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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十八章 お嬢さんには敵いませんなァ
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(2)

「一つだけ見てこれーって決めるんがは危ないぞ。二三件見てよーう比べるこっちゃ。ピンと来たら時期も時期なもんではよ決めたほうがいいと思うがなァ」

 ――恋愛と同じなのかもしれない。

 相手が売りだされもせず貸し出されてもいない違いと。

 ワンバイワンにならないかもしれない違いとを除けば。

 私がそんな不真面目な連想をする一方で母は至極真面目な面持ちでおじさんに尋ねる。「田中さん……は、ご出身は北陸でしょうか」

「埼玉県民なんですわ。大学だけ福井でなァ、家内とはそこで出会うたんです」

 以降の母とおじさんとの会話のあらましを聞き流し、うつりゆく滅多に見ない車窓からの景色を眺め――こちらのおじさんの奥様はどちらにおられるのだろう、と疑問を持った。

 緑川で自営業を営む場合は必ず夫婦が共に、大概は父方の親との二世代で切り盛りをする。

 ふとん屋、酒屋、みやげ物屋、文房具屋、ミシン屋――過疎まっただ中の緑川ですら様々なタイプの生業が成り立つが、店を構え、家族を養い、子を育てるのは、つまりそういうことなのだ。一家総出で働く必要が出てくる。川島くんみたく家の手伝いをするのはレアケースではない。私はレアケースだ。

 だがおじさんの不動産屋にはあの事務員さんしかいなかった。

 親子とは考えにくい。ましてや夫婦となど。この手の五十代前後の男性は家内のことを「おい」「おまえ」と呼び娘のことは名前で呼び捨てだ。

 私も『真咲』呼ばわりだった。……あんまり呼ばれることは無かった。

『木島義男』とはなんら関係しない私の名前。ビューティフルスノウたる母の名前にもだ。男の子であればお父さんから一字を継ぐなんて場合があるけれど、私は私の名の由来を知らない。

 真実の真に、花を咲かせるの咲、です――と字面を訊かれるたびに母はそう明かした。名前負けで恥ずかしいけれど便利だから私もその言い回しを用いた。だから、電話口で男の子に間違われることが無かった。年賀状で漢字を間違われることなんかもだ。

 私と父に共通する一文字を探すとする。

 それはもしかしたら――

「着きましたえ。――わたしは鍵開けてきますんで、降りて、待っておってください」

 私は動悸が激しかった。

 そんな女々しいことを、するだろうか――。母が。

 センチメンタリズムとしか言いようが無い。

 父のことを、選んだ理由。添い遂げられなかった理由が、

 私には、分からない。

 母が母になる前の顔を知らない。私にとって母は最初っから母だった。自分みたく恋焦がれる時分があったのかを――どんな顔をして柏木慎一郎に焦がれていたのかを。いまは、やけに古めかしい、なんだか入り口を見ただけで敬遠したくなる、マンションだけれどアパートって呼称がふさわしく思える建物を眺め回す、私の母のことしか知らない。

「そんな――心配な顔せんでも、いいとこ見つかるわいね。もし見つからんでも、お母さんが、東京残って探したるわ」

 私が探して欲しいのはもっと違うこと。

 でもその疑問を押し留めて私は、

「残るんだったらお母さんじゃなくって私が残るよ。……こっちでいっぱい遊びたいもん」

「なぁーにをゆうとるが、あんたは」

 一人で探せるはずないやろがね、と言われ事実その通りだった。


 母がいるから心強いのだった。

 強がるのも憎まれ口を叩くのも、対象がいればこそ。

 私はこれから、対象のいない未来を切り開いていかなくては、ならない。


 まず目につくのは部屋の中心にどっしり据えられた棺桶サイズの箱だった。後付けなのだろうか。公園や多摩川の河川敷で見る簡易トイレがどうして学生向けマンションの一室などに……

