば、……僕の出る幕は無いと思っていた。仮に、きみが入学し、僕が名乗りでるとしたら、多大な迷惑をかけることになる。だが、」
私は受験しなかった。センター試験の成績が悪く。
不合格に等しいそれに柏木慎一郎は触れなかった。
「他にも、気になる点があった。きみの制服がこの辺りの、――大学の近辺の制服で無いことも。苗字が都倉姓というのも。……そこで、僕は初めて分かったのだよ。美雪さんの出身が石川県という以外、僕はなにも知らない。知らないで生きてこれたのだと。
『責任』がなにを意味するのか。きみの声が耳について離れなかった。知る手がかりは、……美雪さんが勤めていたという、木島商事を頼る以外に方法が無かった」
「まあ」母は頬を押さえた。少女みたく。「やっぱり、行ったのね、木島の宅へ。どうしましょう」
「きみと僕に共通の知り合いでもいれば話は違ったのだが」ちらり、柏木慎一郎は母を一瞥する。「町田で学会があったのでね、その前に立ち寄ったんだ。都倉さんをご存知ありませんかと尋ねたところ、……『知りません』の一点張りだった」
茶を静かに飲む柏木慎一郎に対し、母の顔色は蒼白だ。
「なんてことをしてくれたの、柏木さん」
「会社はお休みのようだったから母屋に回ったんだが、……まずかったかね」
知るはずもない。
木島と血の繋がらない子を産んで、母が二十年来冷遇されてきたことなど。
「そうか」母の顔色からなにかを読み取ったようだ。テーブルに手をつき、
「すまない」
深々と頭を下げた。
「い、え。……宅の事情です。柏木さんには関係がありませんから」
「どうやらブラックリストに入ったようだ」なにが可笑しいのか、柏木慎一郎は笑う。「インターホン越しに話しかけても、電話をかけてみても僕の名を出せば切られてしまう。梨の礫だったが、
誰が、きみたちのことを教えてくれたのか――分かるかい」
あのときも、いまも。
答えを求める私は無言で首を振る。
母娘二人の反応を確かめ、やがて、柏木慎一郎は告げた。
「木島義男さんだよ」
意外過ぎる人物に、目を見張る。
「父が……」
「玄関先から立ち去る僕を、追ってきたんだろう。息を切らしてね……。僕よりも慌てていた。木島義男さんが、教えてくれたんだ。きみたちの住所と連絡先を」
お父さん……。
胸が潰されるようで、切なく、押さえた。
「それにしてもね。僕は木島さんに名刺をお渡しし、素性を明らかにした。とはいえ、突然に現われた見ず知らずの者に対して、二人の居所を喜んで明かすだろうか。娘を持つ父親なら、男性の訪問者に特に過敏だ。……僕が訪問者を装い嘘をつくことなど、いくらでもできたのだからね。つまりは、……思えば。木島義男さんは僕が誰なのかを知っていたと見当がつくのだが、違うだろうか」
母が必死で首を振るのも、意味を成さない。
肯定しているように見えてならない。
詳しくはこちらも訊かなかったのだけれど、と前置くと、熱茶を柏木慎一郎は一口口に含む。この場で唯一、お茶を口にしている。「木島さんと美雪さんが連れ添ったのは分かった。ならば、木島姓を名乗らないきみも美雪さんの郷里にいるのだと、確信した。
……きみを思うと、ある予感が止められなかった」
身を乗り出す、柏木慎一郎は、
「手を、――見せてはくれないか」
穏やかに語りかける。
母が血相を変える。「真咲っ」
私は母に従わず、
隠していた両の手を、父親に、晒した。
柏木慎一郎の手が、私に伸びてくる。
両の手を、震える、冷たさとあたたかさが介在するその皮膚で、捉えられている。
手のひらをうえにしていたが、手の甲側に返し、確かめる。
「ああ……」
両の手を包まれ、柏木慎一郎が顔を寄せる。
「どうしたって、似ている。まるで、同じ、」
言い切れず嗚咽する。
熱い彼の激情と血脈が、肌を通して私に、雪崩れ込んでくる。
「どうして、僕は、嘘だと思わなかった、んだ。……夢を追って欲しいと、離れた、美、雪、さんのことを。……とんだ、馬鹿だ。……隠し続けて、育ててくれたと、言うのに」
「泣か、ないで。泣かないでください、柏木さん」
私の震えよりも彼の震えが大きくなる。
隣の気丈な母を頼る、はずが。
もはや化粧総崩れで泣いている。
「ごめん、なさい。……柏木さん」
母の言葉で、私の腕に雫が落ちる。
それが柏木慎一郎のものなのか、私のものなのか、もはや分からなかった。
柏木慎一郎が首を振る。
髪に隠れて見えないが前髪が濡れている。
「泣か、ないで、ください。柏木さん。……泣くような事態じゃ、全然、ないんです」私が言うのは筋違いかもしれないけれど。
苦労したのは母だから、だが母は、口に消える状況には無い。
擦り切れるまで繰り返した彼の声。
思い返して涙した彼の存在。
笑顔。
穏やかな語りかけ。
理解してくれる、姿勢そのものが。
目の前に存在する。
「あ、会えるだけで、十分、なんです。……二度と、会えないと思って、いました。大学、落ちちゃいましたし。……あ、ほかの大学には受かりました」
笑おうとしても、壊れた機械みたく、笑えない。
柏木慎一郎の顔はあがらない。
「想像されてるより全然ハッピーなんです。だから、……悲しまないで、ください。あんまり悲しんでばかりいると、私の存在が、悲しいことに、なってしまいます、から」
「真咲」
頭の後ろから抱かれ、
いつかぶりに母の胸で思い切り泣いた。
両手を、柏木慎一郎に守られながら。