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碧の青春【改訂版】  作者: 美凪ましろ
第二十八章 お嬢さんには敵いませんなァ
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(1)

「疲れとらんか真咲」

「へーき。けど、……飛行機乗るのなんてすごく久しぶり。修学旅行以来かな」

 エスカレーターを下るたびに怖い想像をしてしまう。

 万一転げ落ちたらどうなるのだろう。エスカレーターの、二三階を一息に降りる高低差がかなりのものだ。

 身のすくむ感覚から逃れ逃れ途中階に目を留める。プリクラの機械発見。「……お母さん、帰りにプリクラ撮ってこうよ」

「いややわそんなん。だいたい、お母さんみたいなんが撮るん恥ずかしいないが」

「……単なる写真の一種だよ」手すりに捕まる手に力をこめつつ母を振り仰ぐ。「みんな、手帳に貼ったり、交換してるし。紗優だってどっか行ったときおばさんと一緒に撮ってるもん」枚数が石井さんに及ばないながらも私も少しは。

「そんやて、訳の分からん機械ながろ? なに押せばいいかよう分からんもん」

「私が分かるから……」

「ああとらやどこにあんねろ。忘れんと帰りおばあちゃんに羊羹買うてかな」

「……お母さん。まだ着いたばっかりだよ」

 ぴかぴかに磨かれた白い床へのステップを踏む。

 ようやくしてさざなみ立つ精神も落ち着く。

 周囲を見回す余裕も出てくる。

 空港には春休み中のせいか、スーツよりもカジュアルな服装が目につく。男性が引く小さな子どもの一人でも入りそうな大きなスーツケースは海外行きだろう、それもアロハを着た家族四人で南の島行き……羨ましい限りだ。

 血相を変えて走りこむビジネスマンにぶつかられかけ、母は飛び退いて避けた。

 私より東京在住歴が長いのに、おのぼりさんって丸わかりの挙動にうっすら、幻滅する。

「そんなとこ突っ立ってないで、さっさと行くよ」

 私はツアコンさながらに、いや、もっと突き放した口調で母を促した。


 母は、母の言う通りのひとだった。


「……全然分からんわ」

 切符売り場に来て呆然と立ち往生する。そんな母に私はちょっと呆れつつ説明を加えた。「先ずね、上の路線図で行き先を探すんだよ。行き先が乗ってなければその駅になるだけ近い駅まで買うの。乗り越したぶんは降りた駅か乗り換えの駅で精算できるから。……例えばね」路線図を目で追わせる。「上野まで行きたいんなら、浜松町で山手線か京浜東北線に乗り換えるのは分かるでしょう。買うときはね、乗り換えのボタンを押して、そうそ……」

 パスネットもSuicaも無い時代。

 乗り換えの都度精算はできるけれども、都度精算口に並ぶとタイムロスをする。これからのことを考えると買える限り一枚に纏めて買う感覚は養っておくべき。

 母が今後一人で東京を訪れる機会などあるだろうから。

「……お母さんって、町田を出たことが無いんだ?」

 始発なのだから空いてるに決まってる電車に乗り込むのに躊躇する母をさておき、とっとと乗車し二人ぶんの席を確保した。母は、ホームのひとを不安げに眺め眺めし、ハンドバッグを胸の前で抱えようやくして乗車する。「無いわ。……電車なんかあんまり乗らんかったもん。行っても大和やまとくらいかねえ」

「……全然近いね」小田急線で一本、大概は相模大野で各停に乗り換え。

 母は、どんなに疲れていてもそっと座る。例えるなら着物を着てるひとの丁寧な所作で。男のひとの乱暴な座り方をしない。

 どかっと坂田くんの席に座る彼のことを思い返す。合格通知が来ると気丈に言ってはいたけども……いまごろ、勉強しているだろう。

 図書館の窓から二列目のあの席で一人、黙々と。

「荷物。邪魔ならうえに置いたら」

 ボストンバッグを母が膝のうえに乗せたまんまなのが気にかかった。

「からだから離したら忘れてまいそうやん。落ち着かんわ」

「じゃあ足元に置いたら」

「ほんでも、きたななるし」

「汚れるのがかばんの宿命だよ。洗えばいいじゃん」

 私が強く言うと、納得の行かない面持ちながらも渋々とふくらはぎの後ろと座席の隙間にボストンバッグを置く。お気に入りのTOMMY HILFIGERのミニボストンバッグを膝に乗せたままの私は頬杖をつきつつ、頼りない隣人を横目で見やった。「そんなんでどうするの。お母さん、一人で東京遊びに来れる?」