 その箱のドアノブに手をかけた田中のおじさんは、笑顔でこちらを窺い見、

「ここがトイレなんですわ。ほら」

 げっ。

 確かにバス・トイレ別だけど……

 無いなあと母で目で会話をしつつ、あまり見ずに二軒目に突入する。


 結果、三軒目に決まった。

 おじさんは分かりやすいやり方を用いた。ちょっとここは、と抵抗を感じさせるところを見せておいて徐々にランクアップする。そうすると次に見るものが初めて見るものよりもよっぽど素晴らしい、ベスト・オブ・ザ・ベストの印象を残す。挙句、人気の物件ですから明日には埋まるかもと言われれば、時間の限られたこちらは尚更駆り立てられる。

 徒歩五分という立地ながら電車や車の音もせず。1Kで八畳の洋室、……私には十二分だった。

「わしにも娘がおりましてなァ。真知子ゆいますのや。この春で中学の二年になります」

 大家さんに挨拶を済ませ、穏便に契約が決まりそうなのも含めて安堵の様子でおじさんはシートベルトを締めた。

「埼玉やゆうても福井や石川に比べたらだいぶ都会なもんでしょう。ほんやけ、心配するお母さんの気持ちはよーう分かりますわ」身を乗り出し、エンジンをかける。かけてからベルトを閉めたほうが動きやすいのにと私は密かに思う。

「真知子が一人暮らしするぅゆうたらわたしゃ、気が気でのうなってまいますわ。なんでまた一緒に暮さんげか、つって泣いてまうかも分からん」

 悲観的な調子にたまらず母が笑いの息を漏らす。

「お母さん、笑い事やありませんよ。うちの大っ事な一人娘なんやさけ」

「うちも同じです」

「なら分かるやろ。宝物やいちゃけやーっつうて丹誠込めて育てたんに離れるんがはあっちゅう間や。ついこないだまで赤ん坊や思うとったがになァ……」

 親同士通じるところがあるのだろう。

 これはおじさんの独白などではなく、母など同調して瞳を潤ませている。

 にしてもよく喋るものだから冷や冷やする。マニュアルのハンドルさばきは手馴れているものの。私は赤信号を待って、口を開いた。「おじさん」

「うん、なんやね」

「真知子さんを大切に思っているのなら、奥様も大切にしてあげてください」

 これ真咲、と咎める母には無視を貫く。「別居、されているんですよね。奥様と娘さんと……」

 母のブレスは、さきほどの笑い混じりのものではなく驚きに依るもの。

「指輪をされていないのは、……奥様が出ていったのをお腹立ちになり衝動的に、でしょうか。……お店に奥様は居ませんでした。写真立ての写真が随分と古く、おじさんの新婚時代のものや、娘さんが幼い時分のものばかりで、近年のものは皆無だった。『なんでまた一緒に暮さんげか』、ということは、現在一緒に暮らしていないということですね」

 車は感情を持たず右折する。

 おじさんの表情は私に分からない。

「憶測でものを申して申し訳ありませんが、なにか、確信のようなものがあります。……仕事以外で車を使われるのですね。落ちてましたよ。これが」

 再度赤信号を待ち、座席と座席のあいだから身を乗り出し、ピンク色の名刺をおじさんに手渡した。

 シートにからだを戻すときに、左の歩道を歩く、父と子を見つけた。子供の性別は男だ、だが彼が持つのは女の子向けのピンク色の風船だ。子どもの集中力のなさを不安に思ってか、父親が風船を代わりに持とうとする。するなり子どもが飛びつく。そして――風船は空へと消えて行く。

