(3)
三方の壁に張られた赤白の幕と、在校生徒に保護者用に並べられた数百はあろうパイプ椅子はそのままだったが、ステージ上の弾幕が剥がされ代わりに赤と黒の幕が張られ、バンドセットも準備万端。どうやらすぐにでもライブが始められそうな展開。
いくら宮本先生のホームルームが長くとも(途中で打ち切られはしたが)、式の終了後一時間と経っていない。
仕事の速さに舌を巻いた。
しかし結局パイプ椅子をどかして行うのか、腕章をつけた生徒会の面々プラス有志のひとびとが慌ただしく片付けにかかろうとしているところで。見かねて手伝うひと、気に留めずお喋りをするひと、……とこういうところで人間の言動が様々に別れる。田舎の純朴な高校生のイメージにふさわしく、親御さんと談笑する生徒もあちこちに見受けられる。
ところで、
「そろそろ、離してくれる」
首根っこを掴まれて体育館にたどり着いたのはおそらく私ひとりだ。
「うん。なにが」
「とぼけないでよ。ブレザー伸びちゃう」
「ああ? ごめんごめん」
屈託なく笑う彼は、絶対わざとやっている。そういえば、
「前に。坂田くんにも同じことされたなあ」
「って、あいつになにされたの。いつ」
歩く私の前に和貴が立ちふさがり、ステージの赤と黒の弾幕が隠れる。
「合格したときに、こう、引っ張る感じで。……だから、似てるなって思ったの」
「一緒にしないで欲しいぜ」
同族嫌悪なる単語が浮かんだが、黙っておく。「あ」なにか目に留まったようだった。彼が顎で指す。「おばさん発見。……行く?」
紗優のお母さんかと思った。
うちの、母だった。
見違えたものだった。
ここぞという場面でのいっちょうらのグレーのスーツを着込んで、……化粧も普段よりもきっちりと、唇に鮮やかなルージュを引いて、髪も結いあげたフォーマルな装いだった。
いつも、くすんだエプロンに作業しやすい服装だっただけに違いが際立つ。
子どもの卒業式に顔を出す親は珍しく無いけれど、でも、高校生ともなると流石に減る。
傍らに祖父母が不在。単身やってきた母と言葉を交わす者はいない。……高校の二年という半端な時期に娘とやってきた、かつ、店のことで忙しい母は、保護者間の付き合いを深められる暇など無かった。
だから、来なくていいって言ったのに。
言葉通りに壁の花と化す母は、ステージのほうを見つめ、微笑んでいるようにも思えた。
「行くよ、真咲さん」
「……うん」
出遅れた私にふっと笑いかける和貴を見て、
嬉しさを感じつつ、ついていく、つもりが、
背中に視線を浴びた。
やや怖気を覚えさせる、それは、後ろにした体育館の出入口のほうからだった。
入り来るひかりに紛れ、姿がよく見えなかったけど、たぶん、彼だ。
彼が、
こっちに来るとなんとなく分かっていたが、私は、
好きなひとについていくのを選んだ。
無視に、近かった。
汚い人間なのかな、なんて思う。
避けたくなる自分に気がつくと。
でもそれが自分の内部から生まれる自然発生的なものなのだから、どうしようも、ない。
「おばさん、綺麗です……すごく」
「ありがとう桜井くん」
和貴がナチュラルにお世辞を言うのはさておいて。「お母さん。卒業式なんて出てたの? もう終わっちゃってるよ」
「ちゃあんと最初から出たわいね。大事な一人娘の晴れ姿やもん、見逃せんわ」
「そういうこと、……言わないでよ」和貴をまともに見れない。気恥ずかしい。「べっつに普段と着てるものもなんにも変わんないんだし。店、抜け出して大丈夫なの」
「ちょっとくらいなら大丈夫やわいね。ほんに、心配性なんやから、この子は……」
「強がってますが、本当は嬉しいんだよね、真咲さんは。顔に出てる」
いきなり突っ込まれ目を剥いた。
「しかも、感傷的になって泣いちゃった?」
「泣いてないってば」
横で鷹揚に微笑んでいる母を見て尚更、さっきとは別種の気恥ずかしさに襲われた。からかい目線の和貴に私は別の質問を向けた。「おじいさんは?」
「あの放蕩じーさんなら、いま福岡」
「……あ」本当に旅行が趣味だったんだ、ジョークじゃなく。
湯島天神と来れば次の目的地は、北野天満宮か、いよいよ総本宮たる太宰府天満宮だろうか。
世を憂い島流しにあった不遇の文人が、雷神として畏れられたのちに天神様と崇められ奉られ、受験生を主とするひとびとが信仰するのだから、人生分からないものだ。
もっとも、のちに偉人と称される者は時代の二歩三歩先をゆくものだから、当時の人間から疎ましがられるか奇異の眼差しで傍観されるのが普通だ。
理解など遠く及ばないところに天才は居る。
彼は、……菅原道真はじめ当時の人間に随分と同情的だった。
人民に兵役が課せられたのを重すぎると言い、「泣きたくなる時代の到来だ」とまで語ったのだ。
情にもろいのか厚いのかいまだ掴めないが、そういったものを排除するかに見える、孤高を感じさせる彼が。
現代を生きるひとよりも、過去のひとびとに興味があるのかもしれない。
「俺のことでも考えているのか」
うんそうです、
と首肯しかけた、だがすんでのところで堪えた。
「ま、キ……」
「驚くのを見る限り、図星のようだな」
不遜に鼻を鳴らす彼に、返す言葉が見つからない。右往左往したままに和貴と母を探した。
彼の後ろに見える、おばさん――紗優のお母さんのそばで談笑している。
となると、
「真咲ぃー」
お約束のタックルを受けた。
「ああ、ひ、さしぶりだね、怜生くん……」
ぐりぐりと頭を押し付けてくるのも変わらず。
「背ぇ伸びたな。怜生」
「うーん」と曖昧に答える怜生くん。
マキとの身長差を着にしているのか。伸びたとはいっても私より低い。
「紗優には。会った?」私は彼を離しつつ訊く。
ちょっと悲しげに項垂れる。「見つからんかった」
「あっちに居んぞ」
親指で指す。
人ごみに隠れて見えないのだが、おそらく、前方のほう。
彼氏のステージなら最前列で見たいものだろう。
怜生くんもマキも視力は相当のものなのか、怜生くんはまっすぐ駆け出して行った。
「俺らも行くか」
「うん」
「と、そのまえに。おまえのお母さんに、挨拶しとかねえとな」
「え、と」彼の言葉遣いなら、『おばさん』か『おまえのおふくろさん』と言う場面じゃないだろうか。「挨拶。なんて?」
相変わらず早足だが私のペースを合わせる彼に追いついて見あげた。
彼は、無表情で振り返り、さも当たり前のことのように言う。
「そいつぁ内緒だ」
当たり前でないことを。