「真咲が一人暮らし始めたらお母さん、真咲のところ訪ねて構わんがね」

 それまではじめてのおつかいばりに不安げだった。

 こちらを気恥ずかしくさせるほどに方言丸出しだった母が。

 東京の地を踏み初めて口許をほころばせる。

「あ……」

 調子が狂う。

「ったり前でしょう」

 言い捨てて窓の外に逃れる。

 電車は既にスタートしていた。

 腸のなかをたどっているかの細く長く暗いトンネルが続く。息を止めていたら絶対に切れてしまう。地下を潜り続けている感覚だったが実際は地上よりはるかうえを走るモノレール。ようやく見えてきた外の世界は小学生の頃地理の教科書で見た、石油化学コンビナートといった雰囲気に近く、殺風景な倉庫街が続く。遠くに吐き出される煙、ひとの歩かない眼下の、宇宙の荒れた肌に箱型の建物と緑と線を継ぎ足したような、生命感の漂わない、まるで模型でも見てるかの境地を与える、

 ――これが、東京。

 帰ってきたという感慨など浮かばなかった。

 当初緑川をあれほど憎み、待ち望んでいた場所に戻れるのにも関わらず。感慨、といえば、柏木慎一郎を訪ねて緑川に戻ってきた日、母の姿を見て安堵したあのときが一番感慨深かった。私にとっての『ふるさと』がいつの間にシフトチェンジしていた。

 この気持ちの輪郭を捉えたこのときが、緑川を出てもっとも感慨深き一瞬だった。

 一方で、隣が随分静かだと思えば、……口を開けて、寝ていた。

 私は静かに息を吐く。

 母は、――田舎の人になってしまった。

 会話も方言丸出しだし、感覚的なものも、ぜんぶが。

 都会のど真ん中でまごつかれては、切符売り場の前で途方に暮れられては、危なっかしくて仕方がない。

 快速を避け普通にしたので、浜松町まで向かい合わせの座席は空席と思いきや、そうも行かず。競馬場で乗ってきた長身の男が、私の斜め向かいに座った。二人がけの席の真ん中に。手足が長く、私は足を自分側に引いた。だぼだぼの腰で履くジーパンとミッキーマウスみたいな大きいヘッドホンの組み合わせはウケ狙いなどではなくファッションなのだろう。音漏れが、……本人は難聴になるのではないかというレヴェルで、出来れば移動して頂きたいのだが、彼も、しばらく降りないだろう。

 露骨な視線を差し向けられようがリズムを取り自分の世界に没入している。

 曲目は『eyes on me』……マキが死ぬほどやりたいと言っていたゲームの主題歌だ。テレビCMが激しく流されているから私も知っている。紗優はプレステと抱き合わせで購入した。主人公がGLAYの彼に見えるらしく。なーなーあれやったー? って紗優に訊かれ、してねえと不服げに言い捨てていた。えーかんなり面白いよーあれなー、と続けにかかる紗優をうるせえ、と制止していた。

 ひとには長編小説のネタバレをしかけたくせに。

 つくづく、俺様なのだ、彼は。

 それでも、合格するまでゲーム断ちをするという、繊細な部分もある。

 思い出し笑いを封じ込めつつまぶたを下ろす。

「――これ真咲。起きんかいね」

 驚いたことに駅の表示が浜松町。

 一秒と思いきや、十五分が経過。

 母に揺さぶられ、目を覚ました。


 血は争えない。

 そういうものだ。


 * * *


「――ほんで? このへんで探しておるんかいな」


 バーコードリーダーを当ててみたら反応しかねないバーコード頭をまともに見るのも失礼と思い、ちょび髭に目を移す。

 そういった不自然な人々の目線の動きにおそらく慣れっこなのだろう。

 気にせず、といった感じで目をあげて母の反応を待つ。

「ええ。娘が大学に行くもんで、……大学のある駅がいいかと思うんですが」

「大学のある駅やのうて一駅二駅離れるんがベストやろなァ。あんま近すぎっと学生さんがたの溜まり場になるさけ」

「はあ」

 気抜けた母をさておき、どさどさとキングファイルを取ってき、物件を探すのはいいのだけれど、めくるときに唾を付けるのだけはご遠慮願いたい。


 この日は、母と物件探しを開始した。

 本当は到着した昨日の夕刻から探すつもりが、ビジネスホテルに戻って仮眠を取ったところ私が爆睡し、見かねた母が寝かせて置いてくれた。

 寝付きの悪い私がなかなか起きないのだから、それなりに受験や移動の疲れが溜まっていたのだと思う。

 すっきり快眠を得た本日朝のうちに移動を開始し、ホテルから二駅離れた、大学のある駅にて降車した。

 駅前の安心感漂う大きな不動産屋には何故か入らず、裏道に裏道を進み、結局迂回して駅の反対側に戻ってきてしまった。なにがしたかったのだろう、母は。

 いまどき木造でスライド式のがたつくガラス戸の、昭和というか明治と言われても信じられる年季の入った小さな、田中不動産、と力強い毛書体で書かれた看板のかかるそこを選んだ。

