(3)
「十一時過ぎてまうかもしらんわ。もし遅なってもさき、休んでおって。そんな、……二泊もせんでいいわいね、店もあるげし。お店のほうは大丈夫なが。なんか変わったことは……うん。真咲のことなら帰ったら話すわ。電話口やとよう伝わらんさけ、うん、ほんならね。ああ保証人が要るからておじいちゃんにゆうといて。うんほんなら。はい。はいはい……」
テレホンカードが吐き出される。
饒舌な祖母を振り切ったかに見えた母が「あ」と口を押さえる。
「どしたの」
「切ってしもた。真咲、おばあちゃんと話したかったやろか……」
「いいよ。どうせ半日もしないで会えるんだから」
「まあ、そやけど」手早く財布をショルダーバッグに仕舞い、腕時計を確かめる。文字盤を手の内側にしている。「四時の便なら間に合うやろ。そろそろ行こか」
「とらやの羊羹忘れないようにね」
「あ」
次になにを言うのかが私には分かる。
「忘れとった……」
ちょっと抜けてる母に苦笑いしつつ切符売り場に向かう。
私たちは十時にホテルのチェックアウトを済ませ、その足で田中不動産に直行し、大家さんへの挨拶も終えた。
私たちが東京で成すべきことは一見全て終わったかに思える。
しかし、
「……どしたが」
私は幼子がするように母の袖を引いた。
並ぶ列から引っ張り出す。
なにを言うのかを待っている。
でも母には予想もつかないことを、
「ここから東京心理大学には十分で行ける。……会い、たくないの。柏木慎一郎に」
彼の名を口にするだけで震える。
私の名に由来する、彼の存在を。
「カウンセリングは平日が主で、土日の午前中なら、大学のほうに居ることも多いって、言ってた。すぐ行ける距離なんだから、……行ってみるだけでも、ねえ」
「真咲」
恐る恐る母を窺い見る。
動じない母の顔色。
秘め続けた願いを明かした結果が、それだ。
無力感に苛まれながらも言葉を探した。
「た。田中のおじさんの顔、見たでしょう。あれからすぐに奥さんにも真知子ちゃんにも連絡取って、……三人でお食事するって。嬉しそうに。おじさんが、話してたじゃない。それが、どうしてお母さんにはできないの……!」
「真咲」
母が私をひと少ない壁のほうへと促す。
沸々と沸き立つ頭のなかで、ああ、あんなところに居ちゃ邪魔だ……と悟った。
肩を支えられ、壁に背を触れさす。
立ちはだかる母の後ろを、買い物帰りの母娘が通り過ぎる。エコバッグを肩から下げ今日のおかずはどうしようハンバーグがいいなと嬉々と話している。その光景がまた、私を感傷的な気持ちにさせた。
「たった一言で田中のおじさんは動いた。なのに、お母さんは、」
「時間が経ちすぎとる」
「時間を理由にするの」
「それだけやない。お母さんとはもう、……別々の道を歩んでおるの。あのひとの家庭に要らんさざ波を立てるつもりなんか、無いんよ」
激しい脈が、一拍を打つ。
「――知って、いたの」
ずっと俯いていた私はようやくして顔を起こす。
母は思いのほか冷静だった。
既知だと母の両の目が語るも、私は母の言葉を待った。
「帰国後すぐに結婚したって……人づてに聞いたげ。やから、……いまさら姿を現すつもりも無い」
「お母さんは、そうでも」喉が引き攣り、泣いている声色になってしまう。「私という存在に、柏木慎一郎は責任があるんだよ。そう、思わない?」
「お母さんがあのひとの意志を無視して決めたことや。……確認もせんでな。すっと、ある日突然、なにも言わんで姿を消したんよ。きっと、お母さんのことを恨んでおることやろう。そんでももう、過去の話や。いまさら掘り返してもどうにもならん。あんたは、お母さんが育ててきた子ながよ」
決意の固い、頑固な母がこの目に滲んで見えた。
説得に導くなにをも私は持たない。
ただ会いたい、という、まっすぐな願望を除いて。
伝えたところで、変わらない。
私の頑固さは母譲りだった。本人の意志が伴わないなら、どうにもならない。
「……分かった。羽田、行こう」
流れ落ちる前に目の雫を拭い、実に手際よく二人分の切符を買う母に続き、改札に入った。教育の成果があったものだと喜べる気分でもなかった。
羽田に着くなり私たちは航空券を買い、うどんを昼食に頂いた。醤油どばどばの味付けがまさに関西人が嫌う関東風で、と気づく時点で味付けが関西寄りの向こうに馴染んでいたのだと悟る。そんなことを考えながら私はパソコン部の話をした。母は珍しくお店の話などを。母の一言はずばり、「醤油濃いぃわねこのおうどん」、だった。
田中不動産や東京絡みの話になると湿っぽくなりそうだから、暗黙のうちに互いが避けた。そういう気まずさを共有するという意味でも、味覚が似ているという意味でも、この間、母との結束が強まった気がする。
とらやの羊羹と母が言ったのは正解だった。
出発まで大幅に時間が余ろうとも、ソニプラに寄る気分でも、赤やピンクにハートで飾り付けられたお店に立ち寄るテンションなどもあがらず。
苦かったバレンタインを、彷彿する。
気持ちをぶつけず、八つ当たりしてしまったことを。
――悩んだら、寝るんよ。
と高校受験の際に、とある友だちが私に助言した。
とにかく、寝るんよ、と。
寝ていればそのうち答えが自然と見えてくる。
追い込みをかけた当時にはふさわしからぬアドバイスだったが、受験を終えた私は存分に従い、飛行機でもバスでも乗り換えたバスでも眠り続けた。かのフロイトは、夢のもとでひとびとは自分たちの欲求を充足する、と語ったが、今回は顔が浮腫んだばかりで、あまりにも眠りすぎてなんの夢を見たかを記憶しなかった。