 風船に執着したのは何歳までだったろう。

 大人になってもあの少年は風船を記憶しているのだろうか。

 おじさんは喋らなくなった、シャットダウンしたパソコンみたく。

「……娘さんを大切に思うのなら、もし――手遅れでないようでしたら、奥様と関係を修復することで、娘孝行して頂きたいですね」


 両親の不仲を嘆かない子どもはいませんから。


 ……別に母に向けたつもりは無かったが。

 私の泣き虫と方向音痴は、ついでに弱虫は母譲りか。


 しばらくの間ののち。


「お嬢さんには敵いませんなァ」

 場違いにけたたましい笑いのうずが起こった。


 笑われたことに私は無性に腹が立った。「笑いごとじゃないですよ」

 それでもおじさんは耳につく甲高い声で笑いつつ悠々とハンドルを切る。フロントミラーの目がまだ笑っている。「キャバクラでおねえさんがたと息抜きされるのも結構ですが、息抜きで大事なものを失っては意味がありません。ひとは、等しく年をとります。若さはいずれ失われます。奥様がいらっしゃらなければ、真知子さんが生まれることは無かったんですよ」

「わーったわーった。なァ、……ぼちぼち降りてくだされんかなァ。着きましたえ」

「あっ」

 車はすでに田中不動産前に到着していた。

「……ありがとうございました。娘が失礼を言い、申し訳ありません」

「とりあえずお母さんは鼻かんでくだされ」

 ティッシュ箱を差し出されることに縁のある母娘だ。

 と母を見ながら思う。

 店先の植木鉢にじょうろでミィちゃんが水をあげていた。私たちに気づき、微笑んで小さく会釈をする。おかえりなさいませ、とか細い声を聞いた。彼女のスライドしてくれるドアのあいだから入り、ガラス戸を通して空のいろを見れば、ホテルを出た頃には水彩画のような水色だったのが、灰色と藍色が混ざり合う微妙な色彩で、時間の経過を伝えてきた。

 日程が限られているため、その場で最低限必要な手続きを取り、重要な書類は署名捺印後改めてお送りすること、また翌日に大家さんにご挨拶に伺うことを約束して田中不動産を出た。

 ところが、

「お嬢さん」

 私は振り返る。

 見送りに出てきた田中のおじさんは、

「日付変わらんうちに家内に電話してみますわ」

 ひげを掻くのは照れ隠しに思えた。

 懐かしさも入り混じったような目線でテーブルの写真立てを捉えているから、二人の関係が修復可能であろうことを予感させた。

「そうですか。……ところでおじさん、明日が何の日だかご存知ですか」

「……なんやったっけ」心当たらない様相。

「社長。……毎年真知子ちゃんから頂いているじゃないですか」

 ここで割って入ったのがミィちゃんだった。デスクに座ったまま椅子をこちらに回転させる。

「わーっとる。……ほんでも、こっちから連絡するんがは気ぃ進まんのや。……催促しとるみたいやないかえ」

「社長は」

 彼女は、なにを見ているかを理解した。

 さっきまでおじさんが座っていたテーブルに突き進み、その写真立てを手に取る。「素直じゃないんですから。……写真なんかより実物にお伝えしてはいかがですか」

「あッ、ミィちゃん、そんなん」

 おじさんを素通りして私に手渡される。

 裏面に刻印された文字。

「『To my dearest MICHIKO. I love you forever. From AKIO. 3rd day of March 1983.』」

 こちらを向く写真もあったけれど、裏面だけでなにかが分かったのは、

 愛のメッセージが込められていたからこそ。

「……おじさん、キザなことしますね。結婚記念日のプレゼントですか?」


 まだ髪がああなる前の、若かりし頃のおじさんと奥様が写っていた。

 ウェディング姿とタキシードの。

 おそらくまだ真知子ちゃんは誕生していない。


「勘弁してぇや」

 ぺちん、とてかったおでこを叩くおじさんを見て、ミィちゃんと目を合わせて微笑みながら、田中不動産を後にした。

 スモークがかった空に淡い月が浮かんで見えた。

 底冷えはまだしなけれど油断すれば風邪を引きそうに寒空が震える。

 手袋をしてきてもよかった。手をこすり合わせながら私は母に声をかけた。

「――たまには、息抜きにワインでも飲んだら、お母さん」

「明日も早いげしそんなん駄目やわ」

 白い息を吐き母は否定したが、一杯だけこの夜は頂戴した。

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