「こういうところのほうが、穴場の物件があるもんなげよ」

 いやに自信ありげに母は断言した。

 そしていまに至る。

 辛気臭いというかかび臭いというか。来客の応対用に事務デスクが二つ並べられているがそれ以上並べる需要が無いのだろう。昭和の酒屋さんや庄屋さんてこんな雰囲気だったろうか。この手の古めかしい不動産屋さんが揃って机に目盛り入りの緑色のカッターマット、それに透明のシートを重ねて置くのは何故なのだろう。スタイリッシュとは程遠い。所狭しと並べられた後ろのキャビネに、土地名で分類されたキングファイルが整理されているのはいいが、それ以外は雑然と、書類が縦に横に重ねられ、地震が来たらこのおじさんじゃなくて訪れた客が被害を被りそうだ、この臨場感。ピサの斜塔ばりの斜めに積まれた不安定さ、これで崩れないのがすごい。

「この駅で大学つったら、……東京学園大学か」

 質問され私は突きかけた指を紙から離した。「東京心理大学です」

「おおそうか!」

 ……少々心外だ。

 偏差値を二十は下回る大学を真っ先に挙げられた。

 へえ頭いいげなぁなどと禿頭を撫でおじさんはやや驚嘆しつつまた次のキングファイルをひっくり返し唾を付け素早くめくる。製品の製造工程を目の当たりにしてる感覚だ。「お母さんは……家賃、どんくらいまで出せそうなが?」

「はあ。十五万くらいで」

 素早く母を凝視した。


 高すぎやしないか?


 途端、高い声でおじさんが笑った。ちょび髭を指でぼりぼりと掻き、「ここらへんの相場は六七万や。オートロック付きの高層マンション住みたいんやったら話は別やけどなァ。このお嬢さんにはアパートかハイツで十分やろ」

 頭が悪い上に貧乏人認定までされてしまった。

 少々立腹の私に比べ母は不安に囚われている様子で、「女の子やもんで、……防犯面が心配なもんですから」

「ほんなら。駅から徒歩でえーと多く見て十五分内の、ハイツかマンションやろなあ。どやろ、ここなんか」

 徒歩三分。1K。南向き、バス・トイレは、「……出来れば別のところでお願いします」

 一緒だとお風呂タイムが落ち着かないとかカビるとか聞いたことがある。

 ははは、とおじさんは間取り図を指す私をなにが面白いのか笑った。こちらの不動産屋に他にお客さんが居ない理由を理解した気がするいろいろと。「条件はそんくらいかなァ、お嬢さん」

「はい。特にはありません」

「ほんやったらこれならどうや。駅から徒歩十二分。ちょっと離れとるがなァ、オートロック付き。築五年。大家さんが一階に住んでおるから安心やろ。……部屋空いておるか電話してみましょか」

「はい」今度は母が答えた。

 慣れた人の慣れた仕事ぶりというのはめざましいものがある。

 それから三十分もかからず、母と私は二言三言補足を入れる程度で、さっそく物件を三件見に行く運びとなった。

「わしゃあ、表に車出して来ますんで」大きな声で私たちに言うと、亀が顔を出すみたく首を伸ばし、「ミィちゃん、留守頼むわ」

「はい」

 どこからだこの声。

 と思うや否やおじさんの斜め後ろのキャビネが横にスライドし、隠し部屋ならぬ隠れ机が現われた。こちらと同じグレーのデスク、だが違うのは壁を向いて置かれていることと、そしてパソコンが乗っかっていること、この二点。

 こちらのおじさん自らがお茶を出しコピーもとったので、他に働いているひとが居ないものだと思っていた。

 存在感の希薄な、眼鏡をかけた、薄いグレー色のスーツを着ている、彼女。

 髪の毛を低い位置で一つに結った、大人しいOLの典型だと思った。

 でもタイプ打ちをする手つきは、見事だった。

 キャビネが防音壁の役割を果たしていたのか、控えめな、でも心地の良いタイピング音が聞こえてくる。黒のデスクトップに向かう座り姿が、ピアノを弾くエレガントなイメージとも重なる。

 ――タスクより速そう。

 凝視する私に気づき、こちらに顔を向け、わずかに、目配せをした。大人の仕草だと思った。私も大人になったらああいうの、してみたい。

「待たせてもうたのぉ。お母さんとお嬢さんはうしろに乗ってくだされ」

 乗り込んだ車の後部座席から再び田中不動産を眺めると、変わらずミィちゃんは仕事を継続しており、もう一つの仕事は後回しにするのだろう、私たちが口をつけた湯のみがそのままテーブルに残されていた。

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